L'inutile
25.大変ですね
「あ、あの。よろしかったらサインしてもらえませんか、ムッシウ・ビセ! …ありがとうございます! 私も母も父も大ファンなんです。これからも応援してますから!」 「いや、ムッシウ・ビセ! 一言だけ言わせてください! あのドラマ、『占領下日記』におけるあなたの演技は素晴らしかった! 私、当時の歴史を調べるのがとても好きなんですが、あの解釈は全く的を得ていました! 他のコクトー役を思い浮かべるのがむつかしくなったくらいです! すいませんでした、お寛ぎのところをお邪魔をして! それでは、次回作も楽しみにしてますよ!」 「キャーッ! ビセ!」 「……」 (黙ってノートを出す) 「大変だな」 ムッシウ・ビセ、ムッシウ・ビセって一体誰のことかと言うと、お久しぶりのジャン=バチストだ。 ジャン=バチスト・ビセ。 かつてデミトリの劇団に所属していた一癖も二癖もある役者だが、その後スペインやメキシコなどで仕事をし、二月ほど前にパリへ戻ってきていた。 「僕のことなんか忘れてたでしょう?」 彼は両眉をくいと上へ上げてお得意の虚無的な冗談をかます。 「はは、まあね。けど二週間前の土曜にすっかり思い出したよ」 その日、彼が出演したテレビドラマが放映されたのである。それが老いも若きも大好きなジャン・コクトーの役で、実に飄々と見事に演じたものだから、彼は今、あちこちでファンに囲まれる有名人になっていた。 「いや、しかし悪かったな。君がこれほど著名になってると知ってたらこんなビストロじゃなく、それなりの店にしたのに。露天席も仇だ」 「いやいや、構いやしないですよ。僕には片肘張った店より、こういう店のほうが合ってるし。 こんなのお祭り騒ぎですよ。一月と続きは――」 今度は道端から声が飛ぶ。 「ジャン=バチスト! 君の演技は好きだよ!」 「はい、ありがとう。 ――みんな、僕個人のことで騒いでるわけじゃないですからねえ。この間テレビで見た人が街を歩いているからびっくりしてるだけで」 「いや、それでも俺の認識が甘かったよ」 ジダンは馴染みのウェイターに、カウンター席のお客に注意するよう眼で促した。距離をよいことに、デジタルカメラでこっちを撮影しようとしているやつがいる。 最近はカメラが高性能なので、これだけ離れていてもズームで取ると鮮明に映ってしまう。許可なしでそれは、いくらなんでも無作法だろう。 ジャン=バチストも事の成り行きに気付いたらしいが、まぶたが厚く、眠たげに見える目で店の奥を伺って、それからまた楽しそうに笑うだけだ。 そこには動物園の動物が、檻の向こうから人間を見て皮肉に笑っているような不遜さがあった。 多分、この謎めいた余裕がまたかえって人に行動を許すのだ。変に大物っぽい。 ジダンも彼には割合に率直なことを言っても大丈夫だという認識を持っていた。 「クリスティナが出掛けに『大丈夫? 大丈夫?』って騒いでた理由が今頃分かったよ。もちろん君が人気者になってるのは知ってたが、正直そこまで大したことないだろうって思ってたんだ。ナメてた」 「ははははは。そうでしょ。ただねえ、最近、気付いたんですが、僕、意外にテレビ向きなんですよ。僕のこの名刺みたいなうすっぺらさが、テレビの提供する商品の濃度にちょうど合うんですね。 逆にひどく重厚なものを要求される現場には、僕はお呼びじゃない。元の人格の薄さや、安物感がどーしても出ちゃうんでね、いい仕事できません。芸術家肌の潔癖なヒトからは怒られることも多いし。誰とは言いませんけど」 「確かに君なら、手荒なテレビクルーともうまくやって行けそうだな」 「ええ。一緒に悪徳の泥に染まって楽しくやってますよ。バクチしたり、ラリってみたり、人の大悪口なんかを言い合いながらね。どうです? 真面目なデミトリやあのヨシプにはとても出来ない、別種の芸当でしょ?」 ふてぶてしい悪魔のようなその微笑。 ジダンは思わず下を向いて、苦笑いを逃がした。 これがナチスの占領時代を耐え、パリの良心であり続けたあの繊細なコクトー役をやって、大当たりを取った男なんだからなあ…。 つくづく役者ってのは、やくざな商売ですこと。 ジダンは彼にワインをついでやりながら、話を変える。 「そういや、君がスペイン語を操るとは知らなかった。スペインやメキシコでも活躍してるんだってな?」 「ええ。大学時代からスペイン語は得意だったんです。それに前、スペイン人の彼女とちょっとだけ付き合ってたんですよ。その子が向こうの監督さんと知り合いで、コネでずるずると出ることになりまして。 いや、愉快な土地ですよ。温暖だしね。本音言うなら冬は向こうで過ごしたかったなあ」 パリは今日はよく晴れているが、朝晩の冷え込みがひどく、もう木の葉が落ち始めている。白いため息を吐く昼まで、もうじきだ。 暖かい南米の土地を思って、ジダンも苦笑いした。 「そうだろうな。友人もいるんだろ? 年明けまであっちでぬくぬくと過ごしてきたらよかったのに。次はいつ行くんだ?」 「いや、メキシコにはしばらく行きません。ちょっとヤバい状況になっちゃったんでね」 ――ヤバい状況…? ジダンは眉をひそめ、率直な疑いをこめて彼を見た。 「…何したんだ、今度は? 揺すりか? いかさまか? 不倫か?」 ひどい言い草だが、ジャン=バチストはそれくらい普段の素行が悪いのだ。大それたことはしないけれど、ちょこちょこと小さな悪事をやってのけるタイプで、しかもあまり反省がない。 ジャン=バチストも怒ることなく、ただにやりと笑って見せた。それからおもむろに右の袖を捲り上げ、毛の生えた腕をぐいと前へ示す。 「――…」 ジダンの笑みが消えた。別段見たくもない彼の一の腕を横断するように、ぎょっとするほど長い、新しい切り傷が走っていたからだ。 そこには外科的に縫合された痕があり、周囲からもりあがって傷を覆った新しい肉が、独特ななめらかさで光っていた。 刃物か何かでさっくり切り開かれた感じだ。さぞたくさん血が出たことだろう。 「……」 ジダンの反応を一通り観察し終ると、ジャン=バチストは笑って袖を戻した。それから椅子にのびのびと寄りかかって、新しい煙草を口にくわえる。
◆ その日、ヨシプは新しい舞台の仕事のために、郊外の文化ホールにいた。中庭を備えた巨大ビルの中に、小中大の舞台、フードコートやミュージックショップ、本屋を併設した複合的な文化施設である。 彼は舞台リハーサルの為に中ホールにいたのだが、残りの二つは昼からイベントをやっていた。大ホールではバレエのマチネ公演。 小ホールでは何かといえば―― 「近くの高校や音大の生徒による無料クラシックコンサートだってさ。市民と学生の双方の為にやってんだろうけど、なんか楽器構成がムチャクチャだったよ。ピアノだったりホルンだったりギターだったり」 「あら、おもしろそうね」 「そうかあー? 子どもの弾くクラシックはやっぱこう、どーにも舌ったらずなもんだぜえ」 「そうだよ。俺、前に姪っ子のコンクールに付き合って公開試験を昼中聴いてたことあるけど…、なんか中学生向けのドラマを見てるようなすげー恥ずかしい気分になったよ。『大人のプロはいかにプロなのか』ってことがよく分かった貴重な体験だったぜ」 スタッフと役者が話しているのを、ヨシプはただぼけっと聞いていた。ジダンがあまりクラシックを聴かないので、彼にも素養がないのである。 組合の基準を守るビジネスマンのような演出家で、リハーサルは夕刻にきっちり終了した。 ヨシプは着替えを詰めた鞄を肩に掛け、ホールの玄関のガラス戸を押し開けて、地面に照明の並んだセンターの中央を横切る。 ちょうど小ホールでもイベントが終って客を送り出しているところだった。客と言っても平日昼間の無料イベントだから、層が自然と決まっている。 年金暮らしの老人達、それから女性、学生さん。たまに中年男性。そんな人々だ。 その細い流れを前に、ヨシプの足がすうと止まった。そこに混じるのを、体が避けた感じだった。 別段、異常があったわけではない。だが、何か、奇妙な雰囲気が漂っている。 ――誰も彼も、秘密を暴かれ、自分の正体を人に知られて、どうしようもないというような顔をしているのだ。 明らかに眼を潤ませている人。或いは、頬に涙のあとをつけた老婆もいる。みな悲しい面持ちで背中を丸め、ぞろぞろと道へ出て行くのである。 まるで、葬式の行列みたいだった。 「……」 一体、どういうコンサートだったんだ。 ヨシプは首周りのマフラーを直すと、壁のポスターの前に進んで曲を確認した。 最後の曲は ベートーベン ピアノソナタ第8番ハ短調 ええと、誰ですっけ。ベートーベンて。 こないだピアニストの役をやったくせに大変初歩的なつまづき方をしたヨシプが、解を得ぬままポスターから離れようとしたとき、眼が、最後の一瞥でその演奏者の名前を舐めた。 V.ダール ダール? V ――…ヴィカ・ダール? 「…だからヴィカ。あんな態度はないよ。せっかくみんなが褒めてくれてるんだから、素直に受け取っておけばそれで済む話じゃないか。 どうして君は、そう無闇やたらに人に――」 声がしたほうを向くと、もう人影も消えた会場から、鞄を持った十代の生徒が二人出てくるところだった。 めがねを掛けて縮れ毛の、そのままどこかの彫刻になりそうな男の子と一緒に、明確に見覚えのある、少女。 「……」 ヨシプは別ににこりとも、「あっ」と言う顔もしないまま彼女を見た。 彼女のほうも同じだった。ただ足を止めて、ぶつかりそうになって慌てる傍の少年にも構わず、黙ってヨシプに目をやった。
◆ 「実はメキシコで、襲われましてね」 「お、襲われたあ?」 「ええ。ファン――なのかな。僕の出演したドラマを見た人から」 ジャン=バチストは短くなった煙草を灰皿に押し付けて残りを諦めると、空いた手を空中で組んだ。 「こっちでは放送していないので、知らなくても無理ないんですが、ソレ、もともとはスペインで撮った弁護士ドラマだったんです。で、それがメキシコでも放映されたんですけど…。 とにかく、僕の演じた役が悪くてね、金持ちの悪徳弁護士なんです。法律家のくせにだまし討ちはする、子どもは売り買いする、麻薬は密輸する、ヒロインは虐待する、黒魔術は行なう、正義の判事は殺す。 極悪でずるがしこく、しぶとく、しかもいやらしくおぞましい外見の、悪魔のような白人男の役どころだったんですよ」 「……」 懲りない誰かが店の奥でデジカメのシャッターを切った。しかもバカだからフラッシュまで焚いた。 「僕、そういう役、舞台でやり慣れててねー。ちょっと張り切りすぎたんですかねえ。放送終了直後から、全国的に大変憎まれてしまって。もちろん明るいうちはトラブルなんか起きませんよ。でもまあ真面目そうな女性と老人にはよく逃げられたなー。 あと、一人になる時がいけないんです。身に覚えもないのに睨まれたり、肩をどんとぶつけられたりね。すれ違い様になんか言われたりこっそりファックユーサインを出されたりもしたな。あと、なんでもインターネット上じゃ、『あいつをとっちめろ!』みたいなことを言い合って無邪気に喜んでた連中もいるみたいですよ。 だから、なるだけ夜間は一人にならないようにしてたんですけど、ある時、酒場で友達とみんなで飲んでた時、おっさんに絡まれましてね。 相手はどだい酔っ払ってたんです。んで、『お前のような男がこの世界にのさばっているから正義が』とか云々言われて、本気で掴みかかってきましてね。 店の人も止めてくれたし、友達も懸命に守ってくれて、一旦は収まったんですよ。ところがその男、一度店から出て家に戻った後、自分の軽トラに乗って戻ってきて、表から店に突っ込んでね」 「……」 ジダンは煙草を持っていないほうの手で額を押さえた。 「まったくよく死人が出なかったと思いますよ。深夜だったけど、結構客がいたんでね。 僕もカウンター近くにいたので無事だったんですけど、飛んできたガラスの破片が腕と胸に突き刺さって。痛い目に遭いました。一日入院しましたよ。 でもその酔っ払い、警察に行ってもおれはいいことをしたんだ、悪魔と戦ったんだと相変わらず言ってたそうです。 事件を聞いたプロデューサ、病院にやってくるなり『お前、ほとぼりが冷めるまで国外で身を潜めていろ!』とマフィアのようなことを言い出して。それでこっちへ戻ってきたんです。 向こうで別ドラマの撮影の話があったんですけど、もう延期で。つーか国外っていうか、こっちが本籍なんですけどねえ、僕は」 「――た」 ジダンとしては、こう言うしかなかった。 「大変だったな、そりゃ…」 パリじゃ今、ジャン・コクトー役の俳優としてみんなに写真を撮られ、ひっきりなしにちやほやされる、この男が。彼の国では、悪魔の化身とは。 『あのう、すいません…』 その時、見知らぬ女性がテーブルに近づいてきて、ジダンにはほとんど理解できない言葉で、ジャン=バチストに話しかけた。 きれいに波打つ長く黒い髪をした褐色の肌の美女で、察するに、留学生か旅行者のようだ。 『なにか?』 ジャン=バチストがスペイン語で答えると、嬉しそうに笑う。 『セニョール・ビセですよね。ドラマに出てらした』 『そうですよ』 『ああ、やっぱり! あの、サインを頂いてもいいかしら。よければ、この雑誌に…』 魅力的な胸の前に抱えていた雑誌を差し出す。カルチャー誌で、彼の出た例のドラマ『占領下日記』の特集が組まれているものだ。 『いいですよ――』 彼は言って、細い指で出されたペンを取り、さらさらとその雑誌にサインした。 痩せて知的な風貌をした男だから、そういうことをすると薄汚いジダンなどより、よほど文化人に見える。 『どうぞ』 『ありがとう! …実は私、バルセロナから来たんですけど、本国にいる時は、あなたのこととても怖くて』 『…ドラマを見たんでしょう』 『ええ! でも、こっちで先週放送された【占領下日記】を見たら、すっかりその気持ちがなくなって。 すごく素敵でした! ちょっとまだ、フランス語が難しいところもあったんですけど、もう、あなたが美しくて美しくて! すっかりファンになってしまったんです。 でも、前のドラマを見ていた時も思ってはいたの。この人すごい悪役だけど、きっと本当の俳優さんは人情のある、繊細な人なのに違いないって。だからこそ、こんな悪い役も演じられるのに違いないって。今も快くサインに応じてくださって。ちっとも怖くはなかったわ! ねえ。そうなんでしょう? みんなは誤解してるけど、演技をしていない時の本当のあなたは、きっと【占領下日記】で演じていらしたような、優しく寛大な心の持ち主なんですよね」 ドラマのタイトルなんかがぽんぽん出てきたから、横にいたジダンにも女性が何を言っているのか大体分かった。その目に一種の期待も感じられた。 ジャン=バチストは椅子の上でゆっくりと足を組み換え、ドラマを髣髴とさせる穏やかな笑みを浮かべた。 『どうでしょうかねえ…』 それからいきなり歯をくわっとむき出しにし、鬼のような形相を浮かべて彼女にすごんで見せたのである。 驚いた女性がどぎまぎしながら去って行くと、ジャン=バチストは椅子の上で身を反らして笑った。役柄に翻弄され、フランスでは愛されてスペインでは憎まれる彼の境遇が、子ども時代に見た少しグロテスクで滑稽な人形劇の世界をジダンに思い出させた。 ところで、三つ離れたテーブルに座った、とてもまつげの濃い、鍛えられた体つきの青年のことがさっきからずっと気になっている。彼はろくに料理にも手をつけないまま、まるで星でも見るみたいに、じいっとジャン=バチストの背中を見つめ続けているのだ。 考えてみればジャン・コクトーは同性愛者だったわけで。劇中にも、同性の恋人と濃厚にじゃれ合うシーンが幾つか。 大変ですね。 がんばれよ。ペテン師…。 店の電気と夜の闇が半ばする席。安い赤ワインを口に含みながら、ジダンは胸中でこっそり呟いた。 (了)
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