scene 4





 アパルトマンへ戻った。建物全体が既に寝静まっている。階段を昇る時、自分の影が壁面をすべっていくことや、足音が立つことが面白かった。
 ジダンは自室の鍵を開けた。真っ暗だ。ヨシプは先に寝ているのかもしれない。
 シャワーを浴びたいと思った。
上着を脱ぎ散らかして浴室へ向かう。
 こんな時刻に水音を立てると階下の住人に迷惑がられるかもしれないが、欲求は強く、我慢できなかった。
 湯を被ると、あちこちが痛んだ。我慢して浴び終わる頃には、気持ちは少々落ち着いていたが、ため息が出た。
 バスタオルを裸の肩からかけて、洗面台の前に立つ。眼鏡の上に前髪の垂れる自分の顔を見て
老けたな。
とまた思った。髭は翌朝に剃ることにする。
 その格好のまま浴室を出て部屋へ向かおうとすると、暗い廊下の途中にヨシプが無言のまま、立っていた。
 暗闇の中で、ジダンの白い足がゆっくりと止まる。
二人は、数秒の間、ものも言わず、向かい合っていた。
 ヨシプの目が光っている。
かつてなく、鮮やかなほど光っている。
そうすると全体が違って見えた。
 ジダンは彼の身に昔、何があったか知らない。聞いていないのだ。
 だが九〇年代、バルカンで血で血を洗う戦争があったのは周知のことだし、多分彼は、他の多くの人々と同様に、犠牲になる方の一群に属していただろう。
 もし、そんなものがなくて、何らかの理由で無気力にさえならなければ、彼は今頃健康な体躯の中に少年ぽささえ残した、生意気で瑞々しい一人の青年になっていたに違いない。
 だが今、向かい合い目を見開いた彼の体の中からは、血と肉と泥の重い香りがした。それは既に無垢から遥か遠いものだった。
 ジダンは飽かずに彼を見つめていた。稽古以外で、これほど長い間彼を見ていたことはなかった。 やがて、三分ほども流れた頃、低い掠れた青年の声が、
「…あなたも」
結露した水滴のように闇を伝って落ちた。
「僕を憎みますか」
 まるでその言葉に引き込まれるように、ジダンは一歩進んだ。
 ヨシプは退かなかった。光る眼の周囲に、鉛のように冷たい絶望を漂わせながら、距離が縮まっていくのをただ待っていた。
 その体が、殴打に備えているのが分かった。或いはまた、性暴力でも待っているのかもしれない。そういう骨と肉だった。そういうめぐり合わせの一体だった。
 確かにこの世には、そういうさだめの存在もある。新聞には載らない、家の分厚い壁の中に隠匿されてしまう悪さも五万とある。
 ゆっくりと、ジダンはヨシプに顔を寄せた。
――――奇妙なことだ。今日ヨシプは殴ってジダンは殴られた。だのに今では、ヨシプは殴られる側でジダンは殴る側らしい。
 背の高いヨシプが顎を引き、弾みに二人の鼻と鼻が擦れ合いそうになった。
そこでジダンは止まった。
 目の高さを合わせたかったのだ。
死ぬほど恥かしいから二度とは出来まいが、もし自分に息子がいたらそうするように、自分の両目と彼の両目とを、真正面から、つき合わせてみたかったのである。
 黒と黒。鏡と鏡。
無限に続く回廊の中にいる自分に対して、ジダンは言った。
「Non」
 それからヨシプの体を抱き、右手で彼の左肩を二度叩いてから、腕を解き、寝室へ向かった。
「おやすみ」
 挨拶して扉が閉まっていくのを、ヨシプは呆気に取られて見つめていた。







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