L'inutile
31.神様の名前
「――で? 一体今日はなんなわけ? こんな馴染みのない地区に呼び出して」 「中休みだよ。面倒くせえ話が続いたから」 「あなた時々そーいうわけの分からないことを言うわね。なんかワナにはめる気じゃないでしょうね」 「まあまあ本場アッサムのチャイをどうぞ」 パリにはインド人街もある。サンドニ門から北駅へいたる地域で、へたれ演出のジダンと鬼プロデューサのクリスティナは昼下がり、その地域にある一軒のインド料理屋でお茶を飲んでいた。 それは、あんまり観光化された店とはいえなかった。寧ろ顔なじみの人間だけが入ってくるような閉じられた店だ。それでもインド人の親父が開けっぴろげな愛想で迎えてくれた。 どうぞどうぞ。精一杯サービスいたします。 「おー。さすがにおいしいわ。スパイスが効いて」 「次の公演なんだけどさ」 「なに」 「また古典やっていい?」 「…あなた本当に古典好きよねー。いいわよ、好きにしたら? こっちはいつもどおりに制作するだけだし。 うっ…。この、付け合せのお菓子は激甘…。チャイセットあるんだ。買って帰ろうかな。 ――で? なにをやるわけ、今度は? ラシーヌ? モリエール? まさかヴォルテール?」 ジダンは、手元から小さな本を出して、テーブルの上に置いた。 『ラモーの甥』 しばしの沈黙の後、クリスティナはゆっくりと机に両手をつき、朝顔のように、頭を垂れた。 「ほんっと、あなたって、金が貯まらない人ね…! よりにもよって、そんな地味な物件に手を……ドニ・ディドロと来ましたか! チケット売るほうの身にもなってよ…!」 「すいません。いや、こないだヨシプに読ましてみたら面白くて…。割とこう…、いい舞台が出来るような気が…」 「まあいーわ…。好きになさい…。今更あなたに趣味を直せって迫っても始まらないもの。 …で? もう一人は誰にするの?」 「もう一人?」 「共演者よ。『ラモーの甥』つったら確か、男二人の対話で出来てる小説でしょ? ヨシプと、もう一人はどうするの?」 「いや、それはまだ決めてない。誰かよさそうな俳優いる?」 「そりゃ、それなりにいるはいるけど…。デミトリで行ってみたら?」 「ああ。デミトリね」 「あの二人が共演したの、『最後の物語』以来でしょ。なんか昨日のことのように思うけど、もう一年くらいになるわよね。あたし、個人的にもう一度あの二人が一緒にやるのを見たいわ。 それに、デミトリは最近スゴいわよ、ぐいぐい伸びて。俳優としても人間としても、ケタが繰り上がる成長期ね」 「ふうん…。分かった。考えてみる。明後日、あいつの劇団公演の初日だろ。それを見てから決めるよ」 「そうしたら。一応、他にも候補出しとくけど」 「うん。頼んだ」 香辛料とミルクの香りが漂う店内は、なごやかな雰囲気だった。 壁は赤と緑に塗られていて、その中に大勢の客が背中を丸め、新聞を広げたり、彼らには分からない言葉でおしゃべりしている。 二人はしばらくその流れに身をゆだねるように黙っていた。 時は十二月。外に出たら身を切るような寒さなのだが、そんなことも忘れるような平和な午後だ。 かなり長い空白の後、遠くを見ていたジダンが視線を引き戻して、口を開いた。 「クリスティナ。俺の名前って、ヘンだろ」 口をきいたかと思えばそんな話か。 今更? クリスティナは笑った。 「まあ、あまり聞かないわね。名字ならありそうだけど、名前でそれは。ヴェトナムの名前なの?」 「いや。ぜんぜん。寧ろ名乗るとたいへんおかしな顔をされるよ。かの国の人には。スペルも何か中途半端でワケが分からないしね。 前も言ったかもしれないけれど、母がつけたんだ。なんでこんな名前にしたのか聞いてみたかったけど、物心ついたときにはもういなかったし、親父とは不仲で、祖母にいたっては生きたまま埋めてやりたかったし」 「……」 「仕方ないから、妹に探ってもらった。腹違いの妹ね。それによると」 ああ、あの名前? あの馬鹿な娘がこういう名前にしてくれって自分から言ってきたんですよ。汚い字で、紙にこう、書き付けてね、あたし達のところまで持ってきたの。 あたしはまあなんてみっとみないおかしな名前だろうと思ったけれど、あの娘がこだわってどうしても譲らないもんだから、ならもういいわ、って話になって、役所に届けを出したの。 あたしはあのコを見るのも、名前を呼ぶのもいやですよ。 あの無教養で惨めな中国娘を思い出しますからね。 あれが私の孫なんて! まったくぞっとするわ。 「そんなわけだから、結局解けずじまいですよ。 一時は、本気で疑ってた。母親は発狂してたんじゃないかって。それは恐ろしいことだよね。ひいては自分も狂人なんじゃないかって疑いに簡単につながるから」 「……」 「ところがさ、大学のためにパリに出てきて、そこであちこちの国の人に会ったらば、中に俺の名前を一瞬で覚えてくれる人達がいるわけ。中華系。シンガポール人。――あと、インドの人」 特に親しかったのが、華僑の息子であるフェイだ。 彼は『その音だと、こういう字が考えられるよ』と、ささっと五六個もの漢字を当てはめて書いてみせた。 『きっと君のお母さんは華僑と仲が良かったんだよ。身近にとても世話になった人でも、いたんじゃないの?』 「フェイの考えは的を得てたよ。何しろ、お袋と親父の仲は、俺が生まれる頃にはもう破綻してたからな。お袋はパリに戻りたくて恋々としていたというし、こっちで友達だった男の名前でもつけたのかもしれない。それで、調べてみたら、候補者が一人だけいた」 「ええ? 今頃調べて、よく分かったわね」 「違うって。調べたのは大学時代だよ。まあそれでも、よくぞ分かったもんだと思うけどね。 母の親友だったってヴェトナム人のマダムを運良く探し当てて…、そうしたら、俺の名前を聞いた途端に『まあ!』って言うんだ。それから教えてくれた。昔、あなたのママは、近くに住んでいたインド人の男の人にとても憧れていたの。それはもう神様みたいに崇拝していたのよって」 ――その人はとても立派な人で、パリに住むインド人の中でもリーダー的な立場だった。 それはハンサムで、体つきも立派で、女性に優しい本当の紳士だったの。 一度ね、あの子が道でタクシーにぶつけられたのよ。ミラーが腕に当たったくらいで、どっちも大したことはなかったんだけど。 たまたまそれを見ていたその人が、降りてきてお母さんに文句を言う柄の悪いドライバーに怒鳴ってくれたの。 そっちからぶつけておいて、その態度はなんだ。 移民だからってナメるなよ! ほんとうに素敵だったわ。今、思い出してもつい胸が熱くなっちゃうわね。 あの頃、ただ近所に住んでるだけの私達にあんなことを言ってくれる人は、他にいなかった。 …あら、いいえ、それはないわね。 あなたのお母さんはその人に子どもっぽい片思いをしていただけよ。 その人はあなたのお母さんよりもふた周り以上年上だったし、奥さんも子どももいたの。 思春期の女の子が学校の先生に恋をしたり、教会の神父さんに恋をするのと同じよ。 第一、彼女はその人のファーストネームも知らなかったんだから。 それなのに、神様みたいに崇拝していたの。 その人? 残念ね。去年かしら、本国へ帰ってしまったそうなの。 こっちの事業は息子さんが継いでね。その人は奥さんと一緒に先に帰国したのよ。 ただ、そうねえ…。息子さん夫婦はこちらにいるから、またパリに来ることだってあるでしょう。 教えてあげるわ。私が分かる範囲になってしまうけど。 ええ。主人はインド系の商店とも取引があるから…。 『ジダンさん! どうです? ウチの料理は。前とちっとも変わってないでしょ?』 クリスティナの真後ろで、白髪の店主が客に話しかけているのが耳に入った。遠い言葉で何を言っているか分かりはしないけれど、名前だけは耳にびんと響き、手にしたチャイに波が立つような気さえした。 『滞在中何度でもいらっしゃるといい。この店が持てたのも旦那のおかげなんですから! ジダンさんならいつでも大歓迎。とびきりサービスしますからね!』 クリスティナは、対面の席に座っている眼鏡の演出家を見た。演出家は笑って、口をほとんど開かないまま、謳うように言う。 「付き合ってくれてよかった。一人で来ることもできたけど、自分が何をするか、ちょっと分からなかったから。善意の老紳士をおどろかしちゃいけないからね――。 それにしても、混乱した無学な人間というのは、謎めいたメッセージを残すものだね。答えにたどり着くまで、かかったよ。全く、ものすごく、時間がかかった…」 二人のテーブルのそばを、紳士が静かに通り過ぎて行った。 洋風の格好をして、黒いカシミヤのコートを着た上品な人だった。嗅ぎなれぬ不思議でかぐわしい香りが、彼と一緒に動いていった。 今そこを神様が行くのだとジダンは思った。 最後の瞬間、ちらりと眼差しを上げて彼を見る。 それは全く当たり前の仕草で、もちろん紳士は何も気付かず、主人から懇ろな挨拶を受けて表へと出て行った。 『またどうぞ、ジダンさん! お気をつけて!』 まるで広場から鳩が飛んで行った後みたいだった。 ジダンとクリスティナはしばらく互いにものも言わず、座っていた。 遠くで食器同士の触れ合う音が僅かにする。 やがて、ジダンが顔を上げて、テーブルの上の冊子に手を伸ばした。 「それで、次の公演の小屋だけど――」 クリスティナは息を吸い込むと、受けて立つように眉を上げた。 「――ええ。なによ」
(了) |
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