scene 3





 エマは、黒い家と黒い影が無数に絡まる街を走り、走り、走って、地下鉄へ乗った。車内ではあまり青白い顔をして息を乱しているものだから、前に立ったおばちゃんが「このコ、大丈夫?」という顔で見ていた。
 ――――ええ、どうもありがとうマダム。多分、大丈夫よ。
 確かに十分引き離して乗っていた。追跡は出来ないはずだ。それでも尚、体の震えは止まらないが。
 エマの新居は遠くだった。地下鉄を乗り継いで待望のドアまで30分はかかる。とにかく早く家に入ってしまいたかった。底の見えない世界の闇が恐ろしかった。
 乗り換えの時は地下鉄構内をせかせかと一心不乱に歩いた。何か歌っているギター弾きの前を飛ぶように過ぎる。
 最寄駅に着くと、かなり奇異に見えることも辞さず、エマは走った。階段を駆け上り、改札をくぐり、道へ飛び出すと、空が鳥を閉じ込めるように真っ黒なので、恐怖が再燃した。
 街を走る。あの男からは確実に遠ざっているはずなのに、不安は胸の中で刻々とかさを増し、エマの足をいつまでも急かした。
 住居に辿り付き、キーを開け、エレベータに駆け込んだ。もどかしいほどゆっくりと上昇する箱の中で壁にもたれ、緊張した顔のまま息をする。
 エレベータから降りると、鍵穴に飛びつくように一瞬で部屋のドアを開け、中から鍵を掛けて即座にチェーンを下ろした。一気にやり遂げた時、ようやくふーっ…と気が抜けた。
 ――――安心だ。やっと安全な場所へ、戻ってくることが出来た。
 走り続けたので足首は軋み、春とはいえ汗だらけだ。エマは呼気を落ち着かせながらコートを脱ぎ、靴を柔らかい室内履きに替えて、居間へ入った。灯りをつける。男がカーテンの閉まった窓辺に立っていた。
 鞄をとり落とす。血の気が最後の一線まで一気に引けた。
「――――――?!」
どうして…?!
 男。人からはLDと呼ばれている黒づくめの男は、口元に絶え間ない笑みを浮かべ、すっと空気を切るように白い両手を広げてみせた。
「どうしました、エマ。なぜ私を避けるんです。
 あなたと私は共犯の仲良しこよし。そうでしょう? 顔を見るなり逃げ出すとはあんまりだ。傷つくじゃあありませんか」
 エマは玄関へ通じるドアを開けて再び逃げようとした。ところが、ついさっき当たり前に開閉したばかりのその扉が、今はノブを回そうとしても回らない。どれだけ力をこめて押し引きしても、最初からそんな機能は幻想であるかのように、びくともしないのだ。
 意味が分からず、焦りで手が張り付きそうになった。
「大人しくなさい。何がそんなに怖いのですか?」
 その声が、突然に間近だった。首筋に息すら掛かったように感じられ、今ひとつの有り得なさに飛び上がる。
「私の方は、こんなにあなたを愛しく思っているというのに――――。
 そんなに怖がられるとは、切ないことだ」
 信じられずに振り向いたが、実際LDは目の前に来ていた(そんな馬鹿な)。気がつけばエマの細い体は、背が高くたくましい男の胴と、開かない扉の間に閉じ込められる格好になっていた。
 LDは長い両手を回し、その恐怖など知りもしないように強張る体を反転させると、ゆっくり彼女の髪の毛を撫ぜた。恋歌にあるように。
 だが女の方は、顔面蒼白で引きつり、目には涙が滑っている。
「おやおや、私はあなたを泣かしてしまった。そんなつもりは無いのにねえ」
「――――あ、あなた誰なの…?! 離れて…っ!」
 エマの、限界を越し気分が悪くなるほどの嫌悪感が、最後の抵抗を見せて男の体を突き戻した。細い腕だったがLDは逆らわず、二歩ほど離れた。だがその足つきも、なんだかステップを踏んでいるように軽い。
「――――『誰』?
 変ですねえ、エマ。ご存知でしょう? 私は評論家。お名刺、お渡ししませんでしたっけ?」
「そんなことを聞いてるんじゃないわ…! どうやって私の部屋に入ったの?! どうして私の行く先々に現われるの?! 今日も! 一昨日も……! 部署や、電話番号まで…。…それにどうして…」
 ひとつずつ、現在から過去へと問うたび、エマは自分がどれだけ深い罠にはまっているかを知るように、ますます青ざめていった。
「――――あなたはどうして、ジダンの行動まで知っていたの。パソコンで、いつ、何を見ていたかなんてことまで…。…おかしいもの……!!
 確かに履歴を調べたら、あなたの言ったとおり、アンダーグラウンドのポルノサイトの履歴はあったわ。
 ――――でも、どうしてなの。…どうしてあなたはそれを知ってたの? 一緒に暮らしていた私ですら知らないことを!
 変だもの。そんなこと、彼と面識も無いあなたが知っているのは、とてもおかしいじゃない…!!」
 それでも、何か方法があるのかもしれないと考えていた。例えばそのサイトの発信者か誰かがハッキングをした。それでジダンの身元が割れて、履歴情報がLDへ流れた。とか。
 そんな説明がどれほど不自然でも、エマはその時、構わなかった。迷っていた彼女にとって、まずは情報を得ることの方が大事だったからだ。提供元には意識して目をつぶり、彼の話に飛びついた。
 だがLDが、その後まるで彼女の行動を把握しているかのように再三黒づくめの姿を現したり、知らないはずの新しい勤め先、知らないはずの新しい住居を知っていたりなどということが起きると、矛盾は危険な体積を持って、彼女の中で膨らみ始めた。
 のみならず、なんということ――――。今日は、部屋の中にまで侵入しているではないか。一体何なのだ、この男は? 「誰」じゃない。「何」なのだ?
 エマは、意識の奥のほうで、自分が触れてはいけない何かに触れたのではないかという生物的な直感に辿り付いていた。これは何か、途轍もなく異常な事態だと。
 しかし、それを言い表す術もないまま、一途に日常の言葉を叫ぶ他なかった。
「今すぐここから出て行きなさい…!! …警察を呼ぶわよ!!」
 LDはくすりと遠く笑い、まるでお話にならないなあといった意地悪な表情で、彼女を見た。
「警察ねえ」
 確かにその現代的な響きの単語と、今目の前に暗く闇のように在るLDとの間には、何か喜劇に近い、馬鹿げた距離が横たわっていた。何がこの違和感を生むのか、到底知りえなかったけれど。
「エマ。そんなに人ばかり責めるのはいけません。心がスカスカになるし、心証も悪くなってしまいますよ。
 騒ぎ立てれば逃げ切れるってものでもない。今更――――、誰を責めたところで、レスコー氏に対してあなたがしたことは、消えようのない裏切りです」
「あ、あなたが唆したのよ!」
「なるほど罠にはまった。と考えることは便利なことですね! 悪いやつがいて、私を唆したから、こんなことになった。しかし本当にそうなのですかねえ?」
「…な…にを……」
「だってあなたは呼んだではありませんか。自分から、私を。そして退けなかった。
 それはね通常『罠にはまった』とは、言えないのですよ、かわいいエマ」
「嘘だわ!!」
「おや、偽証はいけませんね。みんな知っているのですよ。
 あなたは先行き不安な苦しみが続くよりも、一思いの終焉を望んだ。疑惑を解消するより人を罰することを選んだ。独りで勝つことを採った。
その上責任は全部他人に転嫁するのですか?
 ジダンが悪い、私を愛さなかった。あの男が悪い、私を唆した。神様が悪い、私を止めなかった。
 ―――――失礼ながら」
LDは、楽しそうに目を線にして、口元を綻ばせる。
「豚ですな。あなたは。
 だがそれだからこそ私には相応しいひとだ。かわいがってさし上げますから、こちらへおいでなさい」
 その言葉の不穏な余韻の中で、男と女の視線がぶつかり合った。次の瞬間、エマは必死に横へと逃れようとしたが、易々と回り込んだLDの手が彼女の腕を掴み、力任せに逆方向へ引きずり倒した。仰向けに転倒しそうになったその襟首を地面寸前で掴み、斜めに持ち上げる流れのまま、側面の壁へ叩き付ける。
 女のやわらかい体が、悲鳴を上げた。
「ぃあッ…!」
「かわいそうに、エマ。だから大人しくなさいと言ったのに…。
 …私から逃げたいのですか? 私が恐ろしいのですか? 何故だろう? どうしてです?
 私の黒さはあなたの黒さ。そんなこぎれいな顔をして、当たり前に服を着たあなたの中の夜と同じ深さなのに」
「お、お願い。離して。許して…!!」
 エマの両手がLDの右手を掻く。LDは残虐な、そして孤独の笑みを深くした。
「駄目です…。遅いのですよ、エマ。あなたはもう私のもの。かくれもない私の花嫁なのです、逃げられはしない。
 知りませんか。イタリアの作家カルヴィーノ氏の小話。『地獄に落ちた花嫁の物語』」
 吊り下げられた猫のようにもがく体を、首筋から下方へとゆっくり辿っていたLDの左手が、唐突に彼女の腹に突き入れられた。
 服を破り、ぶつっ。という生々しい音と共に、指輪のはまった手がどこまでも入る。LDの笑う唇の傍で女の目が限界まで開かれた。
 手首まで埋まると、男は行為の時のように目を閉じ吐息をつき頭を揺らめかせて、先端の感触を探る。その耳にひゅうっという音が女の喉から鳴った。
 床に重い血が束になって落ちる。その滝の両脇でスカートからのぞく二本の白い足が、撃たれた若い鹿のようにびくびくと痙攣した。





第20章 了



<< 戻る fsoj 進む >>