scene 1





 同じ日、デミトリは黒ずくめの男に会った。朴念仁のヨシプに文句を言って稽古場を出た後、五分ほどして本屋に入った。雑誌を買って、次のオフの日に見に行く映画か舞台を見繕おうと思ったのである。
 レジを済ました後、平積みにされているベストセラーが気になって眺めていると、ふいに幕が引かれたように右が黒くなった。
 見ると人間の胴である。自然と上へ辿っていったが、いつまでも切れ目が見えず、うろたえた頃顔となった。自分が少し屈み込んでいたためかもしれないが、妙に背が高く見える男だった。
 これまた真っ黒な髪の毛を顎くらいまで伸ばしている。その間から覗く顔が、目が合った瞬間に微笑みを作った。
「ひょっとして、デミトリ君じゃありませんか。役者の」
 デミトリは驚いた。街で見知らぬ人間から役者さんでしょう、と言い当てられることは滅多にない。公演だって二回しか行っていないし、つまりは関係者か、ものすごく記憶力のいいファンか、どちらかであろう。
 それにしても、自分から話し掛けてデミトリが狼狽を露わにしているにも関わらず、今では男は変に受身で何も言わずに笑い続けているばかりだった。仕方なく、彼の方から尋ねる。
「そうですが、あなたは…?」
「私は評論家です。あなたが今、お持ちになっている雑誌の34ページ目に、私の文章が載っています」
 思わずデミトリは雑誌を開いた。34ページ目は書籍の評論だ。ていうか、今平積みになっているこの本の紹介だ。
「LD…?」
「私はそういう名前で素性を隠して活動するんですよ。命が惜しいものですからね」
 少しおかしかった。当のページに「退屈な夜をさらに退屈に出来る珠玉の名作」などと書いてあったからだ。
「どこかでお会いしましたっけ?」
「いいえ。初対面ですよ。でも、あなたのことは存じ上げてます。去年、ギメ劇場でとても手堅い演技をしてらしたでしょう。あれを見たときから、一度お話してみたいと思っていたんです」
「…よく、憶えてますね?」
 自分で言うのもなんだが、ギメでした芝居では、出場も少ない、台詞もほとんどない、とにかく地味な役だったので、最初にその話をされてひどく驚いた。
「勿論憶えてますよ。いい舞台でしたからね。解散なさったと聞いたときには、残念だったものです」
 ―――――口がうまい男だ。
デミトリは馬鹿じゃないからそう分かった。そしてその優しい褒め句を真に受けまいとがんばったが、やはり半分くらいは受け取ってしまった。いい舞台だった残念だと言われて、喜ばないでいることは難しい。
 どうです、向かいの店でビールでも飲みませんか、と言われ、特に断る理由もないような気がして同行した。それにLDの声には独特の甘味と魅力があって、誘われると断れないような感じなのだ。
 カウンターについて、一緒にビールを飲んだ。とはいえ、デミトリは一杯飲んだらすぐ帰るつもりでいた。帰れば帰ったで家の掃除だの故郷への連絡だの、したいことはたくさんあったのだ。
 その彼の隣ではLD氏が鏡のようなカウンタに肘をついている。そして相変わらず優しい声で話し続けていた。
「本当に解散は残念でした。これからが楽しみだというところだったので、聞いたときにはええっと思いましたよ。さぞあなたもご苦労なさったでしょう」
「ええまあ」
 デミトリは緩むものを堪えるように前髪を触った。稽古後の疲労のせいか、いつもよりやや酔いが早いようだ。ほどほどにして、帰らないと。
 その時だった。LDがこう言った。
「そういえばオーギュスト君が作った劇団のお芝居を、この間見ましたよ」
「―――――」
 デミトリの体が、どぉん、と自らの心音に打たれてよろめいた。瞬間、平常心を保とうと努力したが、圧しきれない好奇心が声にも目にも滲み出した。
 オーギュストというのは、大勢のメンバーを連れて「α」を退団してしまった俳優だ。その後別の劇団を旗揚げした。
 デミトリは、ずっと知りたいと思っていたのだ。彼らが公演をしたというのは知っていた。しかし、誰もが彼の前でその話をすることは悪いことだと気を遣い、それ故彼は、かえって誰にも詳細を尋ねられずにいたのである。
 しかしLDは第三者だ。しかも評論家。話を聞くには、格好の人物だった。
「…どうでした?」
 そんな彼の胸中を知ってか知らずか、男はあっさり答える。
「ええ。まあまあだったんじゃないでしょうか。まあまあ面白く、まあまあつまらない」
「そんな」
 皮肉に苦笑する。
「メンバーがみんな若いですからね、底辺を支える演技者が足りないような感じでした。芸達者のジャン・バチスト君がいないのは大きいですね。
 それと台本はともかく、音響・照明・装置系のセンスが軒並みガクンと落ちてました。…これは、あなたがいないせいでしょうね。『α』の質を支えていたのは、なるほどあなただったんだなあとよく分かりました。
 他の人も、みんなそう感じざるを得ないだろうと思いますよ」
「そんなこともないでしょう」
 喜んではいけない。
咄嗟にデミトリはアルコールごしながらも自戒した。彼らの芝居の質と、自分自身のことは、絶対一緒にしてはいけない。
 確かに彼らの芝居は大したことはなかったのかもしれない。しかしその理由は、自分が正しく知る由もないことだ。ましてや、今オーギュストたちが何を考えているのか、分かるはずがない。
 そう考え、彼は、膨れ上がりそうになった「それ」を凌いだ。
 橙色ににぎわい始めた店内で、LDは目を細めてその有様を眺めていた。
「――――ところで、最近はジダン・レスコー氏とお仕事なさってるとか? ジャン・バチスト君も一緒に?」
「ええ、ミラも一緒です」
「どうです? 四五年前にはパリの関係者の間では知らぬ者のない演出家でしたが」
「ええまあ…、なんというか、おかしなおっさんですよ。僕自身は、彼のことを知らなかったので、どれくらいの評価を受けてきた人かはよく分かりませんけど、正直言って、何かちょっと、頼りない感じがありますね。
 ―――――それに…」
 する、と、アルコールを潤滑油にして、思いもよらず意識が、奥のほうへ入っていった。
「それに?」
 LDは傍で、両手をしまい変わらず微笑んでいる。もはやデミトリは、自らの重みで先へと進んでいた。
「台本は…、すごくよく出来てます。言い回しや韻の見事さなんか、感心しますよ。
 でも…、人間的には、どうかな…」
 『JRの最後の物語』は、簡単に言ってジダン自身の昔話だ。そしてそこでは、彼の最初の劇団シリスの解散の顛末が大きく取り上げられている。
「…どうなんでしょうかねえ…、ああいう話を芝居にしちゃうっていうのは…。前の劇団の中で起きたゴタゴタだの、解散の時のエピソードだのが、出てくるんです。
 でも、それってお互いが出来ればいいですけど、片方だけがやるのではちょっとズルくないですかね?
 実は、僕が彼と決別する副演出の役なんですが」
「ああ。フェイ氏ですね」
「そういう名前の人なんですか?」
「ええ。それも有名な人物です。レスコー氏の親友で、極めて優秀な集団の管理者でした。
 劇団シリスは、彼らの不仲が原因で解散したと一般に言われてますねえ」
「…そうなんですか。とにかく、作中そのフェイさんの扱いがあまりよくないような気がして。なんだか読んでいくと解散したのは彼のせいみたいに見えるんです。
 そのあたりがちょっとどうかな…。あまりに自分をかばい過ぎじゃないかと」
「なるほど?」
「LDさん。これは、僕自身にも言えることですが…」
 時間のことも忘れていた。デミトリはLDを真剣に見つめながら、手刀でテーブルを叩く。
「劇団が壊れてしまうとき、悪いのは絶対にリーダーですよ。他の劇団員達に罪はありません。でも、台本を見る限りでは、彼はそれを分かってない。リーダーの資質に欠けると思います。
 仕事ですからやりますけど…、個人的には、納得しかねますね。
 そもそもどうして、こんなに時間が経ってからまた芝居を始めたんだろう。ここしばらくはテレビで、全然舞台をしてなかったんですよね?」
「―――――あれッ?」
 と、LDが素っ頓狂な声を出し、目を丸くした。
「え?」
「ご存じなかったんですか?」
「何を?」
「あ、お聞きでないんですか。どうして彼がまた舞台を始めたか」
「何のことです?」
「あ。これは、いけないなあ、クリスティナ。若い人を騙すようなことをして」
 ひとしきり、困惑の態を示した後、LDは彼に言った。何故ジダン・レスコーが急にテレビの仕事を辞めることになったか。テレビ局で彼が今、どんなふうに笑われているか。
 どうやら発覚のきっかけは、彼の恋人であった女性が、彼のパソコン端末を見たところ、子供の裸の写真を見せるような違法サイトを閲覧した履歴が残っていたことらしい、ということなど。
 話が進むに連れ、デミトリの顔が蒼白になって行った。
「それでジダン・レスコーは舞台の世界に戻ったんですよ。テレビにいられなくなってね」


 青年はすぐさま店から出ていった。
勘定はLDが払ってやった。新しい水割りをなめた後、細い唇が心から楽しそうな笑みに歪んだ。







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