コントラコスモス -42-
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ヤナギの医師は生き延びていた。 彼の家は聖庁と川に近い地区であったけれど、恐ろしく入り組んで道幅も狭い場所なので、騎馬は入れず、さすがの騎士たちも深入りはしてこなかったのだ。 路地を抜けて入り口辺りの家々はそれでもしつこく破壊されていたが、そのレベルも軽く、大体が彼にはこれしきの戦禍胸に堪えるでもなかった。 彼は『人の悪夢』と言われた十五年戦争を見たのだ。以来眼球は闇に慣れ、良くも悪くも無感動になった。 女はそうでもなかったから、火が立ち上っているのを部屋の窓から眺めながら神の名前を呟いていた。愚かな真似だと思う――神様なんぞをあんな場所へ持ち出してきてはならない。あれはアルファからオメガに到るまで、全く人間の所業だ。 ヤナギはまず薬草屋へ行ってみた。理由も無く平気そうに思える場所だ。しかし扉は開いたまま、内部は荒らされ、主人の姿は消えていた。辺りに常連の姿も無かった。あれあれと思う。 薬草やら陶器の破片やらを踏み、カウンターに進んだ。椅子を引いて座ると、懐から煙草の道具を取り出し、一服にかかった。 と、風通しがよくなった窓の向こうから、男二人の話し声が聞こえてきた。中庭に抜ける路地のところにでも立っているのだろう。 ……マチュア公らと枢機卿らの話し合いがあったらしいが……、教皇の奪還は望まないとか……。じゃあどうするんだ……。……新たに、教皇を立てるつもりらしい……。……じゃあ今の教皇はどうするんだ……。『正統とは認めない』とか……。 ……じゃあこの世に教皇が二人できるのか……。そんな頓珍漢なことがあっていいのか。 ……多分、あの教皇を、何とかしたいと考えてた人間がたくさんいたんだよ……。一緒に着いて行ったのは側近中の側近だったらしいしな……。全く絶好の機会だったってわけだ……。 何を考えてるんだ坊さん方は……。連中が地固めに奔走してる隙に怪我人が死んでいくんだぞ……。 先生方も必死なのさ。何しろ教皇が負けたんだからな……。この世の太陽が叩き落とされたんだ。心が騒いでしょうがないのさ……。 じきに男たちの声も止む。ヤナギはいい香りのする煙をゆっくりと喉へ滑らせて味わった。 街鳥の声が聞こえる。遠くでは金槌の音がしている。やがて一服を終えると、ヤナギはパイプを掃除して、再び懐にしまい込んだ。 店を出、三階をうかがってみたが人がいそうな気配は無い。ついでに美人の花屋の安否を確認しておこうと思い、彼は通りを下った。 争乱の日から三日。玄関を修繕している家がある。手に包帯を巻いた子供たちが走り抜けて行く。商売を再開した店もあるようだ。 勿論これは明るい昼間の話に過ぎない。 だが確かに、人間は図太い。 ヤナギは先の戦争の際、絶対に世界が終わると信じていた。とんでもなかった。お笑い種だった。 荒れた場所を片付け、整理し、新たな建築を為して、弥増(いやまし)に生活を広げる。それは菜花についたアブラムシのように、取っても取っても、また舞い戻ってきて数を増やすのだ。 だからヤナギは最後の審判の話を聞いてもあまりぴんとこない。実際にそんなものがあったとして……、さて一体いつ訪れるのか、それは。 角を曲がると二度ほど来たことのある花屋の看板が見えた。と、店の扉が開き、見覚えのある男が一人――リップである――、中から出てきてすぐと反対側へ消えて行った。 だらだらした感じはまるで無かった。背筋が伸びちゃってまあ……。青年士官のようだ。 ヤナギは彼の代わりに扉に近づいた。相手は淑女なのでノックをし、声を掛けてからノブを押す。 「あら……、こんにちは」 花屋も無事だった。いつものように髪の毛をきっちり纏め上げて身奇麗にしている。ただその腹部はもう、傍目にもはっきり分かるほど膨らんでいた。 「先生、無事だったのね。何よりだわ」 と、優しい目で、ゆっくりと笑う。 「あんたもだね。悪いがミノスの店が潰れてるんで……、お茶の一杯でも、ご馳走してくれんかなあ」 「ええ、どうぞ。今お湯を沸かしますね」 「窓を開けてもいいかい?」 「ごめんなさい、どうぞ。朝からバタバタしてて、どうも片付かなくて」 ヤナギは草臥れた手で窓を開いて回った。店の中に風と光が入るようになると、もそもそとすすめられた椅子へ戻る。 「さっきリップの野郎を見たよ。守ってくれたのかい?」 「……ええ。じゃが芋と一緒に貯蔵庫へ突っ込まれたときには、どうしようかと思いましたけどね。でもやっぱり、生きててよかったわ。感謝してます」 何だかちょっと昔のことのように話すんだな、とヤナギは思った。軽い茶菓子を運んできた彼女の顔を見てその感は更に強まった。 この静かでさっぱりした態度は、自分の中で何かを解き放った人間のそれだ。どうやら自分は、一勝負着いた後にのこのこやって来たらしい。 「リップはどこへ行ったんだい」 花屋は静かに「カステルヴィッツへ」と答えた。 「…………」 ヤナギの眼差しを受け、小さく微笑んで、座る。薬缶はまだうんともすんとも言わない。 彼女の目元には伏した睫毛の影が滲んで、愛情のこもった画家の陰影のようだった。 「……ミノスさんたちを助けに行くんです。あそこへ」 ヤナギの頭の中に、先刻見かけたリップの姿が、時間が巻き戻るように蘇った。身を屈め、膝の上に肘を着いて、顎を乗せる。自然と眉間が曇っていた。 「ミノスはどうしたんだい」 「……北ヴァンタスの兵士達に、連れて行かれたんです。あの人は本当は、あの国の宮廷で王の真後ろに控えていても不思議じゃないくらい、重要な血縁の毒物師なのですって。 それが……多分厭で、ミノスさんは逃げ出してきたらしいんです。だから見つかって、連れ戻されてしまった」 「殺される?」 「いえ、寧ろまた毒物師として使役したいんだろうと、リップは……」 「なるほど」 ヤナギは肯いた。 「それで、ミノス『達』とは? 他に誰かが一緒に?」 「ええ……。マヒトさんが」 「そりゃまた、ご丁寧に。釣り餌にでもされたか?」 「そうみたいです。だから、リップは二人を助けに行くって」 「……いいのかい?」 「よくはないわ」 花屋は顔を上げ、きっぱりと否定した。 「でも、止められません」 「……」 部外者の自分が、出尽くした結論を一々確かめて行くのは野暮だとヤナギは思った。 北ヴァンタスへの諸侯の出兵はまず無い。聖庁は既に教皇を見限った。 その上、外国の兵士がウロウロする街に、一人身重で取り残されたこの女性の決意の程を確認し、悦に入ってそれでどうする。 ただ日々、この女性を気に掛けよう。それからまあ、いかにも感に堪えないから、膝を叩いてこれだけは言う――。 「馬ッ鹿だねえ……」 寂しそうに、少し涙して花屋は笑った。見ないようにしながら、ヤナギは渋い顔で虫を払うように手を上げる。 「全く馬鹿だよ。知恵が足りないとはこーゆーのを言うんだ。少しは聖庁の坊さん方を見習え。 遠い危険に呼ばれて身近の女を切るなんざ、下の下だ。もうちょっと頭がいいかと思ってたんだがな。見損なったねえ」 「ええ、まあ、本当にそう……」 熱くなった薬缶が呼んでいた。指で目元を素早く押さえた後、花屋は静かに立ち上がる。 「でもね、これで前よりはちょっと子供に恥かしくない言い訳が出来ると思いますよ」 「……『帰ってくる』と?」 「『運がよければ』ですって。だからもう、それを考えるのは止めにしました」 「…………」 「何でもね、マヒトさんみたいな人が利用されて犠牲になるような世界に、子供を連れてくるのは嫌なんですって」 |