L'inutile
26.仲間







 パリ郊外の文化センター。稽古は今日も定刻きっちりに終わり(どこかの演出家にも見習って欲しいものだ)、ヨシプ・ラシッチは荷物を持ってロビーへと出た。
 今回の舞台の役者・スタッフは大人な人間が多かった。あまり仕事の後、だらだらつるんだりしないのだ。ほどほどの成功を手にし、個別に家庭のある人が多いせいかもしれない。
 現代的に鈍光りするオブジェの脇を通り、建物の出口へ向かって歩く。と、猫背がちな彼の視線が小さな二つの靴を捕らえた。
 なめらかな二本の線を辿って目を上げていくと、彼の進路をふさぐようにして、細身の、ショートヘアの少女が立っている。
「ハイ」
 柔らかい唇の端を、いつものようにくいと曲げる。
そこにいたのは、ヴィカ・ダールだった。





「学校がすぐ近くなの。くだんない学校。くだんない教師にくだんない生徒。
 あたしの教科担任なんかジャンヌの元教え子なのよ? なにやっても情報筒抜け。最低だわ」
 少女は小柄だった。カフェで同じサイズの椅子に座ると尚のことそれがよく分かった。
 クリスティナも小さいが、それでも骨はがっちりしている。この子の場合はなにもかもが細く、男であるヨシプに比べてふた周りは身が小さかった。 
 彼女自身が、こわれものの楽器みたいだ。
「ジャンヌって?」
「マダム・ダールのことよ。ジャンヌ・マリー・ブリジッド・ダール。長ったらしい名前」
「君はどうして、彼女と同じ名前なの?」
「はい?」
 彼女は手の甲が隠れるような袖の長いニットを着ていた。白いカップを掴んだまま、目をギョロリと上げる。
「…マダムの姪なら、マダムの旧姓のはずだろ」
 マダムの死んだ旦那の姪なのかもしれないが、それにしては、顔や雰囲気が彼女と似すぎている。
 すると何故か、ヴィカはふふんと笑った。
「戸籍上は、養子だから。あたし二、三歳でダール夫妻に引き取られたの。保護者がいなくなったんだって」
「両親は?」
「病気で死んだらしいよ」
 …二人一緒に?
 すると少女は首をすくめた。
「私に聞かないでよ。詳しいことは知らない。興味もないし。とりあえず私は物心ついて以来、ずっとダールで来て、あのマッダームの庇護下でぬくぬくと育ってきたわけよ。手のかかるペットみたいにね」
 ヴィカは相変わらず挑戦的な、ひっかかる物言いをする子だった。人によっては腹を立てるかもしれない。
 だが相手はヨシプである。別になんの感情を見せることもなく、ただ黙ってカフェの残りを空けた。
 少女はしばらくそんな彼の顔を見ていたが、しまいにカップを置いた彼が「なにか?」という表情をすると、再び口を開いた。
「…怒ってないの?」
「?」
「この間…。試写会であたしが…、その、言ったこと」
「……」
 沈黙の後、ヨシプは至極正直に断言した。
「覚えてない」
「は?」
「君、何か言ったっけ?」
 一拍の間を置いた後、少女は笑い出した。大笑いだった。これも大人達の行動とは違っていた。さほど笑う動機のある話とも思えないが、彼女には、愉快だったらしい。
「あはははは…っ。ひょっとしてさあ! あなた、バカなんじゃないの?!」
「……」
「忘れる? あれだけ言われてフツー忘れる? 頭おかしいでしょ! あはははは!」
 ウェイター氏が咎め視線で彼女を見る。
 ガキめ。騒ぐのならば、マクドナルドへ行け。
「考え事をしてたんだ」
「何よ、それ? あー、涙出た…。映画のギャラのことでも考えてたワケ?」
「…マダムの家にお邪魔した時、君を見かけたんじゃないかと思って…」
「はあ?」
 少女は指の腹で、まだ化粧をしていない目元を拭い、変な顔をした。
「それって大分前の話よね? 夏頃の話でしょ? よく覚えてないけど、それって有り得なくない? だって、あたしあんた達の前には出て行ってないもん。引っ込んでたでしょ。 撮影に参加した、誰か他の女の子と間違えてるんじゃない?」
「それはないと思う。二階でピアノを弾いていなかった?」
「――」
「なんの曲か知らないけど。なんか、寂しい曲。
 撮影に参加した子達は誰も、あんなふうには弾いてなかったよ」
 ヴィカ・ダールの頬に、ほのかに血の気がのぼったような気がした。
 彼女は席を立って、一緒にある場所へ行こうと言い出した。それは彼女の通う音楽学校で、そこにはピアノがたくさんあるから。






「…ヴィカ。さっき廊下に貼ってあった紙に『夜間立ち入り禁止』って書いてなかった?」
「そりゃ書いてあるよ。旧音楽棟、夜になると閉めるもん。ウチ、夜間部もあるけど、それはみんな新しい校舎でやることになってんの。あんまり古くてセキュリティが効かないからね、こっち」
 言いながら、ヴィカはどこからか古い鍵を持ち出し、旧校舎の施錠された扉を難なく開ける。
 なるほど。セキュリティがねえ。
 黙って見ているヨシプに、にやっと笑ってこう言った。
「ジャンヌは昔、ここの雇われ教師だったの。そういう養母を持つとこういう点はねー」
 どうやら古い鍵を家から持ち出して来たものらしい。とは言え、これでは正真正銘の不法侵入である。
 さすがのヨシプも、見も知らない学校でこれはちょっとまずいかもなあ、と思ったが――同時に、平和だった頃、故郷で弟と一緒にやった様々な悪事を思い出して、少し胸が疼いた。
 ヴィカは彼を、灯りの落ちた校舎のなかへと導く。
「守衛はいつも八時頃に一回見回りに来るだけ。私のお気に入りの部屋なら、暖房つけたってバレやしないわ。ただ電気はダメだからねー。足元に気をつけてよ」
 ヴィカは、明らかに手慣れていた。こうして夜間に学校に忍び込んだことも一度や二度じゃない感じだ。すっかり暮れて薄暗く、寒い廊下を、ヨシプを連れてスタスタと歩いていく。
 一度階段を昇って、二人はやがて二階の一番奥の部屋にたどり着いた。ここにも鍵がかかっているが、ヴィカは必殺「ふるいかぎ」で一発で開いてしまう。
 そこは、意外なほど広い部屋だった。脇の壁には折りたたみ椅子と譜面台がたくさん立てかけてあり、部屋の奥には大型のピアノが、まるでそこに根を下ろした潅木のように、静かにうずくまっていた。
 ヴィカは、その夜の音楽室と仲が良かった。闇に慣れた目でさっさと暖房のスイッチを入れると、ピアノに近寄り、鍵盤の蓋を開いた。
「ここ、合奏用の練習室なの。ピアノとオケとかだと、スペースが必要でしょ。でも、新しいほうに立派なのが出来たから、こっちはまあ滅多に使わなくなったんだけど…」
 ぽーん。
 と、鍵盤を叩く。それが部屋の四隅に尾を引いて吸い込まれていった。
「あたし、このムッシウの音が一番好きなの。学校中の楽器の中で」
「『このムッシウ』?」
「一九六一年製、当年四七歳よ。ムッシウでしょ?」
 それって丁度、マダムと同じくらいの年だろうか。そう思った時、ヴィカの指が、鍵盤を叩き始めた。
 軽い指ならしをした後、両手を口元に持って行って少し息をかける。それから、白い肌の上に再びそれを下ろすと、今度は、全身が動いた。







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