コントラコスモス -31-
ContraCosmos


「さっきの男。どこかで見た顔だと思ったら、あの店にいた男ね? なんだかだらけて妙な男。一体何者なの?」
 聖庁の中でもっとも豪奢な客間に、彼女が持参した上質の茶葉の香りが流れる。アンジェリナは旅先の趣味嗜好に期待しないタイプで、自分の身の回りのものはほとんど持って移動していた。
 従って部屋の中も、ブラネスタイドにいた時とあまり変わらない見た目になっている。見覚えのあるクロスに、見覚えのある茶器に、前と同じ机椅子だ。
「リップという青年です。確かに一見だらしないように見えますが、頭の回転の早い、落ち着いた男ですよ」
「ふーん? まあどうでもいいけれど」
 アンジェリナは何故か不機嫌そうに話を終わらせると、レースのドレスの前で華奢な腕を組んだ。どうにも彼女には不似合いな仕草だったが、少女は度々そうする。
「にしても、あなたがクレバナに来るのを妨げるほどの傑物かしら? あのぱっとしない下品な女といい、私には全然分からないわ。
 駄々をこねるのはよして、いい加減決めて頂戴。私、ここの堅苦しいのにはいい加減飽き飽きだわ」
「…………」
 彼女にとって「決める」というのは、「思い切れ」というのと同義だ。招聘を蹴るという選択肢は、最初から公女の辞書に存在しない。
 恐ろしく薄い造りの最高品質の陶器を、不器用に大きな両手の中で抱えながらマヒトは顎を引いた。
 彼は別段、この少女のことが苦手ではない。同僚達は娘の気ままさを恐れ、真面目な連中はひどく感情的に嫌がるけれど、マヒトにはそれほど怖い存在とは思えなかった。
 それに、確かにアンジェリナの示す条件は彼にとって良いものだ。誰だって、自分に好意を抱いてくれる人間を無下に嫌ったりはしない。
 ただ、だからと言ってそう簡単に、彼女の望む返答をするわけには行かないだけだ。コルタ・ヌォーヴォを去ると言うことは、マヒトにとってそう気楽な選択ではない。
 それによって得るもの、亡くすかもしれないもの。考え始めればきりが無いかもしれないが、二三日で結論を出すことはどうしても無理だった。
 マヒト以外の人間なら、適当な理由をつけて時期を引き延ばすことを考えたかもしれない。だが、彼はそれ故にアンジェリナが彼を気に入ったほどの単細胞である。
 今回も、黙って側に立つ侍従の前で包み隠すことすらなく、本心を口にした。
「アンジェリナ様。彼女らは私にとって生まれて初めての大切な仲間です。コルタでの五年間は彼女等と共にあり、それ無くして現在の私は有り得ません。クレバナに行けば、彼女らとの縁が薄くなるのは避けられないでしょう。それは私の日常にとって重大な問題です。だから籍を変えるようには、簡単に決められないのです」
 マヒトが言葉を切った後には、しばらく沈黙があった。爪を眺めながら聞いていたアンジェリナはやがてつと顔を向けると、丸い目で真正面からマヒトに言った。
「あなたって馬鹿ね!」






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