scene 1




 ミラはその日、午前十一時半すぎに目を覚ました。寝ている間に寝具をぐしゃぐしゃにする癖があった。子供の頃から母親に言われているがまだ直らない。
 しかも、起き上がってから実際に動き始めるまで時間のかかるタイプだ。明るい室内で寝台に腰掛け、しばらくぼーっとする。目は糊付けでもされたみたいにまだ線のままだ。
「―――――あっ」
 突然、彼女は虚空に向かって一声鳴いた。
「今日オフじゃん」
 それからどん、と音を立ててまた寝台に倒れこむ。なんだか頭のおかしな生き物みたいだった。
 ごそごそと、かぶと虫が枯葉の間にもぐりこむ要領でシーツの間に入り込んでいく。体がはまるやぴたり、と動かなくなった。
 時刻は早、零時を指そうとしていたが、寝台からは寝息が漏れ始めていた。






 というわけで、オフだった。
いい天気だったので、アキは川向こうへ渡り、セーヌべりをぶらぶら散歩して、サンジェルマン近辺でカフェーに入った。
 昼ごはん代わりにサラダを食べて、落ち着くと、文庫本を取り出した。間に、友人が送ってくれた絵葉書が挟まっている。
 一面の桜が映った葉書だった。文具屋の葉書コーナーに多量に置いてあるような、安っぽくありきたりで、日本にいた頃には一顧だにしなかったような写真だ。
 用はないのだ。
郷里にも、桜にも。
だが―――――。
「あ、いつもの席取られてる」
「あれ日本人?」
「日本人でしょ」
 背中の方で、誰かがそう言っているのが聞こえた。アキは文庫をしまい、勘定を置いて、席を立った。
 また川に向かって歩き出した。ヤコブと最初に会ったのは米国だが、二度目に会ったのは日本で、やっぱり桜の季節だった。
 上野の坂を歩きながら、ヤコブがこんなことを言った。
「人は故国を離れた時、身の程を思い知る。今まで自分がどれほどの運に守られていたかよく分かる。
 もし君が、厳しくて孤独な世界で生きてみたいなら、引き剥がしてみるといいよ。やり方は、教えてあげる」
 橋の手前で信号待ちをしていたら、対面にバスから降りた日本人の観光客が集団でやって来た。話している内容を聞くに、これからレストランで昼食らしい。
 アキは彼らとすれ違いながら一人、広い橋を渡った。観光客の多いところで、色んな国の人間がいた。
 アキは彼らの間を流れるように、歩き続けた。目に色んな衣服が映り、耳に様々な言葉が聞こえた。







ブーンブーン。
ブーンブーン。






「デミトリ、ピザ来たから食おう」
「ああ、分かった」
 デミトリは、朝から友人の家で引越しの手伝いをしていた。パソコンを使ったデザインや創作の仕事をしている人間なので、自宅といっても兼スタジオで、とにかくごちゃごちゃと機械の類が多い。
 ケーブルがゆですぎたパスタみたいにうねうねと床に伸びているのを踏まないように注意しつつ、やっと椅子と机だけが設置された台所へ辿りついた。
「悪いね。手伝いの報酬がこんなんで」
 友人がコカ・コーラの缶を彼の前に出しつつ、言う。既に席についていた彼の仕事仲間の一人が全くだ、と茶々を入れた。
「朝から重い機械ばっか運んでデリバリーのピザかよー。もうちょっといいもんおごれ」
「金ねえもん」
 デミトリは笑って手を振った。
「いいんだよ。装置なんてもっと重いから、俺は慣れてるし。昼飯としては充分だし」
「優しいなあ」
「こいついい奴なんだよ」
 友人が、黒縁の眼鏡を押し上げ、寧ろ心配そうな表情を浮かべた。
「今日もちょっと引越しだって言ったらすぐ手伝うって言ってくれてさ…。
 知り合ってまた二月とかだけど、時々大丈夫かと思っちまう。お願いだから変な宗教に引っかかったり、詐欺に遭ったりするなよな?」
「ええ? 大丈夫だよ。俺は結構疑り深いし、しっかりしてるよ」
 デミトリとしては本気でそう答えたのだが、友人もその仕事仲間も納得せず、何故か顔を見合わせて苦笑を交わされるばかりだった。






 その頃、ジダンはバスティーユの路上で懐かしい顔と再会を果たしていた。劇団シリスの一員だった女優、ミミである。
 彼女は、ジダンの顔を見るなり昔馴染みの大声で、
「あんたなにやってんのよ! 何戻ってきてんのよ! 舞台なんかにまた手を出して、貯金がなくなるわよ!」
と言った。
 最近粗暴な女性にあまり会っていなかったので、耳を押さえつつも思わずじわりと嬉しくなって、我ながら変態みたいだ。
「はい、元気そうで何よりですね」
「そりゃ、あたしは元気よ! 旦那もかわいい子供もいるもん! あなたとは違うわ!」
「それはどうも。初めまして」
 と、傍に立っている眼鏡の男性に挨拶する。シンプルな服装の似合う、物静かで人柄の穏やかそうな旦那様だ。その腕には三歳の女の子が抱かれている。
「…娘さんは、君に似てるのかな」
「私は特にそうとも思わないんだけど、皆そういうわね。なんでかなあ」
「いや、人形食ってるしな」
 旦那さんは気をきかして、クマのぬいぐるみに噛み付いている娘さんと散歩に出てくれた。ジダンは彼女と近くの店に入り、仕事の話をする。
「四月の十日から十四日? 何、あたしに出てくれって?」
「そう。スケジュール空いてる?」
「ちょっと待ってよ。手帳見ないと分かんない。今は大きな仕事ないから大丈夫だと思うけど、ちょこちょこしたのが…。これでもあたし結構仕事してんのよね」
「知ってるよ。映画だの舞台だのラジオだの、あっちこっちよく出てるよな。感心してた」
 不思議なものだ。誰もミミがこんなふうに女優を続けられるとは思ってなかった。同じくらいの年では他にマリーやジュジュ、といった女優がいたのだが、彼女はその世代の中では一番ダイコンだったし、性格的にも難有りと思われていた(むら気で乱暴者だったのだ)。
 フェイなどは、彼女は21世紀に入る前に舞台を去ると予想していたっけ。ジダン自身も、似たり寄ったりな考えだった。まさか彼女が単独で活動できるような立派な女優さんになるとは、想像していなかった。
「2ステの日はいつ?」
「十一と十三。昼は午後二時、夜は午後七時から」
「十二日も七時からね?」
「そう」
「おー! ギリギリで大丈夫。十二日は昼過ぎまで別仕事入ってるけど、まあ終わるでしょうから。稽古は時々休むかもしれないけど…」
「急な話だから、それはもう」
「ギャラ出るんでしょうね?」
「君が普段舞台でもらってくるらいは」
「――――自腹切る気じゃないよね」
「………」
「よしなさい。癖になるよ。あなた昔はそういうことしないようにしてたでしょう。
 勿論仕事だからもらうものはもらうけど、額については制作さんも交えて話し合いましょ」
「………」
「なによ」
「いや、感慨無量で。ビデオ投げ女だった君がこんなに立派な大人に」
「うっさいわね」
「いや、本当に。舞台で演技見たときも、シリスの頃より全然うまくなってたからたまげた」
「…あの頃はさ、あたしねえ」
 煙草に火を点けながら、彼女は微笑んだ。優しい顔だった。
「…甘えてたんだよね。マリーとかレオとか、うまい人が一杯いたから。あたしはヘタでもよかった。期待されて無かったし。
 でも劇団無くなって、一人になったらね、がんばんなきゃいけなくなったわけよ。あたしががんばらなきゃ、舞台のレベルが下がっちゃうんだもの。誰もフォローしてくれないって分かって、やっと必死になった感じ。
 今だって昔に比べてそんなにうまくなった気はしないけど、周りの人は褒めてくれるね。だからまあ、ちょっとくらいは進歩したんじゃない」
「…そうか」
 胸が変に熱くなった。以前舞台で彼女の演技を見て以来、ずっと思い続けていたことだが、やはり自分は、この女優の能力を引き出すことに失敗していたわけだ。
 シリスは集団としてのレベルが高く、優れた劇団と言われたが、解散後、今もまともに演劇を続けている俳優はミミを含めて二、三名しかいない。その広がりの無さの責任は大部分、いかにしても自分の技量不足にあるだろう。
 今自分と関わっている若い人たちに対し、同じことを繰り返さないように気をつけねばならない。特にミラは、ミミの参戦で昔の彼女とちょうど同じ立ち位置に立つことになる。実力のある俳優の後ろで、「ヘタクソでも仕方ない」という妙な場所へ入ってしまわぬよう、充分注意しなくては。
 と、テーブルの上でシガーケースと並んでいたミミの携帯が鳴り出した。応答したミミが「済んだからいいわよ。郵便局の向かいの店にいるから、連れてきて」と言う。
「旦那さん?」
「うん。娘が泣き出して手がつけられないって」
「やっぱパパじゃ駄目なのか」
「というより、あたしとジダンが駆け落ちするとでも思ったらしいわ」
「………」
 やがて彼女の娘が連れてこられた、というよりも担ぎ込まれてきた。旦那さんの二本の腕の中で暴れまくってほぼ真横になっていたのだ。
 相変わらずぬいぐるみを食べていたが、胴体がどこかへ行って頭だけになっている。
「…なんかすいません」
「いえいえ」
 成り行きで謝ったが、旦那さんはシャツの腹についた娘の靴跡を払いながら温厚に微笑むばかりだ。
「今日は服を着てるだけまだましです」
「は?」
「娘は本気で腹を立てると何故か着ているものを脱ぎ始めるもので…」
 ジダンは彼の器の大きさに恐れ入り、心中密かに『師匠!』と呼んだ。







ブーンブーン。
ブーンブーン。







 ヨシプは一日中、部屋の中でテレビとDVDを見ていた。そして流れてくる情報を、ひたすらだらだらとインプットしていた。
 彼はコメディアンのネタも、火薬が爆発する映画の吹き替えも、アニメーションの台詞も、大統領のスピーチも、リポーターの話も、街の人の声も、博士の解説も、みんな同じレベルで平らに、泥でも飲むように飲み込んでいった。
 じき腹が空いたので台所に立つ。ヨシプの同居以後、ジダンはシリアルを二三箱常備するようになっていた。新しいのを手にとって見ると、さっきテレビでCFが流れていた銘柄である。
「…みーんなー大好きー。けんこー、いちばーん。林檎にキウイにアンズにカボチャー。食べてきれいー。元気もりもりー。CCKのフルーツ、フルーツ、フルーツシリアル♪ キャンペーン中!」
 誰もいない部屋でアカペラしながらフルーツシリアルに牛乳をかける彼の姿は、かなり奇妙な果実だった。







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