scene 1








 ジダンとジャン・バチストがくたくたになりながら補習にいそしんでいた頃、クリスティナは公演会場となるヴァンティロ劇場で長い打ち合わせを済まし、やれやれと背骨を鳴らしながら外へ出てきたところだった。
 もう周囲が夜なのにうんざりする。仕事は斬っても斬っても湧いてくるというのに、誰かが時計に悪さをしているとしか思えない。
 胃が心細いのでどこか店に入ろうと思っていた時、劇場脇の演目ポスターを、随分熱心に見ている女性の存在に気付いた。
「………」
 どこかで見覚えのある顔だ。制作をやっているだけあってクリスティナは、顔と名前の記憶には自信がある。というより、コツがあるものなのだが――――女性がはっと彼女を振り向くまでの間に、脳内のアドレス帳を繰りまくり、探り当てた。
 しゃれた春コートを着て、趣味のいい鞄を下げたこのこぎれいな同年代のパリ女性は、いつかジダンが写真で見せてくれた、エマだ。
 ジダンに肘鉄を食らわし、同棲していた部屋からとんずら(失敬)した、あの女性だ。
 相手は自分を知らないはずだ。と守るよりも早く、クリスティナは営業的な大胆さをもって即座に彼女へ微笑みかけた。
「こんばんは。面白そうよね、そのお芝居。今、窓口でチケット買ってきたところなのよ」
 クリスティナは、毎度会社勤めの女性みたいな格好をしていたから、女性―――――エマは信じたらしかった。見知らぬ人から話しかけられた以上の驚きは表さずに、「ああ。ええ、そうね」と愛想よく返してきた。
 クリスティナは、彼女のすぐ隣に立ち、素知らぬ顔でポスターを見上げた。自分の名前がある。
「よかったら、あなたも買って来たら? いい席はもうほとんどないみたいよ」
「ああ…、そうなの。でも今はやめておくわ。予定が曖昧なの。本当に見たかったら、当日券に並ぶことにするわ」
 去りかける女性のコートの腕を静かに押さえた。驚く彼女に顔を寄せると、小さな声で言う。
「あなたエマでしょう?」
「―――――」
 女性は目を見開き、息を呑んだ。
「私ジダンの友達なの。――――待って、逃げないでいいわ。私自身はあなたには何の屈託もないし、実のところ感謝してるくらいだから」
 エマは、引きかけた体を止めた。だが顔は半信半疑でやはり逃げ腰だった。大体クリスティナがどういう存在なのかすら、彼女には分からないのだ。
 クリスティナは名刺を出した。腕を放して欲しそうなエマに応えはするが、その場に残ってはもらうように。
「プロデューサ…?」
「ええ、あの公演のプロデューサなの。ねえ、エマ、ちょっとカフェーで話しましょうよ」
「…だめよ」
「どうして?」
「忙しいの」
「じゃここでもいいわ。五分だけ」
「何の話があるの」
「ジダンに何か伝えることはない?」
「――――」
「責めてるんじゃないわ。でも、もうジダンとはさすがに連絡とれないでしょう。もし伝えたいことがあるんだったら、私から言っておくけど」
「あなた…。誰なの? ジダンの新しい恋人?」
「どういたしまして、単なる仕事仲間よ。プロデューサなんてみんな本質的にお節介なの。
 …何か言いたいことがあるんじゃないの? あんな目をして穴が開くまでポスターを眺めていても、彼には伝わらないわよ」
「………」
 さすがに、いきなり町で名刺を渡されたくらいで打ち解けた話は難しい。エマはクリスティナの言うことをある程度聞いたようだが、態度はほぐれなかった。
 ただひどく苦しげな顔をして、項垂れている。思わずクリスティナは
「…どうしてあんなことをしたの?」
と尋ねた。
「あなたまでが未だにそんなに苦しんでちゃ、一体何のためにしたことかワケがわからないじゃない。
 大体、ジダンと同棲までしてたってのに、彼がその…オコサマ好きだなんて本当に思ったの?」
 劇場の灯りの下で、エマは固い人形のように沈んだ表情で立っていた。手には、捨てられないかのようにクリスティナの名刺。電光を受け、光っている。
「――――教えてくれたんだもの」
「え?」
「ある人が……。ジダンには皆に隠している秘密があって……。だから……私はいつまでも……」
 カツン。
と、足音が響いた。
 クリスティナは、その瞬間、彼女がさっと顔色を変え、前を見たのに気付いた。目には、はっきり恐怖の色があった。
「………?」
 足音一つで、と怪訝に思ってその視線を追う。商店の合い間に住居が連なる劇場前の歩道には人通りが絶えない。店の灯りと街灯が橙がかった光を水溜りのように広げる中を、人はばらばらに動いている。
 その流れに一つだけ、はっきりと彼女らに向かって歩いてくる、ハサミで切り抜かれたかのような影があった。
 エマが恐慌を来たしたのは、その人物が原因のようだ。呆気に取られるクリスティナの耳に
「あれよ、あれが、あの男が」
という数語を残すと、彼女は恐怖にかられた子犬のように、身を翻し駆け出して行った。
「ちょ、…エマ! どうしたの?!」
 言葉も届かないほどの早さで、彼女は雑踏に紛れてしまった。まるで魚が藻に逃れるみたいだった。
 クリスティナは収まりのつかないのを持て余しながら、彼女を恐怖に陥れた、その男の来るのを待った。

(あれよ。あれが。あの男が?)
(彼が何を?)
(彼がエマに―――――「教え」た?)
(ジダンには、禁忌があると…?)

 エマが飛び上がって消えたのとは対照的に、足音はゆっくりと、趣味的にのんびりと近づいてきた。半ば夜に溶けるほどの、黒い服、黒い髪、整った鋭い顔立ち。
「――――どういうこと、LD」
 クリスティナは腰に手を当て、立ち止まった長躯の男を睨んだ。男は何故か夢見るような瞳で、無反応だった。
「あなたがエマを唆した? …本当に? 嘘でしょ?」
 彼はやはり返事をしなかった。目的はもっと先にあって、ここでは付き合いで足を止めたが、用事は無いのだという感じだった。クリスティナの方は、どんどん信じられなくなって問いを重ねる。
「ジダンを知ってた。前から知ってた。確かそう言ってたわよね。
 …本当なの? ――――どうして? 彼に何の恨みがあるの?」
「………」
 LDは、やはり答えなかった。表情も変えなかった。まるで見えないみたいにクリスティナを無視し、一瞥もせず、会釈もなく、また歩き出した。
 エマの後を追うように。夜の闇に消えた。








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