L'inutile
家族以外
















 先の話にも出てきた友人アキは、女優で、東京からやってきた娘さんである。ベテランプロデューサのヤコブ・アイゼンシュタットと随分年の離れたカップルを成していたが、最近互いに潮時だと感じ始めている様子だった。
 相手のことが嫌いになったわけではない。ただこのまま関係を続けていてもなんの実りもない、という認識が双方の頭の中にあって、ヤコブもそれを分かっていて相手を煙に巻いたりするような真似は出来ないという性格だ。
「お金と知恵でごまかしてもう二、三年手元においとけば?」
 ジダンは唆してみるが、六二の誕生日を迎えようとしているこのユダヤ人は取り合わない。勿論ジダンだって、相手がそう出ることを承知でからかっている。
「いや。年が明けたら外へ出す」
 愚直? いや、プライドだ。このおじさんはその絶壁に登って身投げが出来るくらいプライドが高いのだ。
 気が利いて、目が利いて、どの国に行ったって的外れなみやげ物ひとつ買ってこないこの男はいつも、真実の前に人の未練なんて何のことだという賢者の顔つき。
 彼の言葉を信じるなら、二人が一緒に住むのもあと数ヶ月のことだな。
 そう思っていた矢先、ヤコブが体調を崩して入院した。ジダンはヨシプと一緒に彼を見舞った折、気の毒にとは思ったが、ベッドサイドで失笑を抑えられなかった。



 
未練ってえのは何のことだ。
そいつは体が知っている。




 その頃アキは自宅で妙な電話を受けていた。今日も病院に行かないと、と準備に慌しかった時だ。首に受話器を挟んで応対したが、どうも話がかみ合わない。
「あの、ごめんなさい……。あなた、どなた?」
『あんたこそ誰だ』
 青二才風の声が彼女をむっとさせた。
「わたしは――」
 近く世帯を分けようとしているのも忘れて名乗ろうとした時、一瞬早く向こうが言った。
『俺はホセ――ヨセフ・アイゼンシュタット。ヤコブの息子だ』
「……えっ?」




「あんた、息子なんかいたのか」
 老骨もだいぶん回復して、明日か明後日には退院だ、と聞いた頃、ジダンはまた見舞いに行った。
 事情を聞いた彼の言葉に、寝台の上のヤコブは恥らう様子もない。
「息子の一人や二人いたっておかしくはないだろう」
「ないけどさ」
「何も聞いてなかったんだもの。詐欺かと思ったわ」
 アキはまだ驚きから抜け切っていないような顔だ。
「女とつき合う時、前歴を洗いざらい話さなくちゃならないのかね?」
「――あなたの言うことはいつも正しいわね。でも私のびっくりには、あまり慰めにならない」
「まあまあまあ」
 お見舞いの花をむしっているヨシプの前でジダンは双方をなだめた。男女のもつれは当面たくさんだ。
 ほどなく、個室に若い男が入ってきた。濃く色づいた肌。黒く緩やかに波打つ髪。がっちりした骨格に細身のビジネススーツ。
 それがヤコブの息子、ホセ(ヨセフ)だった。
名前こそ旧約聖書的だが、濃い異文化の香りを身にまとっていた。ヤコブの血族らしいと言えるかもしれない。彼自身、欧州に根ざしながらあちこち渡り歩いているせいで、どこにいても異人風になっているからだ。
 だがその息子は根の部分が違い――恐らくは南米。その湧き立つ血肉の名残を濃い灰色の布地の下に整えているが整え切れない、隠しても情熱がちな、なかなかの美丈夫だった。
「――よう」
 親子対面は何やら不穏な空気だった。ホセ氏は少々怒っているようで、魚みたいに並んでいる生白い三人にはほとんど目もくれず、ベッドの傍に立つ。
「ふん」
 ヤコブも素っ気無い。或いは、人前で遠慮があったのか――
「すまんが、ちょっと外してくれないか」
三人をやんわりと病室の外へ追い出した。
 連れ立って出て行く時、ヨシプが最後になった。ドアを閉める間際、中からなんだよあの女は。という声が彼にだけ届いた。




「――なんだよあの女は」
「聞いてるだろう」
「何人だ?」
「日本人」
「乳臭い顔して……。あんなこどもを連れまわして、恥ずかしくないのか」
 アキと彼は同じくらいの年だが、ヤコブは黙っていた。
「商売の方はどうだ」
「問題ないさ。今度結婚することにした」
「そうか」
「相手はアメリカ人で、パリに住みたいというから一部屋借りる」
「そうか」
「挨拶にあのニホンジンは無用だぜ」
 ヤコブは布団の上で手を組み合わせた。
「私はユダヤ、彼女は日本人、お前はアルゼンチン。親の連れに気を取られてるヒマがあったら、そのネクタイの柄を何とかしろ」
「……っ?」
「パリは秋だぞ。なんだその花柄は」
「――しょ、しょうがないだろう! 向こうは春爛漫でラパーチォの季節なんだよ!」
「機内で取り替えるものだ」
 ヤコブは傍にある棚から自分のネクタイを取って放り投げたが、ホセは「いらねえよ!」と放り返した。
「恥をかくぞ」
「あんたみたいに意地の悪いじいさん、パリにだって滅多にいるもんか!」





 一方、病室を追い出されたアキ、ジダン、ヨシプの三人は談話室にいた。
「やっぱりちょっと似てたね。目の辺りとか。そういや一時、アルゼンチンあたりをうろうろしてたって話、聞いたことがあったなあ。まさか子供をもうけていようとは思わなかったけども 」
「まあ実際、あたしなんて彼の人生の十分の一も知らないわけだからいいんだけどね……」
 アキはフォローしないで大丈夫よ、というふうに手を振った。実際びっくりしただけのことで、子供がいて悪いというものじゃない。
「あのさあ、ジダン。結局あの人の病名、胃潰瘍・十二指腸潰瘍だったわけだけど」
「はいはい」
「なにか、関係あると思う? その――別れ話と」
 ジダンは顎に手を当てて苦笑した。その横でヨシプはぼけーっと、点滴をぶらさげて歩いていく人や、病院のスタッフなどを『録画中』だ。
「たとえ関係があるとしても、その主張に君が付き合う義理はないよ。君だって打撃ではあるはずだ。だが年のせいか先に彼が参った。それだけのことだからね」
 アキは大きな目でジダンを見つめる。
「今まで彼がこうやって体調崩したことって、あるのかしら?」
「――聞いた限りじゃ、ないけどね」
「……あの人、プライド高いでしょ」
「ごくごくね」
「言えないんじゃないかと思うの」
「…………」
「その気持ちもよく分かる。それに――」
 そういうところが出てくると、愛しくなってしまう。
 アキにしてみれば、ヤコブは色んな意味で大先輩だ。あれほどよく出来た人間が、病になってまで自分を引き止めたがっているのだと思えば、心が動いて当然だろう。
「……ご意見はないですか」
 ジダンは横にいたヨシプをつつく。すると青年はぼさっとした髪の毛の間から目を向けて、
「Let It Be」
投げたことを言った。


 ビートルズなんか聞かせるんじゃなかった。
 そう思いながらジダンが彼女に、いやでも感情に流されつつも将来のことをちゃんと考えて……などと遅れたアドバイスをしていると、廊下の果てからホセ君が現れた。
 何故かネクタイを外している。
「おい、あんた。家に案内してくれ」
「えっ……?」
「息子が父の家へ行くんだ。何か問題があるか?」
「――……」
 彼らは「イイエ」と言わざるを得ない。





 ジダンらは夕方からよそに顔を出さねばならない用事があったので、病院前で別れた。
 アキはタクシーを拾って、仕方なく、息子さんと一緒にアパルトマンへ帰る。
「ふん――……」
 ホセは競売人のような目で、ほとんど表情を変えないまま一部屋ずつ回っていった。立て込んでいるから散らかっている場所もあるし、たとえきれいでも寝室なんか見ないで頂きたいのだが、お構いなしだ。
「何か食い物はないのか?」
 非母国語でも分かった。その言葉には、家にいれば女が食べ物を持ってくるのが当然だと思っているクラシカルな意識があった――。
 アキは腹筋が震えた。料理は馬鹿みたいに苦手だし、彼が肉を求めているのか菓子を求めているのか、理解してやる義理もない。
「悪いけど、あたし料理が得意じゃないの。向かいのカフェでサンドイッチでも買ってきましょうか」
「いや、結構。――おふくろは三食どころかパンまで自分で焼いて、かしずくように親父を遇したものだったがな」
「……まさか。そんな尊大で時代遅れな態度を取る人じゃないわ」
 ホセは軽蔑したように鼻を鳴らした。
「ブエノスアイレスは伝統と格式のある美しい街だ。俺にはNYもパリも合わない。トーキオも三度ほど行ったが、いつ行っても品のない街だな」
「――お母様は、アルゼンチンの方だったのね」
「そうだ。プリント柄のTシャツなど生涯着ない女だった」
 いちいちうるさい男だ。生活指導の教師みたいだ。
 アキの抑圧されたプライドも、いい加減目を覚ましてチリチリ言い立てた。



 幸いなことに、ホセはそれほどゴリ押しせず、すぐに帰って行った。携帯電話のアドレスの載った名刺をテーブルの上へ置いて。
 やっと玄関の薄闇の中で言う。
「悪かったな。――あの男のことだから大丈夫だろうと放っておいたら、いきなりの入院騒ぎだ。一気に色んなことが心配になってな」
「……あたしのことが、気に入らないんでしょう」
 ホセは腕を組んだアキを横目で見た。その形が、まるでトレースしたかのように、激似。
「親父の傍に自分より若い女がいて、腹を立てない奴はいないだろう。正直、財産目当てかと勘ぐるしな。
 だがあんたが悪いんじゃない。腹が立つのは、俺の了見が狭いせいだ」
「…………」
 彼がいなくなった後もアキはしばらく腕組みをしたままその場に立っていた。挙句にほうっと息を吐いて――確かにあれはヤコブの息子だと思った。
「プライド、高ッ……」




 その頃。
「ホセ君は無事帰ったのかねー」
「……」
「まさか泊まりはしないと思うけど。……メールしてみるかあ?」
「……」
「……お前、全然気にならないわけ?」
 照明が落ちる前の劇場のシートの中で、ヨシプは猫みたいにあくびをした。
 ジダンは気が多すぎる。




◆ ◆




 二週間後。アキは退院したヤコブに同行して、ホセ達が新しく借りた家へ挨拶に行った。
 場所はブローニュ脇のオートゥイユ。招かれたのはディナーとなれば、ジーンズにマフラーでは行けない。前にヤコブの見立てで買ったシックなワンピースを着て、大きなイヤリングを耳に下げ、舌を出しながらタクシーでその家を訪ねた。
 出てきたフィアンセを見てちょっと拍子抜けした。アジア系なのだ。何でも父親はアイルランド系、母親が韓国人で、小さい頃はソウルで育ったらしい。
 だがさすがと言おうか、出されたものはほぼ全て手料理で、しかも今風に洗練されていて、おいしかった。
 なるほど、うるさい人にはそれなりの技量のある人があてがわれるものなのだなあと、アキは笑ってしまうが、その横でヤコブが――


「……この冷肉はすばらしいが、器がいけないな。前菜とモダンの組み合わせはありきたりすぎる。今時、空港のレストランだって同じ手で来るぞ。
 ――アジア系の陶器に興味は?」
 フィアンセが戸惑いがちに頭を振った。
「是非勉強なさい。様々な手触りのものがあって使いこなせるようになれば大変強い。
 アイゼンシュタット家の嫁になるならその程度の知識は必須だ」
 驚いて咀嚼を止めたアキの前で、ホセがふふんと鼻を鳴らす。
「また始まった」


 確かにそれは、ほんの始まりだった。フィアンセにとっては舅であるヤコブ・アイゼンシュタットは普段の控えめな人柄もどこへやら、全ての品目について口うるさくあれこれ言った。
 グラス、銀器、テーブルクロス、ドレス、髪型、化粧。その後はデミダス、デザート、最後に水。
 それから調度品に移って、そのキャビネットとカーテンの組み合わせはいけない。どの雑誌の真似をしているか分かるなんていい恥だ。踊り場に船の絵とはどういう了見か。こんないいシリアモザイクをどうしてこんなひどい場所へ放置しているのか。
 ヨセフ、お前はこんなとぼけた鏡に毎朝自分の顔を映したいか。この匂いは何だ。香はやたら焚けばいいというものじゃない。
 この絵は虚無をテーマにしている。そんなものを寝室に飾るな。解読が出来ないなら現代美術には手を出すな。廊下のような部屋だな。こんなところにパリの客を招き入れるつもりか?
笑われるぞ。
 他人の目をあてにするな。お前は台風か。
それともふりまわされるだけの人間か。
その考えのない靴はなんだ。
時計はなんだ。
そんなオモチャで遊ぶ年か?
 お前は信用商売だろう。
カンヌに集まる道化者の仲間じゃない。
親に恥をかかせるな。



「…………」
 アキは呆気にとられてしまった。今まで彼が、人に対してこんな遠慮ない採点をするのは、見たことがない。
 確かにヤコブは衣服を買うときなど、かなりはっきりした上質好みだ。
 それでもアキが日本から持ってきたほんの安物についてなにか言ったこともないし、そもそも彼女の生活に口出しをするということもない。
 ゴテゴテした趣味の悪いパーティーに招かれても、ジダンの家の背中の曲がりそうなソファに腰掛けても、いたって気楽な様子でつきあいよく、悪酔いする安ワインをいくらだって飲む――
彼は、そういう男だったはずだ。




 つまり、息子。
商売相手でも、友人でも、年の離れた愛人でもない。
相手が息子だからなのか。
 そして一族へ加わろうとしている女性相手だからなのか。
「自分はテントみたいなところに住んでるくせに……」
 息子の非難にヤコブは言う。
「あれは仮住まいだ」





 結局、彼が点をつけなかったのは赤ワインくらいだった。マルベク種というからフランスワインかと思っていたら、ラベルには、アルゼンチン産とある。
「お変わりなくて、安心したよ……」
 10時過ぎ。ホセは薄笑いを浮かべて彼等を見送ったが、フィアンセはくたびれきった顔をしていた。
 ドアが閉まった後、居間でかんしゃくを起こして地団駄でも踏みそうだ。
「――分かっただろう?」
 走り出したタクシーの中でびくっとするアキに向かって、ヤコブは口の端に皺を寄せた。






わからずやの胃腸は離反する。
同情はあえて頂戴する。
だが、逃げろ逃げろ。






(了)




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