コントラコスモス -23-
ContraCosmos



 騙されてたのか。と彼が聞くのでそうだと答えてやった。父親の名前くらいしか知らない子供を騙すのは容易かっただろう。
 するとマヒトはごく自然に、「悔しかったろう」と言った。私は動きを止め、驚いて目を見開いた。
 そうか。悔しがるのが普通の感情か。詐欺の被害者ならそう思うのが真っ当だったのか。気づかなかった。
 一瞬止まった片付けの作業を再開する。落ちた本を拾い集め、曲がってしまったページを直して本棚へ押し込んだ。
 それから背中を見せたまま、マヒトに言った。
「お前、もうここにはあまり来ないほうがいいぞ」
「……何を言うんだ」
「お前は、自分では気づいていないかも知れないが、天から贈られた得がたい宝石のような人間だ」
 この馬鹿げた不毛な世界の、狂った背骨を万力で支え続ける、心のまっすぐな働き手の一人だ。
 こういう人間はどうしようもなく歪んだ人間がいるのとちょうど同率の病のように、世界のあちこちに点在する。
 宝石がなくなったら、さびしいだろう。
「私はお前に傷をつけるよ。こんな汚い人間と日々話をしているだけでもよくない。お前は教会に帰って、正直で信心深い人たちと、……それから神様と一緒にいろ。
 時々来るのは構わないし、ハーブは林檎に言って、届けさせるから」
「お前は汚くなんかない」
「汚いさ。私は未だに塵ほども『悔しく』ない。それどころかあの男がまた戻ってきたら多分何度でも同じことを繰り返すだろう。言われればお前だって殺し兼ねない。きれいか?」
 薄い笑いを浮かべて、マヒトを見る。辟易して欲しい。呆れ果てて帰って欲しい。
 それがとても難しいことは分かる。何しろこいつは宝石だ。こんな分かり易い事例を見せ付けられたら撤退もしにくいだろう。
 だが、最近の彼は深入りし過ぎだ。もっと他にやるべきことがあるだろう。夜中に私の店に薬草を届けに来たり、解剖を切り上げて様子を見にやって来たり、ご丁寧に殴られたり、そんなことをして自身の未来を阻害している間に。
「……それでも、最後にはちゃんと自分から決別したじゃないか」
「違う」
 予想通り食い下がる彼に私は俯いて、やっぱり笑った。
「……お前は知らないんだよ……」
 自分は何一つ自分で跳ね除けたりしなかった。殺すために、ベッドの側まで行ったのだ。自分の意思で止めたのでないのなら、そうだヤライも言っていたことじゃないか――本当にやったのと、どう違う?
「…………」
 ああ本当に、私は汚い。ずるい。
 ヤライを味わったくせに。確かに一時、幸福を覚えたくせに今更……、騙されたなどと言い訳ではないか。
 泥のような思いの底からぼこぼこと気泡が湧き上がる。腰に右手を当て、本棚の前で額を押さえる私の側に、マヒトが立った。背が高いものだから、暗くなる。
「お前こそ知らないんだ。俺がどんな気持ちで毎日お前を見ているか」
 混乱していたせいか、何故だか言われていることの意味が分からなかった。ただ訥々と告げられるばかりだった。
「俺がもし坊主でなくてこんなふうに愚図でさえなかったら……」
 時を止める術はない。
 彼の手が私の額から私の左手をつかんで離した。ごく僅か上向く顔にマヒトのそれが重なり、唇が合わさる。
 ほんの数秒だったが、頬が脹れていたから引きつって痛かった。マヒトも殴られていたから、どこか痛かったかもしれない。
 逃げないでくれ。また来るから。
マヒトは言って、工房から出て行った。
 辺りは明るくなり始めている。
階段の遠くで店の扉が閉まる音がした。
 私はようやく一人になって立ち尽くし何をやっているのかと泣きたいような気分でザーザーと流れる血にめまいを覚えながら思った。







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