scene 1





 朝一〇時過ぎにヤコブに電話をかけて部屋へ行ってもいいかと尋ねると、俺がもう出てしまうからすぐに来いと言われた。
 それでジダンは、ヨシプと連れ立って上へ行く。通されるとすぐ、
「丁度いいところに来たな、ジダン。俺、車で空港まで行くから、一緒に来てくれよ」
「なんだって?」
「向こうに着いたらキーを預けるから、ガレージまで持って帰ってくれ。キーは後でアキに返してくれればいい」
「ああ、はいはい。いいけどお前、今度はどこに行くんだ?」
「ブダペスト」
 というわけで、部屋に着いた早々、彼を送って出ることになってしまった。ヤコブはここ半年、以前にも増してあちこち出入りし、本当に忙しくしている。
 アキの横っ面の腫れは収まっていたが、湿布薬の下で、やはり痣になっていた。「二三日で引くわ」と気弱に笑う。というより、笑うと痛むのでそんな顔になるのかもしれない。
「今日の練習は大丈夫か?」
「大丈夫。出られるから」
 休ませてやりたくもあったが、他方で本番に脅かされていたジダンは率直に言って安堵した。それを隠す余裕もなく、ただ礼を言い、ヤコブと出る。
 部屋にはそれで、アキとヨシプが残ることになった。ヨシプ青年はジダン達がばたばたしているのを傍でぼーっとみているうちに、置いていかれた格好である。
 二人になると、アキは彼をテーブルに呼び寄せ、小さな丸い椀に見慣れない緑色のお茶を淹れてくれた。彼女の故国のお茶だという。
 卓の上に二つの茶碗を挟んで彼らは向かい合っていたが、やはり気まずく、何を会話したらよいのか分からなかった。それでいてここから逃げることは有り得ない気分だ。わだかまる違和感を、何とかしなければならなかった。
 二人は、もう数週間過ぎれば別に何事か起きなくとも普通に友達関係になっただろう。だがそうなる前に、ふとした弾みに思いがけず濃い結果を出してしまったため、落ち着かないのだ。今更ながら他愛のないことでも話し合って、その落差を埋めなければと本能的に考えていた。
 だが二人は、むねの内にぐるぐると思慮をかき回すばかりで、互いにうまく端緒がつかめないでいた。それでもたっぷり一五分も過ぎた頃には、いい加減緊張も続かなくなる。冷めた茶で喉を潤した後、根負けしたアキが口を開いた。
「…あの…。ごめんね。余計なことして」
「………」
 ヨシプが眼を上げたが、アキの頬の白い薬布が視界に入るとぐっと表情をしかめてすぐ顎を引く。それを見てアキの方が一層慌てた。
「あの、これは気にしないで…って言っても無理かもしれないけど、本当に気にしないでいいよ。勝手に私がやったことだから。
 ていうかバカだよね。もっといい方法あったと思うのに、思いっきり顔なんかで受けちゃって。実は腕は出そうと思ったんだ。でもトロくさくて間に合わなかった。
 顔面で受けるなんて、役者しっかく」
「いや……僕こそ……」
 おずおずと、ヨシプは眼を上げ、二三度躊躇した後、やっとアキの顔を直視した。彼の後悔にまみれた眼差しが、彼女の皮膚の下へ、染み入るようだった。
「……治るのかな…。ちゃんと」
 アキは出来る範囲で笑った。
「何言ってんの、治るって。ヨシプ、私がとんでもない怪我したと思ってるでしょ。寝ぼけて額打ったようなものだから、平気だよ。
 これでも昨日からすると大分引いたんだから。寧ろ腰打ったことの方が響きそう」
 丁寧にヨシプが暗い顔をするので、また慌てて冗談だとひとしきり釘を刺さねばならなかった。
「ていうか、私も、どさくさに紛れて、言っちゃったし」
 ふう、と緊張を解いて、背もたれにもたれながら、アキは続けた。ヨシプが眉を上げる。
「………」
「あんなこと言われちゃデミトリもびっくりだよね。俺がアンタに何をした?! って思うよね。
 あれもね、全然八つ当たりなの。出鱈目を言ったわけじゃないけど、自分から欧州に来といて、欧州が嫌いもないよね。だったら日本にいろっての。
 …期待があったんだよね。欧州に。ここに来れば、日本にいるより、もっと生き易いに違いないって思ってた。
 勝手に期待しといて、アテが外れたって勝手にキレて。へへ…。私、いろんな意味で結構サイテーだ」
 窓から春の明るい陽射しが部屋へ差し込んでいた。アキは、耳の下に手を当て、ヤコブ・アイゼンシュタットが作り上げた部屋の中を見回す。
 ここに最初来た時は、びっくりした。なんて上手に手入れされ、使われてきた部屋だろうと。
 ここは広くもなく、狭くもない。笑っちゃう程贅沢でもないし、暮らしにくいほど貧弱でもない。簡潔で、清潔で、快適でほどほど雑多で、しかも他者や変化をわけもなく受け入れる。全く―――――「彼」自身のような部屋だ。
 ヤコブは彼女にとって、恋人であり、父兄だった。
あまりに理解が深く聡明であったから、かえってアキは、彼に迷惑をかけてはいけないと思った。
 欧州に暮らしていて、いかにしてもおかしい、失礼だ、低劣だと感じることも、ヤコブが冷静に処理している以上、都度抵抗を感じる自分が狭量なのだと信じ、失望を押し込め、慣れの中で自然に消却されるのを待っていた。
 実際、忘れている瞬間もあったのだ。だが大部分はどこにも行っていなかった。かえって内面に蓄積され知らず彼女の演技に陰を落とし、挙句に昨夜ついにいき値を超し、
「ヤッチマイました」
これではB級映画の台詞である。
 今のままではだめだ。私はヤコブの用意してくれた巣の中で、自我を慰められ、甘えていた。
 どこまで行っても生きにくさが自分の前に立ちはだかるなら、そして日本へ戻る気がないのなら、こんな形で迷惑をかけるのではなく、もっとましな発露の方法を編み出さねばならない。
「成長しないとダメだな。学ばないといけないことたくさんあるね、ヨシプも、私も」
「………」
「今日稽古場に行ったら、みんなと、デミトリにも、謝んないとね」
 ヨシプは目を丸くして彼女を見ていたが、その台詞にはこく、と頷く。それから一口茶を飲んだ。
「あ、ジダンはどう…? さっきは普通にしていてくれたけど、昨日は、やっぱり怒ってた?」
 びく、と彼は体を竦ませたようだった。それから、かなりゆっくりと、段階を踏みながら、顔を地面に向けた。
落ち込んだ生徒の図だ。
 あ、やっぱそっか。と一緒に暗くなりそうになったアキの耳に届いたのはだが、手ひどく掠れて聞き取りにくい否定だった。
「……怒らない……」
「え?」
「…か、彼は……」
 彼は、怪我をした子供が荒地を行くように、よたよたと、一語一語、逐一ひっかかりながら話した。
 アキは正直言って、どうして彼がそんなにどもっているのか理由が分からないまま、語を聞き取ろうと釣り込まれるように前のめりになる。
 だって、あまりに予想外だったからだ。
「アキ……。か――――、かれは…、僕のことを……、……まないと……」
「………」
 どうも、彼が言いたかったのはこういうことであるらしい。聞いてくれアキ、彼は僕のことを憎まないといったんだ。
 ヨシプは、大きな手で口元を押さえた。息を吸い込んだその瞬間、下向きで半月を描いていたその両目から順に丸い滴がぽつぽつっ。と落下していくのをアキは見た。
 脳天から一直線に鳥肌が走り抜け眼から火花が散る―――――ほど、びっくりした。
「え―――――…」
 これは、演技ではないのか。誰かの真似ではないのか。
 彼は今、自分の感情を抑えかねて泣いている。
まさか。
ヨシプが。
 百年たっても変わらないんじゃないかと思われた、からくりヨシプが…。
 アキは全身の血液が沸騰するんじゃないかと思った。口を開け、知らぬ間に、立っていた。
「ご、ごめんごめん。ごめん」
 羞じたふうに、ヨシプは左の長袖で目元を隠し、右手は彼女を制止するように掲げた。
「ごめん。もうやめるから、ごめん」
「いや、なんでごめんなの。ちょっと待っててよ? 今、カメラ持ってくるから…」
「なんでカメラ…」
「ニホンジンは電気機器が好きなのだよ…。関係ないけど。
 いやーあんまりびっくりしたから記念写真撮っとく。こんなこと、後から誰かに言っても信じてもらえないかもしれないもん。ネッシーネッシー、UFO」
「何言ってるの。ちょ…、ちょっと…」
 アキはちょっとふらつきながらも本当にデジカメを持ってきた。えらく小さくて玩具みたいな奴だ。
「はい、泣き記念―――――」
「やめてって。やめてって。アキ」
「隠すなオラー」
 馬鹿みたいなことをやってるうちに、ヨシプの頬に、僅かな苦笑が上った。アキは、涙ほどじゃなかったが、やっぱり震えた。
 この野郎と思って痛む奥歯をかみ締めた。それで危うく弱味を見せずに済む。



もう何も怖くない。本番まで走ろうと思った。
大丈夫だ。この舞台は絶対大丈夫。
ヨシプも私も、ラストまで走れる。






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