scene 1






『無視すんなふざけやがってこのロリコン変態野郎』
『カス。ボケ。死ね』
『―――――――』



 居間で壁にかかった電話に身を寄せるようにして、留守録を再生しているヨシプの後ろの扉から、台所を片付けたジダンが出てくる。
「そいつも最近バリエーションが増えたな」
 ヨシプは返事をしない。黒い瞳を上に寄せて、集中して聞いている。
「準備はいいのか。そろそろ行くぞ」
 すると再生を止め、削除ボタンを押した。昨日録音されたメッセージだが、今朝までに三度は聞いていたようだ。
 ヨシプは印象どおり、生活についてかなり色々抜けた青年だった。ズボラなのではなく、興味と経験がないのであって、一人で作れる食べ物ときたら牛乳漬けのシリアルだけだ。
 しかし、男の子らしいと言おうか、電気器具の扱いに関しては飲み込みが早く、最近では電話係になっている。相も変わらずほぼ毎日吹き込まれる留守録を再生し、いたずら以外のものはジダンに告知し、いたずらは何度か味わった後、消す。ま、それで仕事というならば、の話だが。
 荷物を持ち、戸締りをして、ジダン達は部屋を出た。今日は昼から稽古である。
 ところで同じ建物の一階上には、ヤコブ・アイゼンシュタットの部屋に住む女優のアキがいる。昨日までは出るとき声をかけていたのだが、いつも空振りだった。
 尋ねてみると彼女は、集合時刻よりかなり早く稽古場入りしているらしいのである。
「わたしのことは気にしないで」
 しまいには彼女からもそう、さわやかに言われてしまったので、以来ばらばらに出てることにしている。
「彼女は優等生だな」
 階段を下りながら連れに言うが、連れは黙ったまま、目線まであさっての方角なのでほとんど独り言だ。
「立派だが、ちょっと硬いよな。…分からんな」
 ジダンにはまだ、なぜあの老練なヤコブ・アイゼンシュタットが、恋人にするほど彼女に入れ込んでいるのか、うまくつかめないのだった。
「ま、おいおいか。ちょっとずつ剥がさせてもらうさ」
 会話の習慣でヨシプの顔を見ると、彼は口をパカリと開けて言った。
「『このロリコン変態野郎』」
「よせよ」
 それがまたそっくりなのでげんなりする。






 稽古は始まったばかりで、今は本を持ちながらの場面作りの段階である。一場面ずつ、装置や転換、音響照明との兼ね合いを見つつ、基本の流れを作っていく作業になる。
 細部はわざと置かれているし、役者はまだ台詞を覚え切る前なので、台本を持ったまま軽く演技をするのが普通だ。
 が、初舞台にして初役者仕事のヨシプ君にそういう習慣は通用しなかった。
 ここ二晩ほど続けて、家で指導をしていたジダンにはよくよく分かったのだが、彼はまさしくレコーダーのような男だ。こういうふうに読め、と読んでやるとすぐに反復する。それを丸ごと記憶し、再生する。
 演技指導というより、データのインプットと言ったほうがより正しい。
 二晩の指導でヨシプは既に台本を最後まで、一通り入力し終えていた。従って彼は現段階できれいに台本を放している上、いきなりの完成度である。
 読み合わせの際、とんでもない棒読みを聞かせていただけに、この跳躍は他の役者をびっくりさせた。しかも稽古の最中もヨシプは、立ち位置や動きまで、水でも飲むようにするりと一度で飲み込んでしまうのだ。
 いつかは半信半疑だったジャン・バチストも腕を組んで「へーえ」といった表情だし、デミトリ君などは
(何だこいつは?!)
と、変なものでも見るような顔をしている。
 彼はリーダーとして劇団をまとめていただけあって、バランス感覚を持った努力型の役者だ。というより通常の役者だ。もろ非常識な人間を目の前にして、唖然とするのも無理はなかった。
 ジダンは勿論、そんなことに構いつけずどんどん場面を立てていく。演出が自分の驚愕を意に介さないと知ると、他の役者達もようやく我に返って稽古に集中し始めた。なんだかこの公演では、予想もつかないようなことが起きるかもしれないぞという認識を抱きながら。
 常識が異様さに追い立てられるように落ち着かない速さで、その日の稽古は過ぎた。
 ジダンは演出以外のことは語らず、その態度はひたすらに『慣れろ慣れろ』と言っていた。






 夜七時で、一旦役者は解散になった。ここから先はスタッフ間での作業になるので、ヨシプはジダンから「先に帰っとけ」と言われる。
 ヨシプ青年は、荷物の入った布のかばんを肩に担ぎ、稽古場を出たところでぼんやり突っ立っていた。往来はもう暗く、いたるところに灯りがついて、その下を人々が忙しい魚のように泳いでいく。
 春本番には遠いのでそれなりに寒いのだが、ヨシプはTシャツの上にコートを羽織っただけの学生みたいな薄着で、表情も変えずに長いこと立っていた。
「おい。そんなところで立ち止まるなよ」
 彼の背後でご無理ごもっともな苦情を言うのは、同じく着替えを終えて出てきたデミトリだ。ヨシプはドアを出たなりな場所に立っているから、実際開閉に邪魔なのである。
「案山子じゃあるまいに、何ぼーっとしてるんだ」
 ヨシプは無言のまま、彼を振り向いた。デミトリは中背だし、ヨシプは背が高いので、少し視線を下ろす感じになる。
 デミトリは、彼の黒い眼の中に自分の顔が映っているのを見た。
 が、返事は依然来ない。そういう気配もない。
「――――どうでもいいが」
やりにくそうに、詮方なく彼は自分でつないだ。
「明日も稽古なんだ。用事がないならまっすぐ帰れ。いらないことをして、怪我したり風邪引いたりするんじゃないぞ」
 何とか形をつけて、デミトリは彼の横をすり抜けた。そのまま二つの段を下りて、往来へ流れると見えた時、ふと、足を止める。
 振り向いた。変わらず石段の上に立ったまま、情動の表れない目でこちらを眺めているヨシプを見上げる。
「――――お前さあ」
 ヨシプの顎がちょっと動く。それに聞いている手応えを得て、彼は言った。
「読み合わせの時は、なめてたのか? 所詮、本読みだと思って」
「………」
 デミトリもジダンと同じく、彼が喋らないことに慣れ始めていた。もはや手前勝手に、話を続ける。
「芝居は一人でやるんじゃない。何人もの役者と一緒になってやるんだ。みんな人の演技を見てるし、声を聞いてる。
 互いに全然呼吸が読めないところから始めて、稽古の中で徐々に馴れていくんだ。読み合わせだってその段階の一つだ、いくら台本を読むだけだからといって、手を抜いていいわけじゃない。
 今後ああいう真似をするな。俺は不愉快だ。初めてだかなんだか知らんが、真剣にやれ」
 そう言って今度こそ道へ入っていくのを、ヨシプは色も変えずに見送った。デミトリの後ろ姿は魚の泳ぐ往来にあっても、どこまでも人の背中として眼に映った。
 対して夜の街を背景に立つヨシプの黒く骨太な、痩せた影には、彼が今の言葉を理解しているのかどうかの手がかりはおろか、僅かな感情の兆しさえ、表れてはいなかった。






 例によって喫煙所で書類を見ていると、クリスティナがやって来た。
「何見てるの?」
「宣伝用の写真とチラシの図案」
「そうか、場所が決まったものね」
「そういうこと」
「未だに分からないなあ。何であそこのスペース、駄目だったんだろ」
 煙を吐きながら、彼女は不思議そうに言う。
「………」
「特に危ない真似をするわけじゃないのにね。ま、今更言ってもしょうがないけど」
 それからチラシの原稿を取り上げ、「あ、これ好き」と笑った。
「で、どう? 役者さんたちは。聞いたけど、ヨシプ君、恐ろしいことになってるんだって?」
「まあ、俺らが最初びっくりしたみたいに、連中もびっくりしたって言うことさ」
「なるほどね」
 写真を一旦置き、眼を上げると前の窓が夜なもので鏡になっている。ぼんやり自分の顔を見て老けたなあと思いつつ、ジダンは言った。
「ほかは…、ジャン・バチストはあれは、いい声だ。俺は好きだな。それに体の切れがいいし、余裕もある。
 アキは、悪くない。何をすべきかよく分かってる子だ。まだ底まで見えないが、常に及第点を出すタイプだろう。
 デミトリ君は…、こつこつ型だと思う。真面目で不器用で芝居屋だ。ああいう男がまとめていた劇団のメンバーは幸せだったと思うがな。何故解散した?」
「…詳しくは知らないけれど、制作の子に聞いた限りじゃあ、『方向性が違うから退団する』と誰かが言い出して、それに大半が着いて行っちゃったらしいわ。
 残った人数じゃ劇団を維持できなくて、動揺も大きくて、結句解散、ということになったみたい。抜けた方は今、別劇団やってるって話よ」
「なんだか大変そうだな」
「そうね。大変だったんじゃないかしらね」
「…ミラだが…。それでは彼女も、数少ない居残り組の一人なわけだな?」
「そう聞いてるわ」
 クリスティナは何かを避けるように俯いて、だが普通の声で答えた。
「君は、彼女の演技力を買ってオファーしたのか?」
返答もきっぱりしていた。
「いいえ」
 やはりか、と自分の目が細くなるのを見ながら呟いた。
「じゃあ、何故?」
「デミトリが出した唯一つの条件だったのよ。雇うのならば三人一緒に。一人だけでも、二人だけでもO.K.できないと」
「………」
「箸にも棒にも引っかからないようなら、話してみるけど。どう?」
「…彼女は素直ないい子だ。声も体も悪くない。
 だが台本が読めてない。問題はごく初期にある。もっとも、よくいるタイプなんだがな」
 本の読めない役者。本の読めないスタッフ。本の読めない演出。たくさんいるものなのだ。逆にいうとそれがまずきっちり出来ていれば、おのずとある程度の質のものは出来上がってくるのだが。
「…それで?」
「そういうことなら、がんばってみますよ」
 紙巻を灰皿に押し付けて、クリスティナの顔を見た。彼女も笑っている。
「お願いするわ」
「…あと、もう一人女優を増やすかもしれないが、いいかな? 目星はついてるから、探してもらわなくてもいいんだが」
「いいけど…、ギャラ薄いかもよ?」
「ああ…。まあ多分大丈夫だと思う」







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