コントラコスモス -45-
ContraCosmos


 コルタ・ヌォーヴォは青い闇に沈んでいた。マヒトは小さな連れと一緒に、空になった心が命ずるまま、ゆっくりと街を泳いだ。
 昔のように。だが体は水に濡れたように重い。それが長旅のせいなのか、それとも胸の内を被っているのか、まだらでどうとも判じかねた。
 街並みは確かに変容していた。新しい建物は祈りのように真っ白の外壁が多い。しかし道のつくりは以前のままで、それほど歩行がままならないこともあるが、マヒトは迷うことも無く、やがてある場所へ招かれた。
「……細い道なのね。こんな場所、あたし知らなかった……」
 カナが目を見開いてきょろきょろしている。そう、こんなに細くて小さかったか……。以前はそうとも思わなかったが。
 そしてつま先に、網膜が焼けるかと思うほど愛しい建物が現われた。もうリップは三階に住んでいない。二階には今も大家がいるのだろうか。一階は……。
 何だか心臓が痛む。足しげく通ったこの建物は、今は誰のものになっているのだろう。
 ここに彼女がいないことは重々分かっていながら、何かに惹かれて彼は扉の前まで歩いて行った。扉は新しい。窓も少し変わっている。やはり、別の人間が住んでいるのだろう……。
 マヒトは掌を出して、木の表面を触った。その時、
「――お坊様」
 背後から声がした。マヒトと少女は振り返る。
 薄闇の中に立っているのは見覚えの無い男だった。だが相手はそうではないらしく、目を見開いて前かがみにまでなっている。幽霊にでも遭ったかという態だ。
「失礼。ちょっとこの場所に縁があ……」
「人違いでしたら申し訳ありません。……ひょっとして、マヒト神父でいらっしゃいますか……?」
 語尾を食らうその問いに当人は眉を上げた。
「そうですが……?」
「ちょ、ちょっとそのままお待ち下さい! すぐ戻りますから……!!」
 一階の住人らしい。なにやら泡を食って鍵を回すと閉めもしないで中へ入っていった。どこまでも身に覚えの無いマヒトは呆気に取られて避けた姿勢のまま、それを見送る。
「……今の人、お耳が無かったわ」
 カナが呟いたその男は、確かにすぐに戻ってきた。室内着に薄い上物を羽織った、震える女性を携えて。
 背が違っている。もはや三つ編みでもない。けれど面影があった。
「――林檎……」
 虚ろな喉の奥から名前を搾り出すと、既に成人を越してすっかり様変わりした彼女の顔がぐしゃり、と潰れた。
 両手できつく口元を押さえ、こみ上げる嗚咽を懸命に堪える。けれど、透明な涙はぽろぽろとそれを越して空へ落ちていった。
「…………ッ……ッ……」
 マヒトを前に、何か言おうとするが、声にならない。呼吸と一緒に上下する細い肩の向こうには、先の男が彼女を支えるかのように無言のまま控えていた。
「…………ゆるして……」
 長い時間をかけて、ようやく形になった一語に、マヒトは覚えず微笑していた。彼女が自分に何を伝えたいのか、もうはっきり言われるまでもなかったし、聞いた瞬間に願いは叶っていた。
 それで左手を差し出してその頬の涙を拭う。雫が心に染み入って柔らかい慰めに変わるのを感じながら。
「……ここには今は、君が住んでいるの?」
「はい……」
 目の縁を赤くして、鼻をすすりながらようやくのこと彼女は答えた。
「私……。取り返しのつかないことをしてしまったから……。せめて取り返しのつくところだけでも、何かしようと思って……。いつでもミノスさんが戻ってこられるように……」
 後ろの男が灯りを足した。店の中がぼんやりと浮かび上がる。
 以前と同じだった。ほとんど全く同じままに維持されていた。いつも座っていた席も。めまいがしそうだった。
 家族を失った林檎は家屋敷と財産を相続したが、家は一人で住むのには広すぎるために、ここをねぐらにしているのだという。父親がしていた商売の方は、以前からの使用人であった男が(彼女はハラスと呼んだ)、手の中に納まる範囲で行っているらしい。
 お店を開いてはいないけれど、お茶も入りますよ。飲んでいかれますか。まだ涙に濡れながらも彼女は言う。
 迷ったが、マヒトは目を閉じた。今ここで座り込んだら、一生立ち上がれなくなりそうな予感がした。
「また来るよ……。その時にご馳走してくれ。この子も、一緒に連れてくるから」





 見送られた店を後にして、マヒトは更に歩いた。林檎の微笑を胸に、償われるものと、決して償われることのないもののことを考えながら。
 マヒトは、絶対に自分を偽らず歩んできた。今も昔も。誰に問われても困らない。
 単細胞なのは無論だが、自らの感情を偽らぬことが自分は勿論、他人にとっても誠実なことだと信じてもいる。
 だが、たとえ自らに忠実に生きても、誠実を尽くしても、全能には程遠い故、どうしても手をすり抜けていくものはあり……、回復の叶わぬ傷は生まれる。
 例えばそう、『死』がそれだ。
(――時間は戻らない。)
 彼女はリップに言ったそうだ。
(戻らない。)
 分かっている。
受け容れるだけが俺の能だ。
 いつかは、記憶を収めて自分も、他の誰かとお茶を飲まねばならない。いつかの夏至祭では目をつぶって、他の誰かと踊らねばならない。 嘘偽りのない選択の結果なら、尚更に。
 諦めの話をしているのだ。
彼女は死んだ――、自分は生きている。
(生きている以上、何とかせねばなら)
 分かっている。
 自分は与えられた優しい人たちで傷を癒すことを、じきに覚えねばならないのだ。その点で恵まれていないとはとても言えない。リップもいる。花屋も、カナもいる。林檎とも再会した。その数は増えるだろう。



 けれどまだ信じられない。
いつか肯んじなければならないと知っていても、
失ったことを飲み込めず苦しい。
 それ故に壊れた足が望むまま歩く。
聡明な少女を供に門を越して、街の見渡せるあの丘の上まで。或いは、力尽きて倒れるその朝(あした)まで。







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