scene2





 デミトリは、誰もいない階段に座り込んで手すりにもたれかかっていた。灯りはまるでなかったけれど、狭い廊下のつきあたりの部屋から、喚声と明るい光が漏れてきて十分だった。
 何度繰り返しても足らぬように、オーギュストがまた演説をぶっている。音楽がガンガンと窓枠や蝶番を叩く。張り合うかのように、酔っ払った青年達が大声で騒いでいる。
 デミトリも一〇分前までそこにいた。ちょっと前に抜け出して手洗いで吐き、目が回ってヨロヨロとここへ座り込んだ。
 元メンバーたちに大勢会った(大半は酔っ払っていたが)。オーギュストの紹介で、アンリ・ロスタスとかいう、テレビ界の大物プロデューサなんてのとも握手した。大物じゃないプロデューサにも紹介された。が、矢継ぎ早過ぎて着いていけなかった。
 一時間ほどかけて、アルコールの霧がけぶる部屋の空気を胸いっぱい吸い込んでみて分かったのは、もはやこの場に自分はお呼びじゃないってこと―――――誰もが、デミトリの公演の日程を尋ねず、その顔色の悪さについて見ない振りをした―――――、そしてオーギュストが有頂天になっているってことだった。
 彼は夢をかなえたらしかった。性格まで寛大になっているように見えた。プロデューサのロスタスに対し、かなり好意的な言葉でデミトリを紹介してくれさえした。
 だが、デミトリはプロデューサ氏の目に「こいつは俺とは関係ないだろう」という冷静な判断を見たし、デミトリのほうでも同じ印象だった。
 勿論、デミトリにだって蓄財に興味はある。芝居をする時、名誉欲や集客、採算に対する意欲は必須で、これを必要以上に軽視すると表現として妙なことになってしまうことも多い。
 しかし、だったら今オーギュストが立った地点にお前も立ちたいかと言われれば、少し考えて答えはノンだ。デミトリの夢はもう少し違う。
 時のベストセラー小説を大物プロデューサの肝いりで舞台化する。いいだろう。とてもいい話だと思う。だが彼は、自分がそういったこととは壁一枚隔てて生きているように思った。
 メンツはほぼ同じでも、もはやデミトリが座る椅子はここには無く、デミトリの中にもまた、別種の夢に向かって走りだしたオーギュストを受け入れる場所は見当たらない。
 ――――デミトリは、居心地のよい、静かな踊り場の闇の中でようやく納得した。そうか。と。
 確かにデミトリは彼らにもっと早く会ってみるべきだったのである。ここには悩む余地の無い現実があった。彼らに会い彼らと話せばすぐに知れたのだ。もはや道は別れ、後戻りは叶わないのだと。
 いつかまた、分岐した道が交差することもあるかもしれない。だが今はここまでだ。「α」という集団が辿りついた答えは、これだったんだ。
 そう噛み締めた瞬間、長い間胸に育てていた暗い疑いの国が、滑り込むように小さくなるのを感じた。
 それと同時、デミトリはついに「α」を完全に失った。身分証を失ったようなものだった。五年の間、人生そのものであった支えが無くなったら、自分が崩壊するんじゃないかと前から恐れていた。
 だが、崩れていく外壁の中で、デミトリの心は自分でも意外な程冷静だった。今走り続けている別の新たな日常が、それに関わる人々の存在が、彼らに対するひねくれた愛情と怒りと負い目までもが、内側から彼を、思いがけない確かさで支えていたのだ。
 ミラのやさしい声を思い出した。小うるさい外人女アキのこと、殴りつけたヨシプの顔。心配げに自分を見守るキャスト達。照明や音響、衣装、制作スタッフの面々。さらにあの忌々しいジダン・レスコーのことをも考えた。
 …存外、オーギュストの成功を妬まないで済んだのは今、足がかりに出来る別の現実が得られているからなのかもしれない。
 デミトリには新しく舞台と本番とがあって、そして、憎しみはなかった。
誰一人、かけらも憎くなかったのだ。
 ―――――よかった。と、両手で額を覆い、ため息をついて安堵する。
 本心だった。自分はこの街的に言うと「間抜け野郎」なのかもしれないが、もう人を憎むのはたくさんだ。誰も憎まずに済んだこの巡り合わせに、手を合わせて感謝したいくらいだった。
 弛緩と共に眠気が襲い、彼は腕の中に顔を伏せ、目を閉じる。まぶたの端が少し湿ったのはまあ…、愛嬌だ。
 そのまま座り込んでいると、ドアが開いて、大音響と光と一緒にミラが転がり出てきた。
「デミトリ。――――大丈夫?」
 再び板一枚に押し返される重いビートを背後にして、ミラは彼の前に立った。手に水の入ったグラスを持っている。
「ああ。大丈夫」
 デミトリは水を受け取り、ありがたく飲んだ。それから彼女を見上げ、素直に
「ごめんな」
と言った。
「いつも頼りにならない人間で」
 ミラはやさしい顔で笑った。
「…そんなことないよ」
 水はおいしかった。一気にグラスを空にして、デミトリは立ち上がる。喧騒は続いている。家を震わすリズム音に、僅かに疲労を覚えた。
「――――お暇しようか。そろそろ」
「そうね」
 なんだか彼女は嬉しそうだ。
「どこかでゆっくり珈琲でも飲んで帰ろう。おごるよ」
「やった!」






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