L'inutile
29.邪魔







「ヴィカ。
 今度のクリスマスコンサートから、君の出番をはずすことにしたよ。
 君の演奏は、クリスマス向けじゃない。子どもやお年寄りや父兄が一杯来るんだから、そう言う人たちがほっと癒されるような演奏が必要なんだ。
 分かるね」





「ヴィカさ、上位成績者なのに、コンサート外されたんだって?」
「そりゃそうだよ。先生もいい選択したよ。だいたいはみ出し者なんだよ。人とうまくやれないんだよ」
「いつもつっかかって来るもんね」
「被害妄想だ」
「境界例人格障害だって本当?」
「バカなんだよ」
「うぬぼれてんだよ」
「不良だ。男と遊んで――」
「どっか消えれば、いなくなればいいのに」
「こないだの無料コンサート。ひどかったもんな。客みんな、最後に彼女にぶん殴られて、泣かされて帰ったようなもんだぜ。うちの両親なんか、二度とあのコのピアノは聴きたくないって言ってるよ――」








 ヴィカは耳のいい少女だった。
影でこそこそと、しかし容赦なく素性を品定めされる経験が続くうちに、人々の陰口に敏感な体質になった。
 悪いことに彼女は他者の評価を気にして悩むことを知っていた。
でも大したことではないと思おうとした。
 第一、彼女はクリスマスとか復活祭とかの偽善的な行事が嫌いなのである。
 そういう特別な家族の日が来るたびに、自分が偽の家族のなかにおり、そこから浮き上がった存在だという事を思い知るからだ。
 彼女は既に「孤独」という修辞を知っていた。
その分、同年齢の生徒たちより先んじていた。
 彼女の演奏は、三流の教師や生徒達からは忌み嫌われたが、少し学のある、自律的でやはり孤独な年長の人々からは好かれた。
 彼女はそれを知っていて、いつかは自分にとって自由な地平が来る。今は耐える時期だということさえ直感していた。
 それでも、仲間はずれにされ、陰口を叩かれるという厳しい事実は彼女を蝕む。
 彼女はあんな小さい人間達の意見に心が動かされるなんて自分は未熟だと思い込もうとしていたが、それは思い違いで、人は自分より下位で小さいと信じている人々の言動の方にこそより影響を受けるものなのだ。
 ヴィカは気晴らしに男を呼び出した。
新しく出来た風変わりな知り合いである。
 ほとんど何も言わないし、何の教養も音楽的才能も持っていない部外者だが、何故か、その男には期待する以上に的確な形で自身のことを理解してくれるのではないかという予兆があった。
 はっきり言って、ヴィカは彼の知性を馬鹿にしていたが、それでも一月あまりの間に、彼の従順さに依存しつつあった。
 呼べば来る。話せば聞く。
この関係性を当たり前に感じ、アテにするようになっていたのである。
 心ない彼女の養母は、既にはっきり彼との関係を警戒していた。今朝もまた不愉快な繰言を吐かれ、二人は喧嘩していた。
 ただ一人。何も知らないヨシプは不思議なほど今日も何事をも断らない。 夕方にいつものカフェで待ち合わせになった。
 ところが気のはやったヴィカが指定の時間前にそこに着くと、いつもと違うことがあった。
 黒髪のヨシプの隣に、見知らぬ東洋人の女が座っていたのである。



 ヴィカは、本当はその女と会ったことがあった。
だが東洋系の顔は滑り落ちるばかりで全然記憶に残らない。
 それでも、隣り合った席に座る二人が和やかな雰囲気に満たされていることは一目で分かった。
 ヨシプも女も少しも緊張していなかった。やっと聴こえるか聴こえないかの控えめな声で、穏やかに、会話を交わしていた。
 彼が笑っているところなんて初めて見た。
 しかもそれは、少女が憎む演技ではなかった。本当の微笑で、どういうレベルにせよヨシプがその女を愛していることはすぐ分かった。


 ヴィカは全身が痺れるような、無音の衝撃を受けた。彼に対して抱いていた自信と認識とが一時に揺らぐのを覚えた。
 彼女はヨシプを自分の仲間とみなし、虜にして城に引きずり込んだように思っていたのだ。彼も自分と同じくらい孤独な人間で、他に友達など誰もいてはならなかった。
 だが、そうではなかった。
ヨシプには、年齢に応じた彼自身の生活があり、その精神は自由で、ヴィカの望みとは違って彼女だけに注目をするわけでも、情を抱くわけでもない。
 それは当たり前のことで、彼女は少しだけ認識を改めればよかった。だのに、
ああ。あたし――。
 高慢なはずのヴィカの思考は、慣れた道を辿って、ひどく低い認識まで一気に落ちるのである。
『邪魔』だわ…。



 どうしたのよ、分かっていたことじゃない。そうよ。そもそも私は、最初からこの世にとって『邪魔』な存在だったのよ。
 コンサートからは外された。みんな私が消えればいいと思ってる。
 そしてそんな運命にあるのは、私だけ。
『ヴィカ! ヨシプさんにだって大切な人があるのよ』
『それを、あなたが邪魔するなんて、許されることじゃないわ!』





 そうね。感謝するわ、ジャンヌ。どうもありがとう。
また、私を夢から覚ましてくれて…。
真実に引き戻してくれて。
 ヴィカはくるりときびすを返し、道へ戻った。誰一人彼女に関心など払わない、人々の波の中へ。







 ところでアキは稽古の見学に来て、その後ちょっと彼と話していただけだった。
 十分ほどで席を立って、先に帰って行った。
 バカ正直なヨシプは彼女を見送った後、同じ露天席で一時間ほど待っていたが、メールにもコールにも応答はない。
 それでやっと手違いがあったようだと気付き、マフラーを巻きなおして、席を立った。
 その頃、ヴィカはもう家の最寄り駅に着いた頃だった。
家に入るとすぐ部屋に駆け込み、ピアノを弾きまくっていた。
 マダム・ダールは居間で一人、テーブルに座り、腕組みをしていた。
 彼女は美しい眉を複雑に曲げていたけれど、姪のヴィカが今夜は一人で部屋にいてくれることについて、どうしようもなく、安心している様子だった。






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