scene 1





 朝、通勤で混み合う駅の人ごみの中にふと、エマの姿を見たように思った。だが気のせいだろう。
 一瞬どきっとしたが、近眼の遠目だし、似たようなコートは幾らでもある。大体、背筋を伸ばして歩く彼女にしては悄然としていて、幽霊みたいに影が薄かった。
 見間違いだろうと鼻先でさばいてジダンは電車に乗る。久しぶりに朝早い出勤で混雑していた。
 稽古場での作業は昨日で終わり、今日から劇場入りなのである。スケジュールはどんどんつまり始め、よって寝不足が常態化している。ジダンは大あくびをしながら、どこかでもう一度カフェインを入れた方がよさそうだ。と思った。
 ジダンの父親は胃癌を切ったことがあるが、その時医者に『珈琲の飲みすぎ』だと言われたらしい。遺伝と言おうか、ジダンも割と中毒で、特に本番前には日に一〇杯近く飲み、胃を悪くするのが奇妙な習慣になっている。そのうち彼も外科医の世話になるかもしれない。
 近くのカフェーで一杯引っ掛けると、関係者用入り口から劇場へ入った。
 スタッフ達はもうほとんど集まって、劇場つきの舞台管理者の監督の下、照明の釣り込みや音出し、楽屋の整備などに入っている。今回の舞台ではそれ程資源が多くないし、スタッフ連も手慣れたものなので、仕込みは一日で済む予定だ。
 ジダンは客席の一基に腰掛けて進行を見つつ、書類の片付けなどをしていたが、やがて役者が揃う頃には音響に続いて照明のチェックの段階になった。
「やっぱちょっと暗いか…」
 上からの灯りに少し不足感があった。サイドからの灯りを足せばまず出るが、二箇所ほど、どうしても上だけからの光で済ませたい部分があり、その映りが想定よりやや大人しめになる感じだ。
 だが、ジャンが与えられた材料で最大限に努力してくれている痕跡は随所にあった。互いに「不足ではある」という認識を持ちつつも、ジダンはOKを出す。どうしても難しければ、また本番までになんとかしよう、とゴニョゴニョ考えながら。
「追加で機材借りる予算はないよね」
 クリスティナが席を縫ってやってきたので、分かりきったことを聞く。
「寝言が聞こえたようだわ」
彼女の返答はにべもない。ジダンは「はい」と頷かざるを得なかった。
「役者連は揃った?」
「今、衣装に着替え中。もう出てくると思うわよ。アキは湿布取れてた。…あと、ジャン・バチストも来たわよ。ちゃんと、定刻に」
「ああ」
 またあくびが出そうになり、口元に手をやる。
「…ふ、失礼。彼もまあ大丈夫じゃないかな」
「ホントたらしっていやねえ」
「なにを言うとられますか。ミラのお叱りが効いたんだろ」
 普段どおりに軽口を叩いた後、ゲネプロや当日の運営について二、三調整した。
「……クリスティナ?」
「ん?」
「何か…疲れてる? 覇気がないよ」
「あら。カタキとられちゃった」
 一瞬何のことかと思ったが、確かにそうだ。昔、といっても僅か二月ほど前だが、彼女に「覇気がない」と言われたことがあったっけ。
「いや。そう考えると俺が言うことじゃないかもしれないけど、もし体調が悪いんだったら…」
 クリスティナは笑って首を振った。そうじゃない、ということらしいが、何かその動作にもカラリと晴れた常の元気さがなかった。
 待っていると、彼女は少し考えた末、大いに煮え切らない口調で言った。
「…うーんと、あのね…。…かなり馬鹿げたことを言うようだけれど、LDにはその…気をつけて」
「――――LD?」
 そんな名前が出てきて、ジダンはきょとんとする。俗世の貴族然とした風貌を持つ彼の名は、照明の光線に埃の舞うこの古い芝居小屋の中で、何故か大変浮き上がって聞こえた。
 確か数日前、カフェーで彼と話をしたが、あの時は意外に親切だったような…記憶がある。酒の上のことだから、自分でも頼りないが。
「…奴に? 『気をつける』って? …どういうこと?」
 ジダンは足りない情報の補うように彼女の表情を窺ったが、そこには曖昧な不安が漂っているだけで、言葉どおり、当人も確固とした考えにはたどり着いていないらしかった。
「あー。何て言ったらいいか分からないんだけど…。ただ…、なにかあの人……
 ――――だめだ」
 急に、やはり不確かなことを言うのではなかったという気持ちになったらしく、彼女はジダンが目を丸くしている前で、バインダーを振って空気をかき回した。
「ごめん。今の忘れて。なんでもないわ」
「………」
「とにかく。私は大丈夫。ちょっと妙なことがあったんで調子狂ってるだけ。でも体調が悪いとか、トラブルが起きてるとかじゃないから、心配しないで」
 ジダンは背の低い彼女に向かい、前かがみになって言った。
「キスしようか?」
クリスティナはバインダーで彼の頭を殴った。
「死ね、オヤジ」
「痛えな、元気じゃないか」
 その時、袖がどっと騒がしくなった。スタッフ達や役者達がきゃあきゃあ言っている。
 何事かと思ったら、準備を終えたヨシプが出てきたのだが、衣装を着て眼鏡をかけたそれがあんまりジダンに似ているというので、今更ネタになったのである。
「並んでみて、並んでみて、そこに!」
「記念に写真撮っとく?」
 ハイテンションな声と手に押されて、ヨシプが舞台上に現われる。
 衣装の連中のセンスとは恐ろしいもので、いかにもジダンが普段着ていそうな服。髪の毛もそれらしく似せてある上、鼻にはそっくり同じ型の伊達眼鏡がのっかっていた。
「―――――げ」
 自分が仕組んだくせに、ジダンは思わずカエルが潰れた時のような声を出した。勿論、身長と年齢に差があるから何から何まで一緒ではない。だが、少なくとも一〇年前に生き別れた息子に再会したら自分にそっくりでげんなりだ、というくらいの効果はあった。
「お――――、パチパチ。詐欺が出来るよ、ヨシプ!」
 傍でクリスティナがとんでもないことを言った。
「俺、こんなに猫背かあ?」
「気を抜いてる時は結構そうよね」
 騒ぎを聞きつけて他のスタッフ達まで彼を見にわらわらやってくる。当のヨシプの表情はよく分からないものの、ぶらぶら体を揺らしているところを見ると不機嫌でもなさそうだ。
「こら、時間ないのに持ち場を離れるな! 散れ! 散れ!」
「――――見ろよ、嫌なやつが二倍に増えたぜ」
「細胞分裂でもしたんだろ」
「エタノールは有効かな?」
「煮沸が一番さ」
 舞台の端では楽屋口から出て来たジャン・バチストとデミトリがにやにや笑いながら聞こえよがしに言い合っていた。






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