scene 2
オルリー空港への往復一時間程度の道のりの最中。走る車の中で気に染まない音楽を止め、ヤコブが尋ねてきた。あのスキャンダルは結局なんだったのかということだ。 「俺にくらい本当のことを教えてもいいだろう。火の無いところに煙は立たぬと言うぜ」 「娘さんほど年の離れた恋人を抱えこんでる人に言われたくないなあ」 思えば、ヤコブと全くのさしで話をするのも久しぶりだった。助手席のジダンはくつろいだ気分で、この年上のプロデューサとの道行きを楽しんだ。 ジダンですら、彼には兄的な信頼とそれに対する自分の甘えを覚える。大人と話すのはいいなあという気持ちになる。 おそらくこれは彼自身の資質によるもので、年齢ともあまり関係はないのだ。十代の頃ですら、彼はこんなふうに人から頼られ、人を遊ばすことの出来る男だったんじゃないのか。もちろん当人は否定するだろうが。 「俺は未成年には手を出してない。君のは深刻だったじゃないか。ペドフィリアの気があるって? 子供向け番組に関わってたんだ、信憑性があるよな」 「おかげで失職したさ」 「エマが、ネットブラウザの履歴を見たとか聞いたぞ。そういうサイトを見てたのか。事実なら、当人は出来心のつもりでも、人には相当ヤバい印象を与えるぞ。 違法サイトは、普通にサーフしてる分には出てこないからな。能動的に探さないと」 「…俺はペドフィリアじゃないよ」 ジダンは灰色の道路を疾駆する、車の群を眺めながら言った。 「というよりも、そういうサイトを見て、はっきりそうじゃないと分かったんだ。正直言うと一時、自分が疑わしくなってた」 「危ないインストラクターだな、おい」 「そっちじゃない。TVの仕事でそんなふうに動揺したことはない。ディオニソスに誓って」 「またアテにならん神に」 「――――通し稽古を見て、分からなかったか、ヤコブ。俺のムーサイは…、よりどころと恃む神は、女の子なんだよ」 「………」 タクシーが馬鹿げた速度で脇から車を追い抜いていった。ヤコブはそれを見て、目を細め、言う。 「アキの演じる少女か。デミトリが嫉妬する」 「解散した頃は、彼女は本当に少女だったから、疑いなんか起きなかった。ただ神の使いだと思ってた。それが、段々彼女も成長してくると、なんかアブナくなってきた。お互いに。 子供を傷つけるなんて、有り得ないだろう。だが、大人の女となれば、傷つけることも出来る。喧嘩し、痛めつけることも出来る。 彼女は間違いなく少女で、子供だ。だが俺は、ふとした弾みに彼女を傷つけることも出来るんだと、知ってしまったことがあるんだよ」 クリスマスだった。 あの稽古場の、あの向かいのビルの屋上から、一人の孤独な男が飛び降りた。 ジダンは、従兄弟の子供である一三歳のアンヌ・レスコーと連れ立って歩いていて、偶然に、だが全く真正面からそれを見てしまった。 あの時ジダンは、アンヌという幸福で素直で無垢な少女の人生に、最初の傷がつけられる瞬間を見たのだ。勿論、記憶に苦しむ彼女には再三言った。「運が悪かったと思って、忘れるべきだ」と。 だが、説得が功を奏したのか、やがて少女が落ち着いた後も、愚かなジダンは彼女には「忘れるべきだ」といったことを自分では忘れられなかった。 やろうと思えば出来る。少女を大人扱いし、同等に、手加減なしの現実をぶつけることも。 「勿論、追ってすぐ、馬鹿なことを打ち消したよ。 可能なんだということだけは、どうにも事実だから忘れることが出来なかったが、そんな安っぽい思惑に直接縛られるようなことはなかったと自覚してる。 なんせ親戚の女の子なんだからな。 解散後も度々アンヌとは会ってた。勿論、年上の親類の一人としてだ。彼女は芸術全般に興味の深い子で、舞台も好きだ。そして彼女の意見は、少なくとも彼女が一三、四の頃から、オリジナルなんだ」 「――――ほお」 それがどれだけ得がたいことか分かっているかのように、ヤコブは息を吐いた。 「俺は困り果てると、必ずアンヌの意見を聞きたくなった。どんな評論家の意見より。彼女の存在とセンスを無条件で頼ってた。 ただそれが、色んな人間に面白くなかったらしい。フェイも後には気付いたらしく、なんとも苦い顔をしてた。俺が劇団シリスを解散したのは彼女に言われた批判がきっかけだったからだ。 勿論、解散の理由はそれが全てだったわけじゃない。ただ、最後の決定打ではあった。それがフェイからすると、裏切り行為になったらしい――――そうかもしれない。 マリーは気付かなかった。だから彼女は、何故劇団が解散したのか最後まで本当には分かず、苦しんだかもしれない。それでまあ、ああいうふうに精神的に参ってしまったのかもしれないが…」 ジダンは煙草と携帯灰皿を取り出し、ヤコブに断ってから火をつけた。一息肺に入れて、続けた。 「ちょうど二年前になるかな。春だったから。 俺とアンヌは勿論連絡を取り合っていたし、時々会ってた。ところが、突然何かがヤバくなってきた。 変わったのは俺じゃなかった。彼女のほうだった。気がついたら、ほんの一四だった少女が一七歳になってた。もちろん子供さ。まだなんにも知らない。 だが、彼女自身はそうは思わなかったらしい。会うたびに何か焦りのような、迷いのようなものが彼女の体の中で膨らんでいっているのが分かった。メールの文章はある日には変によそよそしくなり、別の日にはこまやかになりと揺れ動き―――――とにかく瀕死の金魚みたいに息苦しそうで、俺達が遥か昔に体験し終えたとんでもなく有毒な季節を、彼女は今過ごしてるんだということが分かった。 その季節を一層息苦しくしてるのが、どうやら俺の存在だったらしい。まあ唯一身近にいる、しかも定義づけが曖昧な大人の男だったからかな。 ある日とうとう彼女は、どういうことか聞きたいと言った」 あなたはどうして私と度々会うのか。どうして私の話をじっと聞くのか。どうしてそんな眼で私を見つめるのか。私に本心を語って聞かせるのか。優しく笑うのか。 一体、あなたは、それらすべてのことは、どういうつもりでしていることなのか。 「言われた時はぽかんとして、それから『そうだった』と思ったよ。数年前のクリスマスのことを思い出した。少女は少女。だが、傷つけることも出来るんだ。 そういう意味じゃアンヌ自身の方が遥かに敏感だった。俺はすっかり油断して、いつまでも親類の子供だと見くびり、気を許した振る舞い三昧。理由もなく待ち合わせたり電話したり、全く素のところを開けっぴろげに見せたり、昔からの習慣でそのまんま続けてた。 彼女は一人で悩まされてちょっと怒ってたな。 一体私は単なる『親戚の女の子』なのか、『演劇のご意見箱、仕事仲間の一種』なのか、…それとも『それ以外の存在』なのか、はっきり決めて相応しい態度を示してくれ。そうしたら私も、悩まずに済む。そういうことだったと思う。 ところで俺は演劇に関する彼女の意見を信頼していたんだが、その理由は彼女は嘘をつかないからだ。社会通念から距離があっても誤魔化さない、相手を傷つけるかもしれない意見を持っていたとしても曖昧にしたりしない。 いつでも彼女が感じていることを出来るだけそのままこちらへ伝えようとしてくれた。時に生意気にとられることもあったが、俺はそういうのは表現に必要な、誠実な態度だと思う。 それで自分も、彼女に対し極力誠実でいようと決めてた。だから、その次に会った時だったと思うが、俺は本心のままを言った」 君がそれを望むなら何もかもを君に捧げる。 君がそれを望まないなら全て引っ込める。 このままがいいなら、このまま。 君の望むとおりにするのが僕の望みだ。 どうしてほしいか言ってくれ。 「彼女はどうした」 「逃げた。…マリーにしたのと同じ形で仕返されるんだなと思ったよ」 「回答は」 「ないままだ。俺は追わなかった。一つの可能性がなくなったわけだが、よくあることだし、仕方ないと思った。 実際に何かが始まってたわけじゃないから、縁が途切れるのもあっさりしてたしね。 その後二年間は、彼女なしで仕事をした。これが、思ったよりキツかったな。 仕事はまあ順調にこなした。エマもいた。けれども時間が前に進んでないような感じがした。見事に空回りしていた。 何がそんなに辛いんだと、再三自問自答を繰り返して、俺は自分が、保留にされたままのあの問いに囚われたまま、その場所から、全く微動だに出来ていないんだと言うことがやっと分かった。 それから俺は、とびあがって、慌てた」 馬鹿を言うんじゃない。…それほどだというのか? 彼女は親戚の女の子じゃないか。そうでなければ、俺は色ボケのオヤジらしく、若い少女と寝てみたかったのに逃したことを悔やんでるんだ。そうなんだろ? 有り得ない。何故俺はこんなに、旅先に荷物を忘れてきてしまった男のように取り乱してるんだ。馬鹿げてる。冗談じゃない。いい加減にしろ。落ち着け。 「慌てすぎて俺、一時的にアホになっててな」 「そうかいそうかい」 「ていうか、最初の頃は否定しながらも本音っていうのがはっきりあったように思うんだが、あまりに焦って上へ下へと引っ掻き回しすぎたもんだから本当にわけがわからなくなった。 ある時は俺はただの飽きっぽい馬鹿男だと思ったし、ある時は俺の渇望は真剣だと思った。俺は苦しむことが趣味なんじゃないかとも思ったし、別の瞬間には自分を潜在的なペドフィリアじゃないかと疑った。 それを――――、試してみようと思って、サイトを探した。だから『見た』というそれだけは事実ですよ、ええ」 「判定は」 「吐き気がしてとてもとても。ありゃ犯罪だ」 「犯罪だよ」 「ブラウザ閉じようとしたら、閉じた瞬間ごんごん新しいブラウザが開きやがって、片っ端から閉じたらまた開く。閉じたらまた開く。多分エマも、履歴をたよりに同じサイトを見たんなら仰天したんじゃないか」 「消さなかったのか、履歴」 「見たのは一回きりだったし…、まさか彼女が俺のパソ開けて調べるなんて思いもよらなかったんだよ。彼女も自機を持ってるが、俺ならそれに触ったりしない」 「それにしても何故エマはネット履歴を見てみようなんて思ったんだろうな。浮気を疑ってでもいたのか? そういうときは普通メールソフトか携帯を見るだろう。それも調べた後だったのかな」 「さあ…。とにかく俺が上の空なんで、何かおかしいと思ってたのかな。或いは純粋に、俺の考えてることを知る手がかりにでもなると思ったのか。 あの子は結婚願望が強くて、同棲したのも彼女の希望だった。家を一つにしたにもかかわらず、彼女の中でいつまでもしっくりこないものがあったんだろう」 「ひとごとみたいに」 「全くだ」 道がゆっくりと混み合い始める。標識が、空港まであと5キロだと告げる。 「―――で、どうするんだ。お前の天使は」 「手紙を出したよ。チケット込みで。回答が欲しいと」 「…来るのか。お前は彼女に必要とされてるのか」 ジダンの口元に、うっすらと笑みが浮かんだ。だが眉根は深く寄せられたままだった。 「―――どうかなあ」 多分そうではないだろう。と暗にその目が言っていた。少女の成長は早い。大人がまごまごしている間に、ひと月単位で人生を変えていく。 そして空白は、二年に及んでいた。 「分からないな」 ヤコブは、危うく舌打ちしそうになった。そんな望み薄なもののために、こいつは先行きも気になる四十前になって、全てを台無しにしたというのか。 結婚してもおかしくなかった女から袖にされ、面子を傷つけられ、儲けのいい仕事から追われ、そのご褒美が迷路への再挑戦権ひとつきりなのか。 虫取り網を持って走る子供じゃあるまいに、そこまで純粋な面をして、自分にも世界にも真正直にあたる必要はないのだ。益のない迷路など打ち捨てて容易な道を手繰ればよい。さもなければ女を捕らえるために、年相応に小汚い、悪い手を幾らでも使えばいいのだ。 年の功をなんと心得る。 「ジダン・レスコー、お前は信じられん間抜けだよ」 「かもな」 「芝居を作る技術はまあまあだが…、これじゃ箸にも棒にもひっかからん。そこらのマンションに住んでる主婦たちの方がお前よりもよっぽど気が利いてる」 「そりゃそうだ。金も持ってるしな」 「お前みたいな人種のたちの悪いのは、人並みに酒も飲むし女遊びもするくせ、年を追うごとに仙人みたいに浮世離れしてくることだ。 おかげで俺みたいなのがこき使われることになる。まったく厭になるよ」 飛行機のエンジン音が車の薄い天井を突き抜けて響いた。今しも飛び上がっていったばかりのエール・フランス機が、雲の中へ消えていく。その影が映るフロントガラスの中で、ジダンは愚痴っぽい運転手を見た。 「俺のネタは話したぜ。ヤコブ、あんたも吐けよ」 「何が」 「とぼけるなよ。アキのことだ。すんでのとこで潰すとこだった。分かってるだろう」 「………」 「らしくないじゃないか。そもそもアジアの人材に手を出すのも珍しいのに、愛人にまでするなんて。俺は最初びっくりしたよ。てっきりあんたは商売道具に手は出さないのが信条なんだと思ってたからな。 それを手元に閉じ込めて…、まして成長を阻むほど甘やかすとは、大ベテラン、ヤコブ・アイゼンシュタットの所業とも思われない。プロデューサが才能を潰してどうする?」 ヤコブからの返事は長いことなかった。 相変わらず白けたような冷静な顔つきで、検問を抜け、ハンドルを切り、駐車場で車を停めた。そこで言った。 「花吹雪にやられたのさ」 「は?」 問い返すジダンは知らないのだ。闇夜に花が渦巻くほど降るあの景色を。 その中に立つ彼女を。 見た者でなければ分からない。いまだに呆然とするのだ。 せせこましい小さな国で、西洋乞食が花に狂ったのだ。どれほど自分が不相応な真似をし、どのような結果でおしまいになるか、ほぼ、見通していたというのに。 帰りはジダンが運転するので二人とも外に出る。ヤコブは旅慣れて小さなかばんを持ち、連れに挨拶した。 「存分にやってくれジダン。俺が知らない間に、何もかもが済んでいるのが嬉しい。俺は自分では出来ないから、お前を焚きつけるんだ」 「………」 ジダンは受け取ったキーを掌の中に転がしながら、しばらくの間コンクリートの上に突っ立っていた。 それから、どうにも収まりがつかなくなり、顔を上げると、街中ではとても出せないような声で、彼を呼んだ。 「―――――ヤコブ!」 彼は振り向かなかった。小さな荷物を持って一人、旅また旅と消えて行った。 |
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第18章 了 |
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