コントラコスモス -35-
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その日は第三木曜日に当たっていたので、教会では大ミサが執り行われ、巨漢坊主は来ないかもしれなかった。 私は気楽に店を開き、原料を用意し、ちらほらある客を適当にあしらい、教科書のように普段どおり過ごしていた。 好意を寄せられるというのは、時々面倒くさいものである。初めからやたら世間話をしたそうな客が来るのだって鬱陶しい。 私はそういう人間にも構わず無愛想に接するから、結局本当に用のある人間か、互いにそれが心地よいと思うような偏屈ばかりが集まる事になる。 前者の典型はマヒトであり、後者の典型がヤナギだろう。あのモグリは明らかに私のひねくれぶりを楽しんでいる(自分も同類だからだろう)。 マヒトは――、あれは、思えばぶらりと入ってきただけの客だった。来たのは私が店を開いてから半年後くらいのことだったろうか。 「あれ、こんなところに薬草屋があるよ」 という感じで、多分に冷やかしのつもりで寄ったのだろう。が、たまたま彼が長く探していて入手できずにいた薬草が見つかったのが縁になった。 それに当時は今よりももっと医学の立場が悪く、彼は同じ知識分野を持った話し相手に飢えていたのだ。 体の大きな刈り込みの、田舎者丸出しの神父が嬉しそうにカウンタに張り付いている図を想像するといい。ものすごく鬱陶しかった。 私は最初奴が来るとうんざりし、早く帰らないかなあと腹の中で思いながら生返事をしていた。それが今にいたるまでの常連となったのは多分、マヒトに私心が無かったためだろう。 彼はただ医学の話をしたいだけのことで、自分の知識をひけらかしたり、見栄を張ろうというようなところがなかった。あの癖のあるヤナギと仲良くなれたのも、その純粋さが伝わったからだろう。 一体、どういう育ち方をすればあんな人間が出来るのだか。私は、ヤナギやリップのものの考えについてはまだ予想が出来る方だが、あれについてはもう……。 世界に対する目が根本的に違う。彼は信頼を基礎に辺りを見るのだ。疑いを出発にする私などとは、見えているものが違う。 だからまあ、いつかは正さねばならなかった齟齬ではないか。いつ迄もこのまま、間に巨大な違いを抱えたまま進んでいけるものではなかっただろう。 彼の好意は私には負担でもあった。 幸福な人間に気を使う必要はない。教えてやるべきだ。お前は幸福な奴だと。 午後五時すぎ。暮れ始め誰もいない店に、奴はやって来た。大きなミサが押して終わって、晩課までの僅かな時間を、わざわざお茶の一杯に割くために。 しかもその日は何だか様子が変だった。世間話をするでもない。神妙にハーブをすすりながら私と顔を合わそうとせず、自分の中で何かのきっかけを待っているようなのだ。 ああ鬱陶しいなと私は思った。嫌な予感がしていた。空気が温くなり、濃い砂糖のように鼻先にまとわりついていた。 「あのな」 ようやくマヒトは口を開く。顎と一緒に、大きな体の内でわななくものを押さえながら、いかにも苦労して言葉を選んでいた。 「留守にしてた時、旅先から、お前に手紙を書いたろう」 「店にもな」 「そう、店のみんなにも。それで――、それを書いた後、真夜中だったんだが、街の外に散歩に出た」 あれは真冬のことだった。ご丁寧なことをしたものだ。 「ノルデンブルクは高地にあるから……、星がすごいんだ。冬だったから目に痛いほど夜が冴え渡っていて、一度見たら、おいそれとは帰れなくなった」 「それで?」 私はカウンタの奥の棚に背をつけて、腕組みをして聞いていた。 「うん――、それで」 マヒトはガリガリと頭を掻く。 「歩いて歩いて、枯れた草原のど真ん中に立った。 きれいだったよ。 星じゃないんだ。世界の全てがきれいだった。空気も、地面も、遠くに見える街の明かり、彼方に見える黒々とした森。 世界は下半分が匂い立つ土で、上半分は光がこぼれんばかりの天蓋。 あんまり凄いんで……、そのまま茫然としてそこに立ってた。そのくせ眉間に皺なんだ。流れ込んでくるものがあんまり大きいから、俺が壊されそうな感じがした」 瞼を閉じた。 「捕まったような気がしたよ。されるがままだった。もう帰ったほうがいいと思っていても、足が動こうとしないんだ。 俺みたいなすっからかんな人間は、こういうことすべきじゃないんだな。と分かったときだ。 突然、何かが血液の底から湧きあがってきた。咄嗟に堪(こら)えられない、と思った。思った途端全身が震えた。 堪えられないと思った。俺は何か叫びたくなった。だが言うべき言葉が見つからなくて苦しかった。遠吠えをしたくて出来ない獣みたいだった。 ……あれは何だったんだろう。よく分からないんだ。天からでも地からでもなく、自分の骨と血の中から、一つの言葉が俺の中に突然現れて四方へ波紋を投げかけた。 それは音だった。白波のように駆け抜けながら俺の細胞一つ一つを作り変えて行くかのような音だった。 聞こえるのにうまく言えないんだ。それを口に出してみたいのに分からないんだ。俺は夢を見たのかもしれない。ふらふらと歩いて、街まで戻ったよ」 マヒトは目を開くと、今はもう落ち着いて、私を見た。私は意地を総動員して冷静に受けた。 「それが最近、何となく分かりかけてきたんだ。あれは一種の悟りで……。どうやら――、俺はお前が好きらしい」 さすがに心臓が跳ねた。 しかしまあ誰だって、面と向かって坊主からこうもクソ真面目に言われたら、一跳ねくらいするだろう。 「ああ、そう」 話は終わったのか。という顔で私は仕事を再開する。一日で使用した茶器を仕舞うために乾布で拭って行った。 「うん」 カウンタのマヒトは空の茶碗の側に腕をついた。 「ごめんな。変なことを言って」 「別に?」 純粋な話だ。私心の無い。迷惑というレベルまで来ていなかった。 だが如何にマヒトといえども、ここで止まるということにはならなかった。その先を尋ねたくなるのは人情だ。 「それで?」 「何が?」 承知のくせに私は反問した。人間は時々そういう真似をする。 「お前はどうなのかと思って……」 口にしてマヒトはさっと顔を赤くした。ここから先は私心の、そして見返りの領域だ。 彼の魂はそのことを知っていて、自らを羞じたのである。 「……別に?」 茶器を持ったまま、私はまた言った。 「嫌だって訳でもないが……。大体私等は友人だろ? 私はお前をそういうふうに見たことはないよ」 「……これからは?」 「…………」 私はマヒトを見た。マヒトもまた一途に私を見ている。私は先にシャッターを閉じた。 「悪いな」 背を向け、後ろの棚に皿を戻す。 「ヤライを愛してるんだ」 ノルデンブルクの夜の静寂が、店の天井に降った。私は作業を続けたけれど、そこから生まれる音はもはや音ではなく、儚く空気に呑まれるばかりだった。 随分経った後だったと思う。 一瞥すると窓の外はすっかり暗くなっていた。そうか、とマヒトは呟いた。 「そうか。分かった」 席を立つ。 「悪かったな。何だか馬鹿なことを言って」 「気にするな」 「……まあ大丈夫だと思うんだが、ひょっとしたら二、三日空けるかもしれない。こっちのことだから、構わないでくれ」 「分かった」 「では、ご馳走さま。お休み」 「またな」 のっぽの坊主は出て行った。私は彼の使ったカップを下げ、水の中へ沈める。 大きな泡をニ、三吐いて、陶器は底へ沈んでいった。 |