L'inutile
30.悪い話
ジダンは、ヴィカの出生云々については彼に話さなかった。 ただ、彼女がキャリアにも関わらず、他人を傷つけるような危ない行動を取った過去があったことを伝え、もし自信がないなら、検査で明確な結果が出るまでは、他の人間と交渉を持つのは慎重にするよう命じた。 スキンなしでも、通常の行為をしただけなら感染の可能性は極めて低い。ただし、HIVははっきりした結果が出るまで三ヶ月ほど期間がかかる。 だからその間は一応、用心するように。 ヨシプは分かったような分からないような顔をしていたが、その悪い話が終しまいになったことは分かったらしい。 とりあえずソファから立ち上がって、いつものごとく雲じみて部屋へ流れて行こうとした。 が、その途中でぴたりと足を止めて、首をひねった。 「ピエールと…ねえ」 「……」 なんだ。ほんとうは、誰でもよかったのか。 やっと真相の入り口に立たされたヨシプに比べれば、ヴィカは自分が何をしたのか、遥かに明瞭に理解していた。 彼女は、ヨシプの無知と無防備、好意を利用して、わざと情報を与えないまま自分の望みに巻き込んだのである。 それは彼女が他人から抱かれているひねくれたイメージに比べれば、他愛もない望みだった。 男の両の腕で、骨も折れるくらいに抱きしめられたい。 全身を肌で覆いつくされたい。 たくらみも裏もない、油断しきった盲目の愛情で心身を満たされたいという、ただそれだけのことだった。 誰だって抱く望みだ。 人間の抱く望みの中でもっとも本来的なもの。 ただし、ヴィカにとって、それは容易なことではなかった。だから彼女は自分が生まれつき、当たり前の人間関係からつまはじきにされていると感じていた。 いつもそこに引け目を感じ、自意識は乱高下する。 傲慢と屈辱の二点を忙しく往復することに疲れ果てる。 なんとかしたかった。救われたかった。 ところが目に見えて物欲しげだから、大人や勘のいい人間はすぐに逃げてしまう。 ヨシプはなんて格好な存在だったのだろう。 受け身で、無防備で、男性で、おあつらえ向きに、バカ。 こんなにも自分を認めてくれる人間を、騙してはだめだと自分の中で誰かが言った。 だが他の誰かは、それくらいは許されると囁いた。 どうせ何をしないとしても、人々はあなたを嫌い、差別し、仲間はずれにするではないか。 あなたのせいではないのに。あなたは間違っていないのに。 あなたは常に人が見ないで済む『死』を見せ付けられ、担うさだめを背負わされてきた。 ひどい目に遭わせられてきた。 だから、それくらいの代償は、求めてもいいのだ。 そんな暗い顔をして、罪人のように家に入るのをためらうことはない。 ふてぶてしく、ジャンヌの狼狽を笑って、大したことはないという態度で過ごせばいいのだ。 どうせ今頃、ネタはバレている。 もう二度と、あの間抜けな男が自分のところにやってくることはないのだから。 ヴィカ・ダールは家へ入った。 消耗しきった叔母は彼女の頬を殴った。 ジャンヌ・ダールは自分と姪が逃げたつもりだった悪い血の道をひた走っているのを感じていた。 脇で死が大口開いて二人を見ている。 誰もその出口を知らない。
(了) |
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