L'inutile
もう森には行かない







「我が被保護者たるヨシプよ、座るがいい。
 貴殿も知っているように、ついに上階に住むヤコブの部屋から、アキがひとり立ちをした。有体に言うなら別れたのだ。林檎の枝から実が落果するように。鳥が巣から飛び立つように。
 こういう時、男としてまた友人として、どのように振舞ったらよいか分かっておろうな?
 相手は怪我人と一緒だ。むやみに動かしたり手を出したりして傷口を広げるようなことをしてはならぬ。相手の痛みを思いやって、ほどよい距離を保って、優しく接してやるのだぞ。
 幸い『再考シェイクスピア月間』での舞台『真夏の夜の夢』で、貴殿らは共演することになっている。
 サポートしてやるのだ、優しく。分かったな。ハーミア嬢の大役、つつがなく果たし終えたなら、彼女にとってこの先の人生の励みにもなるはず。
 ところで、いくら台詞回しに慣れたいからってこのシェイクスピア調の会話、もうやめない? ものすげえ疲れるんですけど」








ちなみに「真夏の夜の夢」とは、親に結婚を反対されて駆け落ちすることに決めたライサンダーとハーミア、そのハーミアに横恋慕する青年ディミトリアス、それに片思いするヘレナの四人が妖精の森に迷い込み、アホウな妖精王の媚薬のせいで相手を取り違えたりカップリングがあべこべになって散々な目に遭うという内容の喜劇です。






「――ああ、そう。それで言いつけに従ってあなたはいつも、アキにべったり張り付いていたわけ。
 みんながあなた達はデキてるに違いないって噂してたの知ってる? ……もっともあなたはそんなこと、気にしそうにもないけど」
 もちろんだ。気にしない。だから人目も憚らず、考えられる範囲でアキに手厚く接していたわけだ。
 ヨシプは普段が普段だから、何をしていてもちょっと頭が足りない感じがする。何か一つのことばかり反復している時は雰囲気が犬っぽくなる――つまり本人は真剣だが、周りは全く見えていないというような。
 二人が恋人として取りざたされたのも無理はない。ヨシプは稽古が始まって以来、まったく忠実な恋人のようにまめまめしく彼女に誠意を注ぎ続けた。
「いいじゃない、それで?」
「……」


 音を上げたのがアキだ。
彼女は意外に自立傾向の強い女性で、他人の世話になることが苦痛だったのだ。
 彼女は彼らとのつきあいの長さから、でこぼこな男二人の間でどういう会話があったのか大体察していた。
 きっぱり止めないことには、ヨシプがジダンから言われたとおりのことを、無思考に守り続けるということも知っていた。
 それで一昨日の昼休みの時間に、ランチを食べながら彼に言ったのだ。


『私は大丈夫だよ、ヨシプ。強がっているんじゃなくてね、本当に大丈夫なの。だから特別メニューはよして、普通に戻りましょ。今までありがとうね。気持ちは、とても嬉しかった』



「それで……」
 ヨシプは憂鬱そうな目を真ん中に寄せた。
「困って……」
「ふっ」
 マチルドはテーブルの上に両肘をつくと、重ねた手の横に額を当て、笑い出した。くつくつと。



 応用の効かない忠犬ヨシプにとって、最も対処に困る事態が到来してしまった。
 一人から出された命令が、相手によって停止させられる。どうしていいか分からない。
 しかも間の悪いことに、ジダン・レスコーは留守である。彼は突然、隙間に身を挟まれたような不便を感じた。
 彼の帰省も、それまで思ったほどの問題は発生していなかった。仕事でジダンが短期に家を空けることはこれまでもあったし、朝昼はつまりアキと一緒だ。
 稽古が終われば彼はアキをベルヴィルの新しいアパルトマンに送り届け、途中で適当にテイクアウトものでも買い、後は家でテレビを見ていれば済んだ。
 ところが昨日の晩、彼は初めて曰く言いがたい空虚さを感じ、テレビのスイッチを落としたのだ。
 すると家の中は暖房器具の低いうなり声だけ。シーンとしている。
 前は上階へ行けばアキがいた。向こうからお菓子を持ってやってくることもあった。だが今は、部屋いっぱいのがらんどうな空気が、出張中のヤコブ・アイゼンシュタットの留守を守っているだけだ。


 昨日は、稽古が終わりに近づくと憂鬱になった。家へ帰っても仕方がないという気分になった。
 自分に指示を出してくれる者もいない。
親しい友もいない。
 そこに酒の誘いがかかったのだ。
『お前、今まで一回も来たことないだろ。一回くらい来いよ、楽しいぞ!』




 マチルドは新しい煙草を唇に挟むと、ライターで火をつけた。
「そういう気持ち、なんていうか知ってる?」
「…………」
 何ていうの? という目の問いかけに、彼女はたっぷり煙を吐きながら笑う。
「教えてあげない。自分で気付きなさい」
「…………」
 気のせいか、ヨシプは僅かに恨めしげだった。
「――ふふ、でも、なるほどね。そういういきさつだったの。私はまた、アキにフラレでもしたのかと思ってたわ。まあシャクだから黙ってたけど……」
 マチルドとアキは多量のセリフを分け合う大役同士だが、歩んできた過程と性格的な差が邪魔をして、さほど仲良しでもない。
「覚えてなさそうだから、一応言っとくわよ。あなたクラブで寝ちゃったの。解散は午前二時くらいだったんだけど、置いて帰るわけにもいかないじゃない。
 へべれけになった子は他にもいて、私はたまたまあぶれたあなたを引き受けたわけ。タクシー乗り降りする時は、あなたもちゃんと二つ足で立ってたわよ? 覚えてない?」
「……」




 追い立てる北風から逃げて、荷物みたいに部屋へなだれ込んだまでは何もおかしくなかった。
 おかしくなったのは、部屋にアロマオイルを焚いた時からだ。
 ヨシプがうとうとしながら「煙草の匂いがする……」と言うので、彼女はいつものように、ランプで香油をくゆらした。
 オイルがいつもと違っていた。たまたま買ってきていた新しい「森の香り」を試そうと、きれいなランプに注いで火をつけたのだ。
 一分もしないうちに、二重のカーテンに閉じ込められた暗い部屋が、水に濡れた苔に覆われた、原始の森になった。




暗闇の中に、小さなランプの橙の灯り。
濃厚な土の香り。水の香り。
苔や、シダや、腐食した枯れ木の香り。


霧が流れる。なんて静かなんだ。
霧が流れて、この深い森の中に、
自分と、横たわる男。




 ――それでもまだ、マチルドはソファで足を組み、行き倒れた旅人みたいにラグにうつぶせの彼を、じっと見ているだけだった。
 そうだあの芝居では、こういう時に妖精がやってきて、まぶたに妙薬を垂らす。


 水を摂りに台所へ行った。
そして戻ってきたら、ヨシプがうっそりと起き上がって、ラグの上に座っていたのだ。
 彼は全く何の音も立てずに振り向いて、そこに立つ彼女を見た。
 黒いヨシプの瞳と、青い彼女の瞳がかち合った時、ランプの明かりが消えた。








「……」
 明るい部屋の中で点をつなげるヨシプは、何一つ覚えちゃいなかった。
「襲ったと言われるのは心外よね。確かに最初肩に手をかけたのは私だけど、あなただってすぐ両腕で私にしがみついてきたし、私が服を脱ぐのも待たずにここ、噛んだんだから」
 彼女はサイドに手を入れて髪の毛を上げ、首筋に残る赤い跡を示した。
「…………」
「朝、消毒したわよ。ホント子どもみたいだったわ?」
 マチルドは意地悪くからかうように笑う。




 ――或いはとても昔。人々が地のことも天のこともまるで知らずに、森には妖精がいると信じて生きていた時代の、ぼんやりした青年みたいだ。




「にしても、そこまでカンペキに忘れられてるとちょっとシャクねー。
 これ、もう一回燃してみる? 匂いをかいだら、思い出すかも」
 マチルドは腕を伸ばしてランプを胸の前に引き寄せたが、やがて蓋を外す手を、そのまま置いた。
「……やっぱり止めよ。もう昼だし、またおかしな気分になったら困るもの」
「……すいません」
 彼の謝罪にマチルドは笑い出した。
「どうして謝るの? あたし達は大人だし、既婚者でもないし、酒の上でのことじゃない。なにビクビクしてるのよ」
「…………」
 なにもヘチマもないだろう。今は上機嫌らしいが、役者の中で最も恐れられているマチルドじゃないか。さすがのヨシプも、
「だって、稽古場じゃずっと不機嫌そうで……」
と言った。
 マチルドは否定しない。
「そうね。あたし正直言って、この仕事嫌だったの。だってねえ……」






「だってなんてつまんない話だろうと思ってたのよ」
 初老の演出に同じことを言われて、彼女は答える。昼過ぎに始まった稽古場で。
「妖精のクスリのせいで好きになったり嫌いになったりドタバタして、頭悪すぎ。シェイクスピアが当時偉大だったのはよく分かるけど、どうして今更こんな古いお芝居しなくちゃならないんだってフクレてたのよ」
「で、考えが変わった?」
「どうかしら?」
 彼女ははにかんで笑う。演出は手を広げた。
「とてもよくなったよ、マチルド。ぼくは嬉しい」


「ホント――。
 昨日までは、どの場面もどっかぎこちない感じがあったのに、今日はセリフの奥に理解が滲んでる……。すごく魅力的になったわ。テキストを消化したのね。すっごいなあ……。それとも、何かあったのかしら?」
「さあ」
 アキの感嘆に生返事のヨシプは、別段とぼけたわけでも、ごまかしたわけでもない。因果を考えるのは彼の仕事でない。


 携帯にジダンからメールが入っていた。
『昨夜、家に電話したけど出なかったな。どこへ行ってた?』
 彼は率直に返答する。
『森』






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