scene 2




 カウンタに戻って、ビールを五杯立て続けに飲んだ。
一杯は今の電話について諦めるため。
一杯は全て大したことはないと思うおうとし、
次の一杯はそれに失敗したからで、
一杯は惰性で、最後の一杯は出て行く弾みをつけるために空にした。
 すきっ腹だからさすがにちょっと視界が回った。その感覚を待ち侘びてもいた。酔っ払った時は、体をしたたかぶつけたって、痛くはないものだ。
 勘定を済まし、今日初めて入ったカフェーを出て、いまいち土地勘が湧かなかったので分かるところまで戻ることにした。
 外は凍える夕方だった。灰色の空が面白くもなさそうに暗くなっていく。身にまとっていた暖が、一歩、また一歩と川から吹く二月の風に奪われていった。
 寒いな、畜生。心の中で悪態をつき、見覚えのある階段を下って、駅へ入った。
 駅は帰宅の人々で混み合っていた。のろのろ歩いていると迷惑そうに突き飛ばされた。何をそんなに急いでるんだよとぼやきそうになって、自分がまるで世間から取り残されたアル中の親父にでもなったような気がした。
 彼は切符を買った。大儀そうに自動発券機を操作する姿は、行きたくない仕事場に行く人間によく似ていた。
 こうやって改札までやって来ながら、ぐずぐずしている自分と、周囲の人々はいかに違うことか。彼らは、「家へ」という強固な望みに従って急いでいる。
 家へ帰れば安らぎが。家へ帰れば愛情が。…ほんの二日前までは、自分だってそう考えていた。
 昨日と今日では、いかに世界が違うことか。
しかし――――いつかは、と考えてはいなかったか。目の回るほど忙しい日々の中で、置いてきぼりにされていく細々とした帳尻。積み重なるごまかしと、解消されぬままの違和感。
 汗をかいて走りながら、こんなことがいつまでも続くわけはないと考えてはいなかったか。いつかはエマだって――――いや、まさかこれほどバカなことをしでかすとは思いもよらなかったが。
 それに、あらかじめ充分な知識を与えられていたなら、地獄に耐えられるってものでもない。彼は唇を右の親指と人差し指で拭った。まさに今は、地獄にいる心境だ。
 つまり人の地獄というのは、存外簡単に来るものなのだ。彼は幽鬼を引き連れて地下鉄に乗った。行き先を間違えた。初めて酔っ払っていることを自覚した。
 顔と心をくしゃくしゃにして下車し、反対方向行きの電車にまた乗った。我ながら滑稽だった。トンネルの中を近づいてくる轟音と寒気に体を震わしながら、自分は世界一の間抜けだと思った。
 ようやく正しい路線に戻り、大きな駅で乗り換えをした。地下道を五分も歩かねばならない。足早に自分を追い越していく人々と気分が合わず、それらが人間ではなくてうねる波か何かのように思われた。
 ―――――ふと、音楽が聴こえてきたのでゆっくりと減速した。立ち止まって、不安に揺れる波の中を探すと、壁にギターを弾く男がいた。足元に皮で出来た筒がおいてあって、金が幾ばくか投げ込まれている。
 しかし聴いてる者はほとんどいなかった。時間がよくないのかもしれない。皆演奏をいいBGMにして、ますます足早に進んでいく。それでも学生らしい女の子が一人留まっていたが、彼が近づくと入れ替わりのように水に戻ってしまった。
 ギター弾きはどこかで聴いたことがあるジャズなのだけれど、題名の分からない曲を弾いていた。そっと囁くような低音が懐かしくて、彼は両手をポケットに突っ込んだまま、じっと傍らで、耳を傾けていた。
 アルコールが脳内でギザギザした花を咲かしている。今日見た色んなものが、色んな言葉が、脈略もなく浮かんでは消えていった。湧くはずの痛みをぼかしながら記憶は段々と奥を目指し、まだ学生だった頃のことや、昔の仲間のことや、見知らぬ人に受けた親切のことや、飛び降りて死んだ男のことや、様々なものが許容を超えて、今の自分に構っていられなくなった。
 いつの間にか曲は終わっていたが、彼はそれにも気付かなかった。減っては増え増えては減る人々を背景に、苦しげに目を閉じて小柄なギター弾きの前に突っ立っていた。



「『イッツ・フォクシィ』という曲だよ」
 言葉が聞こえて、彼は、左から順に、まぶたを開いた。すると、ギター弾きは首からつるした楽器の側面に両手を置いて、こちらを眺めていた。
 彼はようやく正気に戻ってこの世の常識を思い出し、ポケットから小銭を筒の中へ放る。
「ありがとう」
という相手に尋ねた。
「こんなところに一人でいて寒くはないのか」
「夏は暑く、冬は寒いのがこの商売だ」
 短くて太い指で調弦しながらギター弾きは笑う。歌っているときとは声が違った。
「きついだろう?」
「俺にとってはエアコン完備のビルにいるよりずっと性にあってる。リクエストはあるか?」
 ギターを構える彼を、手を上げて止めて、さらに尋ねた。
「夢を見たりはしないか?」
 ギター弾きは、ようやく男がそこらの事務所から出てきたサラリーマンでないことが分かったらしく、顔を傾げて眼鏡の奥の彼の目を覗き込んだ。二度コードを爪弾いて、それから答えた。
「待ってたことがあった。ここに立って、こいつを弾きながら、上の空で。自分じゃいい音を出してるつもりでいた」
「何か来た?」
「ろくでもないものが来た」
 二人の背後を、再び膨れ上がった人の波が流れていった。
「でもじきそれは、俺自身が呼んだんだと分かった。以来、待たないことにしてる。
 …しっかりしろよ。あんたも相当待ち受け顔だぜ、お兄さん」
 ギター弾きは目で「もう帰れ」と言った。それで、彼はその身を引き剥がして再び、人々の中へ戻った。






 それでも無駄に時間をかけてアパルトメントまで戻ってきた。勿論すっかり夜になっていた。途中のカフェーで何杯も、今度は濃い蒸留酒を飲んだ。
 一階の踊り場で階段の手すりに手の甲をぶつけた。と思ったら蹴躓く。自分の馬鹿さ加減に絶望すら感じながら、借りた部屋まで昇っていった。
 待つな。待つな。待つなと足音が螺旋階段に応えた。何も待つな。何も望むな。諦めろ。これくらいの躓きは、幾らでも。
 そうだ。と橙の丸い天井ランプを見ながら彼は思った。こんなことは、ありきたりなこと。
いつだって、行われてきたこと。
分かっていたことじゃないか。
今更、処女のように傷ついた振りはみっともないぜ。この世に生まれて、十年や二十年じゃあるまいに…。
 だが、反動を示して湧いたその僅かな自制心も、部屋に入って、その有様を目にした途端、ばっさり駆逐されてしまった。
 靴箱が半分以上空だ。コートハンガーは空っぽだし、手袋や帽子といった小物もない。腫れた胃壁をえぐられるような感じがして、実際立ったままみぞおちを押さえた。彼女が買った折り畳み式の自転車もなく、いつもそれが立てかけてあった壁は、寒々と白い地肌を見せるばかり。
 居間へ到るに尚更だった。ひどく散らかっているということはないが多量に物が動いた形跡があり、あるべきところに何かが足りないような不在の徴があちこちに見られた。電気を点ける気にならなかった。ましてや寝室や浴室や彼女の部屋など入る気にもなれない。
 壁で電話機の留守録ランプが生き物のようにゆっくりと瞬いている。件数のデジタル表示は三六件などと抜かしている。惰性でボタンを押した。
 一件目、無言。二件目、無言。三件目、無言。四件目、『――――変態』
 居間のソファに腰を下ろした。眼鏡を取った。世界が渦巻いている。脈が鼓膜に砂を削るような、ざらざらした音を立てて喘いでいる。
 草臥れていた。冷えた体のあちこちが痛んでいたし、それ以上に、神経が消耗しきっていた。
十件目、無言。十一件目、無言。十二件目。
 待つな。待つな。
…待つな。
 病人のように呟いたが、もはや手応えは薄く、雪崩れるものを食い止めるには足らなかった。
 一日、いや二日。裏切られ、辱められ、名誉を傷つけられ、人格を疑われ、深い孤独を味わわされた。所詮人間は独りなのだという、好調な時には忘れている真実を、連中は親切にも寄ってたかって思い出させてくれたというわけだ。
 彼はそれを引き受けようと思った。許そうと思った。自分のことを小児愛好者だと局の連中に中傷したエマ。その真偽を自分に確かめようともせず、是幸いと自分を切った番組のプロデューサ(彼とは最初からそりが合わなかった)。森の小動物のような目をして、面白そうに遠まきに見ていただけのスタッフ達。
 彼は今はワークショップも本当に始まったばかりで、子供達もようやく楽しみ始めたところだ。中途半端になるのは厭だから続きをさせてくれ。と頼んだ。
 しかし、プロデューサは言う。悪いが俺も子を持つ親として、教育番組に参加している子供達を危険な目に合わせるようなことを是認するわけには行かない。
「危険な目とはどういうことだ」
 尋ねると、彼は「なに」と曖昧に笑って言った。
「醜聞という意味さ」
 これ以上拘ると、本式に探られることになるぞ。今は内々の、単なる噂で済んでいる。今のうちに収めておくのが賢明だ。君のためにも。そうじゃないのか?
 叩かれた肩が燃え上がるようだった。何か汚れたものが伝染するんじゃないかという気がする。彼はそのプロデューサの虚言癖も知っていたし、汚いところも幾つも知っていた。ワークショップに参加している十三の少女の体を見て、「もう一人前だな」などと抜かしていたのは当の本人でなかったか。
 そしてエマは、以前その男の悪口を言っていたくせに、今回はこともあろうにその男に嘘の密告をし、スタッフ達は、そんなからくりを知っていたにも関わらず、誰一人、自分を擁護しようとしなかった。どじなウエイトレスの失態を見て静かに冷笑するように、下手を打った自分を横目で眺め、楽しんでいるだけだった。
 だからきっと、その機械が人を飲み込んだのは今回が初めてではないのだ。慣れた彼らは、ああ、また誰かバカがはまったよ。というくらいに思っているのだろう。どうせ代わりの人間なんて、あの業界には腐るほどいるのではないか。
 戦いが全て曖昧な感触のうちに負けに終わり、自分に言い聞かせようとした。ありがちなことだ。いつの世にも起きてきたことだ。下らないことに巻き込まれてしまって、運が悪かっただけだと。
 二十一件目、無言。二十二件目、無言。二十三件目『バーカ』、二十四件目、無言。
 待つな。期待するな。あんな連中のことなど考えるな。影響されるな。こんな些細なことで自分を見失うな。汚されるな。
 それでも、血から湧き上がる何らかの「思い」が、洗剤で出来た泡のように表層に螺旋を巻きつけながら膨張していった。
 留守録は延々と続いていた。闇の中で立ち上がった。これ以上飲んでもいいことはないぞ、と体が警告を発したが振り切るようにワインのボトルを二本、コップと栓抜きとをつかんで戻った。いつかエマとスーパーで買ってきたワインだ。栓を抜き、大きなコップに並々と注いで、空っぽの体に薬を飲むように流し込んだ。
 次々と同じ様な勢いで継ぎ足した。酔いが加速されてきたが、それでいて表情が死んだままであることが自分でも分かった。耳の奥でさっきのギターが鳴っていた。
 どれくらい経ったのか、やっと、もう喉が痺れて飲めない状況になった時、ソファに横たわって彼は、自分が孤独だと思った。



しっかりしろよ、お兄さん。
待ち受け顔だぜ。



 待つなだって?
いや…。いいや。俺には無理だ―――――
 重たい意識が落ちる最後の瞬間、流星のように望みが瞬いた。






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