L'inutile -30-
悪い話








「……」
 これまで、夜遅く帰宅したってそんなことをジダンから言われたことはなかった。当たり前だと思っていたが、実際に言われてみると存外嫌なものなんだなとヨシプは思った。
 特に、自分に後ろめたいことがある時には。
 楽しいなんてものじゃなかった。痛がるし暴れるしこっちが気を使ってやらねばならないし。
 彼はロマンチストではないので、簡単に本当のことを考える。ヴィカとのあれは、今までになく面倒くさかったと。
 その上、この状況では、不手際の過失はヨシプにある。
行為をやめるなり、ジダンの示したゴム製品を使うなり、どちらでもいいが、そのどちらもしなかった。
 たとえそれがいきなりに巻き込まれたために、受身を取る余裕がなかったからだとしても、彼は未成年を相手に大人としての義務を怠ったことになるのだ。
「……」
 ジダンはフランス人らしく、小さな断片から話の筋を読むのが上手で、もう何もかも見透かしているかのようだった。
 答えずにいるヨシプを「まあ座れ」とソファの対面に座らせると、ビニルのパックをテーブルの上に放り出した。
 男達の前で、それは軽い音を立て、少し滑って止まる。
「あのマダムに白状させた悪い話をするぞ」
 ヨシプが彼を見ると、眼鏡の下でコーヒー色の瞳が光っていた。





*





「――マダム、いい加減にしてくれませんかねえ。こっちはこうして郊外までタクシーを飛ばして来たんですよ?
 それはあんたの紅茶を飲んで三文芝居に付き合うためじゃないんです」
「ジダン…! あなた酔ってるわね。失礼よ。やたら歩き回っていないで、座りなさい」
 夜に訪れても、マダムの家は心地の良い家だった。実際どうやったら家をこれほど清潔に維持できるのか不思議なくらいだ。きっと恐ろしい量の手間と労力が傾けられているに違いない。
 ジダンはふかふかの敷物の上で足を止め、自分を非難するクリスティナに反駁した。
「そのお上品なマダムはまだ何か隠し事を続けようとしてるんだぜ、クリスティナ。俺にヨシプの自由を制限するよう命令しろといいながら保身とは。お話にならない」
「……」
 マダムは言ったのだ。
 どうか、ヨシプをヴィカにこれ以上近づけないでほしい。
 なぜなら『あのコは本当に気性の荒い困った子だから』
『絶対に彼に迷惑をかけるから』
『今なら、まだ間に合うから』
 なんだそりゃ。
「人を馬鹿にするにも程があるでしょう、マダム。それともあなたにとってコミュニケーションってのはこういうもんなんですか? 聞けばクリスティナとは長年の知り合いだと言う。そんな彼女に対してさえ、こんな芝居じみた誠意で済まそうというんですか」
 ジダンはくるりと体を回して、クリスティナが座っているソファの背の部分に座るように体をぶつけた。
 弾みでクリスティナも揺れるが、彼女は俯くマダムから目を離さず、やがて、口を開いた。
「――前々から、思っていたことがあるんです、マダム。私、ヴィカとはあまり親しくないし、よく知らないけれど、でも彼女は、外見があなたにとてもよく似ていますよね。
 …それに、彼女に対するあなたの普段の過保護ぶり、この慌てよう…。あなたは教師で、年頃の子どもには慣れているはずなのに、確かに、おかしいわ。
 マダム。失礼なことを言っているのは分かってます。でも、私の母も疑っていました。もしかしてヴィアンカは、あなたの娘さんなのではないかって」
 沈黙が流れた。
 マダムは椅子の中で、両手を祈るように組み合わせて座っていた。ジダンは背を向けたまま物音を待っていた。クリスティナは油断なくマダムの様子を伺う。
「――違います」
 しまいに、マダムは言った。
 ピアノの低い鍵盤が一つ、押されたかのようにその声が夜に溶けて行った。
「もちろん、そういう噂があるのも知っていますけれど…、そうじゃない。ただ、あの子は、言うを憚られる生まれの子なんです」
 へっ、と酔ったジダンが失笑して向き直り、ソファの背に手を着いた。
「二千年紀も越した今このご時世に?」
「関係ないわ、ジダンさん。私達は人間であり動物であり、それ故に何千年経っても決して容認されぬ禁忌もある。
 あの子は、私の姉の子です。それは嘘じゃありません」
 マダムは、悲しさをどうしていいか分からないように、横を向いた。
 そして言った。
「ただし私の姉と、兄との間に出来た子供なんです」







 マダム・ダールの生まれた家は、古く保守的な街にあり、それはそれは上品でたてまえを気にするがんじがらめな家だったそうだ。
 厳格なのとは違う。やたら決まりがあったが、心臓部はスッポリ抜け落ちていた。
 両親は子ども等に努力と勉強、品行方正を命じたが、それは親が恥をかかないようにするためだけで、子どもら本人の人生とは関係なかった。逆に恥をかかされた時の彼らの懲罰は凄まじかった。
 なんという欠落。なんという虚飾だ。
三人の子どもはその運命に耐えねばならなかった。
 私は運がよかったのだとマダムは言う。
慰安の為に唯一許されていた音楽を通じて、自らの内面を鍛えることを学んだ。癒しも与えられた。夫にも巡り逢った。
 だが、素直で無抵抗で、いささか怠惰であった彼女の兄と姉は、それほど恵まれていなかった。
 彼らは成人しても家にとどまり、外面的には申し分のないコースを辿っていた。
 兄は地元の銀行に勤め、姉は会社で秘書を。
それでも記憶に埋め込まれた家族の悪い物語はいずれ芽吹いた。
 彼らは子どもの頃は、優等生だった。ところが大学時代から、両親の欺瞞にあてつけるような行動をちょこちょこ起こすようになった。
 兄は浴びるように酒を飲んだし、姉は奔放に遊び歩いて時に体調を崩していた。
 そういう、敵討ちのような逸脱行動は、父が年老いてから一層ひどくなった。
 ある日、兄は銀行をクビになって家族を驚かせた。なんでも同僚の上着から財布を盗んだのだといい、しかも一度や二度ではないのだと。
 姉のほうもおかしかった。いきなりヒステリーを起こしてものを壊したり、両親を怒鳴りつけることもあった。そしてその歯止めのかからない性的な行動はもう街中の噂だった。
 二人はともに、自分の身を守るという事をまったく知らなかった。ただただ運命に翻弄されていた。
 一家は崩壊していった。マダムは両手で頭を抱え、耳を塞ぎながら、その宿命から逃げ出した。
結婚という手を使って。







「兄は完全なアルコール依存症に陥っていました。父のコネで転職を繰り返しましたが、どこにもいつけませんでした。
 姉も自分をいじめることに熱心で、ごめんなさいと泣き喚きながら自分や両親を破滅させるようなことをし続けた。
 両親は体面を慮って、彼等を病院にやりませんでした。一族に精神病を患った者はいないし、二人は心がけが悪いのだ。子に恵まれず自分達は不幸だと言ってました。
 私は一人、逃げ出しました。結婚してパリへ来ました。若かったし、人脈も財産もなく、あの病的な家から自分の命を守るだけで精一杯でした。
 でも、後から、このことをどれほど真剣に後悔したか、口で申し上げることは出来ません」







 ある日、兄が死んだという報せが届いた。酔っ払って家の階段から転落したのだと。
 葬儀に帰ると、見知らぬ子どもの姿があり、姉の姿がない。両親は頑としてその居場所を言わなかった。
 事実は他者の口から呆気に取られた彼女の耳にもたらされた。






「…姉は、ひどく遠い田舎町の療養所に入れられていて、もう死にかけていました。そこのカウンセラーがやっと全て教えてくれました。私がいなくなった後の、家庭の荒廃。アルコールで理性を失った兄と、自虐に余念のない姉のもたれあい。ぞっとするようなことが起きて、一年半前、赤ん坊が生まれた」





 お姉さまは病気です。ウィルス性の免疫不全で、ご存知ですね、まだ治すことの出来ない病です。
 あの娘さんはお姉さまのお子さんです。患者の血液を介して感染するため、どうしても母子感染が懸念されます。
 あなたのご両親には再三、娘さんがキャリアかどうか検査をするようにと申し上げていますが、応じてくださいません。
 幼児の健康に対して注意を払う努力を放棄するのは、ご存知ですね、虐待の一種です。
 あなたは健全なかたなようです。
どうか姪御さんを守ってあげてください。









「もちろん私は姪を引き取りました。いまや完全に崩壊した実家から。
 衣食住を保証し、音楽と教育を与え、できるだけのことをしてきました。それでも、充分な救いを彼女にもたらしたなどとは思っていません。
 事実、姪――ヴィカは、怒りと人生の理不尽を体内に抱え込み、爆発寸前です。
 彼女は私を憎み、世界を憎み、自分を憎んでいます。
 親はいない。体の中には爆弾。人からは、一体どういう生まれだろうと無遠慮に探られる。
 ど うして自分だけがこんなペナルティを抱えて生まれてこなければならなかったのか、納得がいかないのです」
「…じゃあ、彼女は知らないんですか。自分が、どういう生まれなのか」
 ジダンの問いに、マダムは眉をゆがめた。
「あなただったら、あの子に本当のことが言えまして?」
「……」
「ボラスさん、ジダンさん。これは我が家の問題です。このことについて、あなた達の意見を受けようとは思いません。ジダンさんが私を批難なさり、事情が分からなければ動けないと仰るので、お話ししたまでです。
 ――それから、私はどうしても以下のことを、申し上げねばなりません。ヴィカはHIVの保菌者です。両親が破滅的な生活を送ったせいで起きたことで、彼女になんら罪はありません。それでも感染の危険はあります。
 もちろん私は彼女に再三説明し、注意はしています。でも、彼女は病気による足かせを憎んでいるし、私が言えば言うほどムキになる傾向があります。以前にも、私の弟子のピエールという未成年の子に近づき、散々挑発して行為に持ち込もうとしたことがありました。
 私には、彼女がその子のことを好いていたなんておよそ思えません。ただ、彼女はその子の幸福でお行儀のよいところが、それをかわいがる私の態度が気に食わなかったんです。その事件の後、私がピエールとその両親をなだめるためにどれほど神経を使ってきたかお分かりですか? 私は所詮個人のピアノ教師です。悪い評判が立てば、倒れるのはあっという間ですわ。
 ヴィカは、年々、私の言うことに従わなくなっています。それどころか反逆し、つっかかり、私にあてつけた勝手な行動を取る傾向がますます強まっている…」
「――かつて、彼女の母親や父親がしていたように」
 マダムは、頷かなかった。彫刻のように堅い体から漏れたその声は静かなものだった。
「だから私は、これほど取り乱しているんです。戻ったらすぐに彼に確認してください。ヴィカと性交渉を持ったかどうか。それを適正な方法で行なったかどうか。何か問題が起きたら、相談してください。
 これで私の話は全てです。ジダンさん、ご納得いただけましたかしら」





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