L'inutile
わるいひとたち





「やあ、ヨシップー。おはよう!」
 首からIDカードを下げた三人の男性クルーが、ヨシプに向かって笑顔で朗らかに挨拶した。しかし廊下ですれ違った後、互いの距離が5メートルほど開くと、一人が「クワ! クワ!」と鳴きまねした。
 どっと背後で笑い声が起こるが、ヨシプはもう、振り向きもしない。
 最初はなんのことかと思っていたが、この三日で慣れた。
 彼らがヨシプを見るとカラスの鳴きまねをするのは、この国ではクロアチア、という国の呼称とカラスの鳴き声に相当する単語の音が似ているからだ。
 はじめは、『トルコ人? ロシア系? は? クロアチア人? それって、どこだっけ? ふーん? ああ君ひょっとして、イスラム教徒? ブタ食えないの?』というところから始まった。
 以来彼らは――女性も大勢いるが――ヨシプを見ると、いつも集団でにやにやとした笑みを口元に浮かべる。彼の真横でなにか侮蔑的な物言いをしては、くすくす笑い合うことさえあった。
 ヨシプが無抵抗なことが、彼らの行動に拍車を掛けた。その分かりにくい人種、おとなしい性格、おさがりの多い衣服などがあいまって、彼はやすく扱ってもいい人間と見なされたらしい。
 スタジオでの仕事に不慣れなヨシプが何か失敗をすると、スタッフ達はひどく横柄になって彼を罵倒したりする。それでいて彼ら自身の失敗は笑って水に流され、上の人間もそんな状況をまったく野放しにしていた。
 ヨシプは今、某テレビ局のドラマ制作部の廊下にいた。






「――やっぱり一度はね、こういう仕事も試してみるべきだと思うのよ。舞台はどうしたってお金にならないし、あなたの将来の可能性をはじめから限定してかかるべきじゃないもの」
 クリスティナは、ヨシプの新しい仕事について、こう言った後、済まなそうに付け加えた。
「ただね、本当はもっと条件のいいものを用意してあげたかったんだけど……」








「もしもーし。おう、ヨシプ。デミトリだよ。
聞いたぞ。お前、今、ZTVの深夜ドラマの仕事してるんだって? よくやるな。
 いや、そりゃあれは人気番組だよ……。でも俺は好きじゃないんだ。なんかこう、筋的に努力しない連中が弱いモノをいじめて喜ぶようなところがあるから。いやまあそれが受けてんだけどな。遺憾にも。
 ……で、お前何の役で出るのよ。は? ギリシア人? の、不動産業者? 主人公の会社を詐欺にはめようとする? ……最後は、どうなるわけ? ……車ごと下水処理施設の汚水槽に転落死……?
 ……よくそれ、ジダンがOK出したな。ああそうか、今ジダンも忙しいのか。舞台が本番前だもんな。……え? それに『エンディングはこないだ急に変わった?』
 ……それって、本当に『急に変わった』わけか? 『急に変わ』ることは『前々から』決まってたんじゃねえのか? クリスティナが抗議してる? そりゃそうだろ、ったく……。
 いや、お前が出るなら、その回は見ようかと思ってたけどな、お前がそんな粗末に扱われるならやめとこうかなあ。なんかこっちが傷つきそうだ。
 お前もあんまり色々我慢するなよ? いやならケツまくれ。あいつら人の足元見るからな。
 あ、あと。あそこのレギュラー連中、素行が悪いんで有名だ。以前には麻薬の逮捕者も出てるし。おかしなことに巻き込まれるなよ。気をつけろ」
 次の日、ヨシプがスタジオに行くと、入り口前で主役の二枚目がファンに取り囲まれてサインをねだられていた。





「――キミ、偉いね。よく我慢してるよ」
 スタッフもキャストも、全員が全員、心無いいたずらばかりする連中ではない。
 ヘアメイク担当の小柄で眼鏡の男性は、メイクまで悪人チックなヨシプに同情的だった。
「いけないよね、この業界は。金が集まりすぎるんだよ。だから、みんな勘違いする。レギュラー陣なんか、君に挨拶もしないだろ。モラルの低い人間に力を与えたら、すぐあんな状態になっちゃうんだね。
 そのくせ視聴者は、ドラマの役柄だけ見て、彼等をクールで頭もよくて尊敬に足る人間だと信じ込むんだ。やりきれないよ。
 連中に乱暴に扱われて、スタッフ達もすっかり性格曲がっちゃって。もっと弱い人間を見つけちゃ集団でいびるんだ。僕も新人時代は、随分意地悪されたもんだよ」
 セットの最後に彼は、白い手を口の横に添えて、そっと耳打ちしてくれた。
「いいかい、ヒロイン役のアレクサからパーティーの誘いがあったら、断ったらダメだよ。彼女は自分は寛大な人間だと信じててね。取るに足らない人間を自宅に呼んでやることで優しさをアピールするのが好きなんだ。
 だから、それをこっちから断ったりしたら最後。二度とテレビで仕事したくないって思うようになるほどいびり抜かれるから。過去にもう七人ほど、そういう犠牲者が出てるからね」
 彼のアドバイスは、時宜を得ていたと言えよう。その日、レギュラーの遅刻から押しに押した撮影が終わった時、彼は女優アレクサから憐れみの笑みと共にパーティーに招待されたからだ。






 よく、ゴシップ雑誌などで『ぞっとするようなパーティー』という修辞を目にする。
その日のそれはそれだった。
 アレクサの馬鹿でかい自宅は、すべての部屋が解放されて人で溢れていた。始まった時刻は午前二時。派手に音楽がかけられ、当たり前のようにアルコールが飛び交い、ドラッグが回され、薄暗い部屋や浴室からは、人の喘ぎ声が聞こえてきた。
 ヨシプはグラスを手にしたまま、居間に通じるドアの敷居に、片足をかけて立っていた。
 みんなここでのお作法を心得ているものと見えて、しらふでいるのは数人だけだ。
 目を奥へ転じると、アレクサは広いベッドの上で、三、四人の男女と一緒に遊んでいる。何のつもりか、その脇ではスタッフの一人がビデオを回していた。


 一時間ほど辛抱したので、もういいだろうとグラスを台所に返しに行く。すると、そこに例のヘアメイクの彼がいた。
 調理カウンターの上に白い粉でラインを引いて、それを一生懸命、鼻の片側の穴から吸い込んでいるところだった。
 そのほかに、フタの開いたピルケースが二、三転がっている。床には女の子がぶっ倒れている。
「い、いやあ、ヨシっプくん……。いやあ……」
 粉のついた口元、焦点の定まらぬ目で、彼は笑った。
「らっ、らめだよねえ、うふふ。らめなことは、分かってるんだけど……。ホント。分かってるんだよー……? でもここ。ここは……、ふふ、ここちよくへえ……」
 玄関に向かうためにいったん居間へ戻ったら、ソファーに座ってアダルトビデオを見ていた連中が一斉に、彼に向かって鳴き真似をした。
 カアッカアッカアッカアッカアッカアッカアッ!





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