L'inutile
29.邪魔
一週間後。 「……」 昼休み中、舞台裏でヨシプが携帯電話をぼけーっと眺めているのを見て共演者がからかう。 「カノジョから電話が来ないのか?」 「いや…。妹から」 共演者はえ。お前、妹がいたの?! とびっくりしていたが、別段嘘を言ったつもりはない。 なんだかんだと二十代の半ばを越したヨシプにとって、十代の少女ヴィカは妹というポジションがぴったりなのだ。きかん気で、不平不満で一杯で危なっかしいところ。人には知らないが自分には甘えてわがまま一方で来るところも、結局弟と重なってしまう。 第一、前は彼女のほうからものすごく頻繁に連絡をよこしていた。 ところがそれがいきなり、何の心当たりも前触れもなくピタリと止まったのだから、さすがの彼も心配になる。 事故に遭ったり、病気になったり、同級生をぶん殴って補導されたりしてなきゃいいのだが。 「遠くに住んでるの? 近くなら、直接会いに行ってみればいいじゃん? 意外と、大した理由もなく携帯の返事寄越さなくなる人、いるよ」 女優の発言に、ヨシプはぽん。と手を打った。 彼がのそのそといなくなると、共演者達は点目で会話を交わす。 「気付かなかったのかね」 「うーむ」 『ヨシプ? おう。お前、今、どこにいるの? いやだって。もう稽古終わる時間だろ? なかなか来ないからさー。 アキから聞いてんだろうがよ。今夜は『アガタ』でミラの誕生日パーティーだぜ。もう演しもの始まっちまう。何ぐずぐずしてんだよ。 ――え? 遅れる? そうなのか? しょうがねえなあ。何時ごろ? 9時過ぎかよ。その時間だとみんなもう出来上がってるからな。覚悟して来いよ。 ああ。ジダンはもう来てる。酔っ払ってクリスティナにどつかれてるぜ。じゃ、お前もその野暮用片付けたら、すぐ来るんだぜ! じゃーな!』 携帯から耳を離したデミトリは、傍らにいるアキの顔を見て首をすくめた。 「遅れるって、あのバカ。なんだろね」 「そう。珍しいね。ジダンにも言っとく? 耳に入るかどうかしらないけど」 その日は、デミトリの劇団のメンバー、ミラの誕生日パーティーで、貸切のビストロ店内は大いに盛り上がっていた。何しろどこを刺しても芸達者という面々だから、演し物が尽きない。 アキもデミトリと一緒になって衣装を着、今回の舞台に掛けたコントをやって大いに拍手をもらう。 アキは自分にはコメディが不得意だという引け目があったのだが、ここしばらくデミトリに指導されて色々稽古をするうち、大分コツを掴んできた。 それにしても、デミトリの三流ドタバタぶりは意外なほど板についている。今日は大げさなカツラに、ピーター・セラーズばりの口ひげまでつけていて、個人的にはそれだけでもう噴き出しそうだ。 内輪にだけ分かるネタを披露し、酔客からやんややんやの喝采を受けて控え室へ引っ込む。 もちろん、デミトリは超ごきげんだった。舞台衣装のまま、彼女の手をぶんぶんと握る。 「ウケたウケた! なかなかやるじゃない、アキ! 今度からコメディでも食っていけるよ!」 「あ、ありがとう。でもデミトリがうまいからだよ」 「またまた謙遜しちゃって。ジダンに聞いてみなって。あと、ヤコブも間に合えばよかったのにな」 ヤコブ・アイゼンシュタットは数日後に帰国することになっていた。舞台には間に合うが、今はまだ北イタリアにいるはずだ。 「いや。あたし多分ヤコブの前ではあがっちゃってこんなには出来ないと思う…。寧ろいないでよかったかも」 「そうなの? まー、ヤコブは人間として出来すぎだもんなー。俺もちょっと怖いもん。 じゃーまあ『マリア』には、やっぱ『ヴィクトル』くらいの男がちょうどつりあってるってことですかね! ワハハ」 ご機嫌なデミトリは完全に宴会モードだったので、肩を抱かれたアキの顔に血の気がぼうっと昇ったことの意味に気付かなかった。 「ていうか、どうせ劇中でも結婚しちゃうしね! 同じ勢いで『もう俺と結婚しちゃいますか?! マリア!』」 それは、すとんと彼女の目の前にやってきた。 だから、 「――う」 アキはやめとけ、という声の響くめまいの中で、思わず、 「うん…」 頷いてしまったのである。 「――はっ?」 次の瞬間、いきなり素に戻ったデミトリが、びっくり仰天してアキの肩から手を離した。 その間に、もうアキは、自分が非常にポカをやったことを分かっていて、反射的に顔を覆う。 「ア、アキ?! 何言ってんだ。ほんの冗談だろ――!」 一気に飛び退ってパーソナルスペースを確保したデミトリは、実にもっともな一語を、叫んだ。 「しっかりしてよ!!」 「うっ……」 両耳を押さえるようにして、アキは真っ赤な顔をし、彼を見た。 「て、ていうか、なんでやねん! 『何言ってんの、バカ』『目ェ覚ましなさいよ』って来るのを待ってたんだよ? 俺は! な、なんで頬染めて『うん…』とか来るわけ?! 何、その仕打ち!!」 「わ、分かってるよ…!」 「ちょ、待って。まさか、最近なんか君の様子おかしかったの、そのせい?! 君、劇中の俺の台詞にいちいちよろめいてたってことなの?! 劇中の『マリア』みたいに!」 狼狽のあまり髪の毛の逆立ったデミトリの肺に、すーと空気の入る音が聞こえた。 「――え、演技だよ?! 演技だよ?! 普段のアレも、今のも、全部演技なんだから。芝居だからね?! 君がそれに転んでどうするのー! き、君、女優さんでしょーが! 第一、前は俺のことなんてどうでもよかったでしょー?!」 「うん、分かってる。分かってるってば!」 あまりの恥に、アキは止めてほしくて叫び返す。 恥ずかしい。恥ずかしい。こんなに恥をかいたことはない。 「…でっ、でも、心が、揺らいじゃったんだもん。しょうがないじゃない…。じ、自分だって、間抜けだって事くらい、分かってるよ! それで、すごく悩んでたし、困ってたんだから!」 「…ミラがこないだ『ホント最近、終盤のアキの演技がかわいくて見てる方がびっくりするよ』とか言ってたけど、えええええ演技じゃねえのかよ! ――でも、それじゃ困る。……困るよ、アキ!」 「………」 虚と実の溶け合った不可思議な日常の中で、うねりに足を取られた二人の俳優は、まともに顔を見合わせる。 「だって、実際やってけないだろう…! 俺らは役者で、仕事をしてるんだ。俺も仕事で芝居だからこそ、君に馴れ馴れしく近寄るし、愛の言葉も投げられる。抱擁もキスも出来るんだ。 それをしたって、女優本人の人生には何の影響もないって分かってるからだ。 ところがそれで君本人がこんなに動揺するってことになったら、俺は何も出来なくなっちまうよ! そうだろ?! 刺したら死ぬって分かってたら、舞台上で人が刺せるか?! 死なないと分かってるから刺すんだ。傷つけないと分かっているからこそ悪口も呪いの言葉も吐けるんだ。 それが、その約束が、成立しないってことになったら、誰も何も出来なくなる! 困るよ。それは困るよ、アキ! プロだったら、君もしっかりしてくれ!」 お説ごもっともだった。 ついに顔を両手で覆って壁にもたれるアキは間違いなく、生涯の記憶に残る大恥をかいた。 その上、脚本に乗せられて浮ついてしまったのは自分だけで、デミトリはそうではなかったんだと思うと、尚のこと恥ずかしい。 少なくとも、彼女の幸福で迂闊な勘違いの期間は、これでおしまいだった。 ああ。情けない…。 「…だ、大丈夫?」 しばらくの沈黙の後、やっと髪の毛の寝たデミトリが、語調を柔らかくして、気遣いながら尋ねた。 「…言い過ぎた?」 「ううん。いいの。あなたの言ったことは、正しいから…」 「ああ、えっと…。それで…、本番、三日後だけど、大丈夫?」 「…うん。ごめん。気持ち、引き締めてくるから。 ごめんね。デミトリ」 「い、いや。いいよ。思わずびっくりして、大声出しちゃって…。悪かった」 もちろん、デミトリは悪くない。全く悪くない。 寧ろ彼が冷静でいてくれたからこれで済んだ。 悪いのはただもう、未熟な自分だ。 アキはやっと落ち着きを取り戻してパーティー会場へ戻ったが、酒を片手にした時、やっぱりほうとため息をついてしまった。 長々の迷走。こういうオチですかい。あーあ。 ほんと、あたし。最低だよ。
* その頃、ヨシプ・ラシッチは閉じられた中開の扉の前に立っていた。 夜間侵入禁止の札はいくらでも無視できるが、思えばここから先にはどうしたって入れない。鍵を持ってるのは彼女自身だから。 ヨシプは頭の後ろを掻き、二、三度天井や横を見た後、しょうことなしに、携帯電話を取り出した。液晶のディスプレイが、バックライトを受けて闇の中でぼうと光った。 『音楽室にいる?』 前は打てば響くように返信があったのに、やはり、返事はない。 『今、古い音楽棟の前にいる』 『病気なの?』 『何かあった?』 やはり、返事はない。 「……」 ヨシプはしまいにため息を吐き、立ち去る気になった。最後の最後に扉に触れてみると、拍子抜けすることに、それは、開いていた。 「……?」 ヨシプはゆらりと揺れる扉を見つめながら、思った。 なんだ? 一体どっちなんだ。 入ってほしいのか。来てほしくないのか。 ヨシプは困惑を抱いたまま、久しぶりの夜の校舎へと、足を踏み入れた。 床材が咎めるようにきしりと鳴った。 薄暗い廊下は躊躇の階段を挟んで進み、やがて、無人の音楽室へと彼を誘う。 ここには鍵はない。扉を開くと、生暖かい空気が中から漏れてきた。 中は暗い。相変わらず、暗い。 ムッシウの古いながら、優雅な姿が前方にあった。 だが少女の姿は、見えなかった。 「……」 マフラーを取りながら、部屋の中ほどまで進んだ時だ。ヨシプの体に、横からどんと何かが抱きついてきた。 それはまったく、昔と同じで、弟がふざけて、或いは何か悔しいことがあったときに自分にどんとぶつかってくるのと、正しく同じ重さを持っていた。 右足を後ろに引いて、ヨシプは、倒れずに彼女を受け止めた。 やがて生身の人間の持つぬくもりと、必死さが服越しに移ってくる。 そして、変に上ずり乱れた呼吸の音が、彼の耳へと届いた。 少女のその後の行動は、一見彼の愛を求めるものだった。少女はヨシプの体に両腕を回して、その首元にかじりつき、探し当てた唇に自分から貪るようにキスをした。 それは彼に甘え、愛をねだる行為だ。 ところが、感情を刺激されたヨシプがそのつもりになって彼女を床に寝かしたら、その腹を、服の上から蹴るのである。 「……?」 痛みを覚え戸惑う彼を、ヴィカは笑い飛ばした。それから再び熱に浮かされたような目であこぎに挑発した。 多分彼女は、経験などない少女だった。 理由の分からないその残酷さは不可解だった。 ヨシプは正気を失い、引っ張り込まれると同時に突き放された。 どうしてほしいのか分からず、最後まで迷いの中にいさせられた。 こんな苦しい思いをさせられたことはない―― 一体、どっちなんだ? 入ってほしいのか。来てほしくないのか。 ヴィカは、寸前で入れるのを拒まれて苦悶する彼を見て笑った。 目元を腕で押さえるようにして、ものすごく虚無的に、ひきつるようにして笑った。 その泣いているかのような激しい嘲笑はヨシプの心臓を刺した。 どこまで行っても、何かがおかしく、何かが狂っていた。 多分、知らされていない何かがあったし、彼女はそれを説明しなかった。 それでいて彼女は彼を離さないのだ。 兄にすがる妹のようにヨシプにぴたりとしがみつき、一連の行為が終わった後には、その胸の中で青ざめて、 どうしてなのか、震えていた。 「もしもし? もしもーし? なんですってェ?」 11時過ぎ、早くも酔いが醒めて、ちょっと冷静になりつつあったジダンは、喧騒の中、クリスティナから携帯端末を耳に押し付けられていた。 その電波の向こう側にいるのはあの優雅で後ろめたいマダム・ダールで、彼女はひどく取り乱し、彼女の姪がどこにいるか知らないかと聞いていた。 (了)
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