scene 1





 女優ミミの参加が決まると同時、ジダンは台本を大幅に書き換えた。今まで「マリー」にあたる役をミラに当てていたのだが、それをミミに振り替える。
 ミラにはジャン・バチストと同様に、一人六役も七役もこなす舞台回し的な役へ移ってもらった。
 彼女の実力と今後を考慮した上での配置換えだったが、これには当の本人よりもデミトリから強い抗議の声があがった。
 しかも大声で、話が出た途端立ち上がっての「何を言ってるんだ」だった。彼はこれまでも演出方針や芝居の内容について何かと意見したり、つっかかったりしていたので、ジダンに対して不満があるらしいことは、周囲にも薄々知れていたことであった。
 しかし、これほど大きな声が出たことはなかったので、役者全員が輪になって椅子に座していた稽古場には緊張が満ち、視線がデミトリとジダンとを交互に伺う。
「君らは、稽古の途中で台本を直したりしなかったのか?」
と、眼鏡の奥からジダン。
「したさ! だが皆で話し合った後にするもので、こんな一方的なやり方はしなかった!
 オフが明けたらいきなり配役変更か?! しかも、自分が使いたい役者を皆になんの断りも無く参加させて、その代わりにミラは降格かよ! 無礼だろう!」
 ジダンはいきり立つ青年から視線を転じて、ミラを見た。デミトリの二つ隣で彼女は、沈んだ申し訳なさそうな顔をしている。
 いま一人の元「α」メンバー、ジャン・バチストは表情を殺していた。ジダンの傍でミミがしているのと同じに。まあ、年慣れた者の反応だ。
 注意を戻す。
「――――降格?」
「そうだろう! ヒロイン的な立場から、コロスになるんだぞ? 降格以外の何なんだ?」
「………」
 ジダンは答えず、目を伏せた。そして距離をとったままの冷淡な声で、切り捨てた。
「どう受け取ろうが君の勝手だ。だが配役も台本も新しいもので行く。
 稽古を開始する。五場から立てるから、ヨシプ、ミミ、ジャン・バチスト。集まってくれ」
「はぁーい」
 故意にバカっぽい返事をした後、ミミは無視されて怒りのやり場を無くしている青年をちらと見上げた。
「他の者は呼ぶまで個人練。解散」
 役者達が立ち、パイプ椅子を畳む音ががしゃがしゃと稽古場に響く。立ったままのデミトリはぎょろりとした目で辺りを右、左と眺めた。
 居合わせたスタッフ達は彼と目を合わせまいとする。その間を何も考えていなさそうなヨシプが腑抜けた面で、椅子を抱えて歩いていった。
「………」
 硬い表情のまま、次の瞬間彼は豆が弾けるように動き出し、靴音も高く稽古場から出て行った。
「では、五場から」
 場に残る気まずさの余韻も知らぬように、ジダンは淡々とした声で役者達に指示を出し始める。





 その場に必要の無い役者達は、稽古場の邪魔にならない場所で練習をしていたり、見ていたり、話し合っていたりする。煙草を吸うためにちょっと席をはずす者もいる。
 アキは部屋の端に一旦腰を下ろし、首のタオルなんかをいじっていたものの、気分が落ち着かず、すぐと稽古場を出た。
 彼女は争い事が苦手なのだった。それ以前に、舞台以外の場所で大人が大声を出すのも嫌いだ。そういうことをされると、心が脅かされてなんとも厭な気分になる。
 彼女は用も無くトイレに入り、手と顔を洗って、また廊下へ戻った。
 すると突き当たりに、デミトリが立っているのに気付いた。ドアよりも奥なので出てきたときには分からなかったが、ずっといたのかもしれない。
 彼はこちらに背を向けて立ち、掃除の行き届いていない窓から外を睨みつけていた。一人で、両手を腰に当てていたが、どことなく覇気がなく、無念そうでもあった。
 アキは少し心が動いて、タオルの両端を握ったまま、彼の傍まで歩み寄った。
「…デミトリ、あの、大丈夫?」
 ちら、と彼は振り向いた。ばつが悪いような、迷惑そうな表情だった。しかしその背後にはやはり、霧のような寂しさが広がっているように思われた。
「…あの、デミトリ?」
 反応がないので繰り返し呼ぶと、彼は腕組みに変え、無愛想に言う。
「俺はなんでもない。ミラの気持ちを思うと、気の毒なだけだ」
「…ああ。そう、か…」
 アキは言い淀んだ。彼の言葉に、先刻のミラの反応が自然と思い出されてきたのだ。
 だが、彼女はそれほど心外だとか、怒っているような様子でもなかったような気がする。
 或いは、先にデミトリが、それこそ腫れ物に触られたような勢いで爆発してしまったので、彼女自身が怒る必要がなくなってしまったのかもしれないが。
 それにしても、どうも空回りしているのではという感はあった。彼が仲間の為に一生懸命なのは勿論理解できる。リーダーとして正しいような気もする。だが、それでも飲み下せぬ何かが口に残って、舌の滑らかさを阻害していた。
 それにいかに必死だとは言っても、ああいう、場の雰囲気を悪くするような行為はよくないように思う。みんなの気分も、彼自身の立場も、必要以上に悪くしてしまうからだ。
「…あのさ…。あなたの気持ちも分かるけど…、でもああいうことは、別個に言った方がいいよ?」
 デミトリの目がアキを見た。彼女は、きつい言い回しにならないよう、焦って仏語を繰る。
「ええっと、だからね。意見を言うのは全く悪くないと思うの。
 ただ、ああいう場所で、正面切って言っちゃうのはちょっとまずくないかな。他のスタッフさん達も、いるわけだし…」
「仲間を侮辱されて黙ってるわけにいかない」
「うん。分かるよ。それは分かる」
 アキは手を振りながら何度か頷いた。その頃やっと意識の中に言葉が揃って、一語一語きれいな発音になるように、気をつけながら言う。
「…でも、みんなの前で大声でやり合っちゃうと、みんなが苦しい気分になるでしょう。直接関係ない、スタッフさんや、ヨシプなんかも、暗い気持ちになっちゃうでしょう。
 言いたいことは、場所を弁えて、きちんとジダンに伝えるべきだと思うの。その方がジダンもしっかり聞いてくれると思うし、全体の雰囲気を壊さないで済む…」
「『うん。分かるよ。それは分かる』」
 ふいに、デミトリが唇を突き出して、彼女の物言いを侮蔑的に真似た。
 アキは全身の血の気が引くのを感じた。
「『みんな』『みんな』に『全体の雰囲気』か。
さすが日本人だな」
「………」
 しばらく黙って、彼の顔を見ていた。
それから、くるりと体を反転させて稽古場のドアへと歩き始めた。
 デミトリはそれを見て眉を上げ、また視線を窓の方へ戻そうとする。
 と、
―――――――バン!
ものすごい音が廊下に響き、驚いて振り向いた。
 稽古場の扉が手前に開かれて、もう彼女のかかとが消えていくところだった。
 その半メートル手前に、彼女が首にかけていたタオルが落ちている。
 彼が背を向けたと同時、アキは水を吸ったそれを自分の首から抜いて、力いっぱい廊下に向かって叩きつけたのである。





 稽古は五場から六場の転換へと進んでいた。舞台上にジャン・バチストとミラが立ち、台詞の掛け合いをする背後で別の役者が装置を動かしていく場所だ。
 ミラを呼ぶと、落ち込んだ様子でジダンの前に現れた。それは「降格」によるものというよりも、自分のために騒ぎが起きてしまったことに対する気落ちに思われた。
 彼女はアルジェリア系で、ちょっとぼんやりしたところはあるが、裏表のない優しい娘だ。ジダンはそれを知っていたから、役者達の見ている前で、最初に言った。
「ミラ。俺は君に個人的な恨みなんか何もない」
「はい」
「ただ、役者としてまだまだ足りないところが一杯ある」
「はい」
「それを学んでもらってほしいから、今回は、転換の要に立ってもらうことにした。これは、地味と思うかもしれないが、前の役よりはるかに技量がいる。全ての舞台転換が、君とジャン・バチストの管理の下に進むことになるからだ。
 君はこれから大変だ。だが、乗り越えれば成長できる。成長したいという気持ちがあるか?」
「はい」
彼女は三たび頷いた。涙目になっていた。
「…少なくともこれ以上、私のせいで人に迷惑をかけたくないです」
「迷惑じゃないわよ。単に力量が足りないってだけよ」
 ぽん、と後ろから肩を叩きつつ、ミミが結構すごいことを言った。
「私なんか『ダイコン』だの『へたくそ』だの、言われ放題言われたよ。他でもない、このジダンにね。
 でも、忌々しい演出なんかが言うことを、ちょっとずつでも覚えていけばいいのよ。五年も経てばまあ、ちっとはましになるって」
「…君が言うと説得力があるねー」
思わず素で呟いた。
「じゃ、まずはやってみよう。ヨシプ、ミミ、位置について。ジャン・バチストはここ。…ミラはその対角線上に。二人とも、互いの声をよく聴きながら台詞を言うように。
 …音楽いい? はい、じゃ集中して。行くよ」
――――パン!






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