L'inutile
もう森には行かない










「なにしろ夢うつつのありさまでして。
どうやってここへ来たのかさえ、覚えておりません」




「私もそう。だってディミトリアスが拾い物の宝石のように、 私のものであるともないとも思われて」





『真夏の夜の夢』より









「…………」
 まず視界に映り込んできたのは白い天井。
白い壁紙。
 ラグの上で体をひねったら、おかしな寝方をしていたせいで、腰が痺れている。


 ヨシプ・ラシッチは、だるい体を起こした。自分は素っ裸。そして辺りはまったく見覚えのない他人の家だった。遮光カーテンに遮られて薄暗いが、その向こうは既に、白々と明るい。
 ……どこだここ?
皮膚にかゆみがあった。引っ掻いたら、何かがパリッとはがれた。



「起きたの。おはよ、スナウト」
 幸いなことに、そう言いながら居間に入ってきた女性は誰だか知っていた。舞台「真夏の夜の夢」で一緒に仕事中の、少し年上でだいぶ格上の女優。ヘレナ役のマチルドだ。
 額の上で一直線にカットされた栗色の髪の毛が水を吸ってくっつき、猫みたいな目が二つ、軽い微笑みにたわんでヨシプを見つめた。
「シャワー浴びる? 目が覚めるわよ」
「……ここ、あなたの家?」
「そーよ? やっぱ覚えてないんだ。……ふふ、お互い、かなり酔ってたものね」
 そう言われて、おぼろに記憶が出た。廊下でガチガチ震えながら壁にもたれて、彼女が鍵を開けてくれるのを待っていたような。
 だが一緒に何故か、しつこいまでに森の記憶。
「……森の近く? 来るまでに歩いた?」
「森……?」
 彼女は長く白い首を傾げたが、やがて得心が行ったように
「ああ、それは――」
 モダンなキャビネットの上におかれた、なめらかな球体をしたリモージュ陶器を示した。
 古い香水の瓶のような形だ。そのてっぺんには、ゴールド色の指貫大の金属がついている。
「これじゃない? アロマランプよ。昨日の晩、あなたが来た後、新しいオイルを開けてみたのよね」
 どうしてか苦笑しながら彼女が取り上げた瓶には、銅版で写したようなシダの絵のラベル。
 タイトルは『Foret Vierge』。
『森のなか』。




 人の家の浴室で体を洗うのに手間取っているうち、彼女が脱衣所に下着を持ってきてくれた。居間で拾い集めて積み上げられた衣装の上に、まだ袋に入ったままの、新品のトランクス。
「サイズ合わなかったらごめんね」
 ある意味世話を焼かれることに慣れきったヨシプは、深い考えもないまま、諾々とその新しい下着を履き、昨日着ていた服を身につけた。服からは一晩で焚き染められたらしく、微かに森の香りが立ち上る。


 マチルドは、どんなこともてきぱきとできる能力の高い女性のようで、台所のテーブルの上には軽食が用意されていた。ヨーグルトやら、シリアルやら、ミルクやら。
 偶然にもお気に入りの銘柄のシリアルだったので、ヨシプはまるで獲物を捕まえる鷹のようにガッとそれを取る。
 だが、その時点でやっと教育が舞い戻ってきて、きょろりと目を上げ、マチルドに言った。
「いただきます」
「どうぞ――ふふ……」
 マチルドはいつもより落ち着いたものやわらかな様子で、ゆっくりとコーヒーを飲み、煙草を吸った。
「あなたって、見た目の印象とちょと違うのね」
 やがて灰皿に吸い終りを押し付けながら言う。
「衣服もいつも渋いし……、てっきりパーティーとかクラブとか、そういう派手な場所が苦手な、人嫌いなタイプかと思ってた。
 ハーミア役のアキとは仲良しよね? でも彼女が行かなければ、食事の誘いだって断って、さっさとうちに帰ってたでしょ。
 あんなふうにかぱかぱ飲んで、しかも酔い潰れて寝るなんて意外だった。
 実際忌々しかったわ。体は重いし、朦朧として、ちっとも言うこときかないしね」
 言う割りに彼女は機嫌がよかった。稽古場ではイライラしたように見えることが多く、実際声を荒げて演出に食ってかかったこともある。
 彼女の実力と人気は、公演に参加している役者の中でも一番と言われていた。演出に対する注文も、単にヒステリックになっているのではなく、いちいち的を得ていてみんなを感心させる。
 同時に彼女は敬遠されていた。才長けて手強く、滅多なことでも言おうものなら、ぴしゃりとやられそうな怖さがあるからだ。
 『村人役』の一人にすぎない受身なヨシプとは、出番的にもほとんど交流がなかった。
 彼のほうも彼女の指摘するとおり、今まで単身で飲み会に出たことはない。それが昨晩に限って、二つ返事でクラブに直行。驚いたスタッフ達にからかわれながら、何時間も酒を飲んで記憶が飛ぶほど酔っ払い、気がついたら裸で――森の中ですか。



「…………」
 木のさじが止まり……、ちょっと、やばいかな。という不安感がヨシプの表情に現れた。
 彼が飲みにつきあわず家に戻ることが多いのは、保護者であるジダン・レスコーの方針に従っているからだ。
 彼はこの目の離せない被保護者が、自分の知らないところでドラッグを覚えたり、いかがわしい人脈に引き込まれないよう、気をつけていた。
 だからヨシプも、彼が大丈夫と思ったパーティーになら出席するのだ。アキと一緒なら飲み会OKというのも、つまりは同じ理由。
 ところが彼は昨夜その慣例からはみ出す行動を取った。しかもたぶん――故意に。
 ヨシプはそれが自分で不思議だったし、習慣からはみ出した分、ぼんやり「いけないことをした」気分だ。
「…………」
「何かあったの? 舞台演出家と住んでるって噂だけど、その人と喧嘩でもして、帰りたくなかったとか?」
「――いや……」
 実はジダンは、四日前から田舎に帰省していて留守なのだ。
「じゃ、先生のいない間にちょっと羽根を伸ばしたかったとか?」
 もちろんそうじゃない。ヨシプは田舎者だ。しかもぐうたらな田舎者だ。家畜のように柵のなかを何周でもウロウロして、全然飽きないタイプ。
 それが今回、こんなことになったのは――


「――アキが……、ヤコブと別れて……」
「……はあ?」
 話がいきなり反れたのでマチルドは目を丸くする。
「――アキが……、ヤコブと別れて……」
 ヨシプとしては、そこからしか始められないらしい。省略も倒置もならないらしい。
 マチルドは煙草を持った手を頬に当てて、笑った。ヤコブが誰なのか知らなかったが、まるでよく出来た幼稚園の保母さんのように、
「そう。アキが、ヤコブって人と別れたのね? それで?」






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