その晩、忍び込んできた彼がしたのは、(図らずも検索システムのメンテと共に、)プログラムの一部に小細工をして、自分の文書利用記録の表示を出鱈目にすることだった。
「俺たちは希望の文書を見つけると、複写申請コードを提出するだろ。それが読み込まれてメモリ上に展開され、コードが検索システムに渡される。システムがその文書を見つけ出し、原データからコピーした複写データを申請者の端末に返す。ま、これはあんたなら知ってるよな、当然。
 で最後に、誰が何のコピーを取ったか、というメモリ記録が、履歴データとして外部書き出しされ、一つの処理が終わるわけだ。メモリはクリアされて、次の処理。俺たちの複写履歴はそうやって蓄積されていく」
「解るよ、それで?」
「俺は、自分が何を複写したか分かんない様にしたの」
 バルの暖かい人の声が、埃のように僕たち二人の間に満ちた。あんまり僕がしげしげと彼を見つめるので、彼は照れてビールを持ち上げ、微笑した。
「でかい目でそんなに見るなよう」
「そんなことが出来るのか?」
「コピーが完了した時点で、時刻、書名、管理番号がメモリに記録されるんだが、その際バックで動いてる検索システムから無作為に書名と管理番号を必要な分だけ取ってきて、代わりに貼り付けるようにした。そのまま終了処理が行われると、それが正しい履歴として外部記憶装置に書き出されるってわけで…。
 言っておくが勿論、俺のIDだけの話だぜ」
「…そんなことして、バレないのか?」
「然るべきところを然るべき人間が点検すればバレるかもな。文書そのものが持つ複写記録総数と合わないわけだから。だが足跡残してないし、多分大丈夫だろう。
 言っちゃなんだが電子文書館には注意が向けられてなくてね、ソフトにもバグが多いし、エンジニアも人間しか派遣されてこないだろ。総数の齟齬が見つかってもそれくらいじゃ問題にされないはずだ。あそこは今のところカテドラルの視野から漏れてる」
「………」
「勿論、分かってやってるんだぜ」
「……ああ…」
 返事はしたが、僕はなんだか彼にいっぱい食わされているような気がした。説明は確かに聞いた。しかし果たして実際にそんなことが出来るんだろうか。注意外とは言え、カテドラルのシステムの一葉なのに。
 大体、わざわざそんなプログラムを用意して、自分の複写履歴をいじって何が嬉しいのだろう。ヌクテ・ロイスダールとは子供の頃から施設が同じで、彼の優秀な事は僕も知ってはいたが、遊んでいるのでもなければ、そんな真似をする理由がさっぱり分からない。
 …コンピュータに詳しく、色んな小細工をしては他人を出し抜いたような気になって、一人で悦に入っている人間をたくさん知っている。成績を改竄したり、義務活動を怠けたり、彼らのすることはつまりずるとごまかしだ。
 僕は正直言って、彼がそういう連中の仲間だと思いたくなかったので、しばらく質問するのを躊躇っていた。
 しかし結局我慢しきれなくなっておずおずと尋ねると、顎に手を添えた彼の答えは意外なものだった。
「…厚生局の連中にデータ渡したくないんだよ。…俺たちの親じゃあるけど…、あいつらうるさいよな」
「厚生局?」
 僕は心密かにぎょっとした。文書館の話題から突然そこへ飛んで行こうとは思わなかったためだ。それにたった二日前、遺伝子提出義務の件で局のカリーナの面談を受けていた為でもあった。
「なんで厚生局が複写履歴を?」
「いやー、どうしてかねえ」
「え?」
「分からないか?」
 ヌクテは細い目の中に光る黒い瞳を僕にじっと注いだ。視線が絡み合ううちに、しばらくの時間が流れた。
「………資料に?」
「そういうこと。電子文書館はたしかにカテドラルの注力外だ。だが人工生殖事業はそうじゃない。そのためにカテドラルがあるというくらいの最大テーマだからな。
 使える情報は何でも使う…。当たり前と言えば当たり前かね」
「………」
 補足しておくが、彼らも全員にそんな対応をしているわけじゃないぜ、とヌクテは手を動かした。
「つまり提出義務を怠りそうな問題児にはそうしているというわけだ。俺や…」
「ちょっとごめん…」
 僕は断ると、円柱のグラスの上に手を乗せその上に額をつけた。皮膚には物質が跳ね返るが、心の中ははっきりと形のわからない、なんともいえない気持ちがしていた。
 二日前、カリーナが言ったのだ。君にだって…、女性に興味がないわけではないじゃない…。…夢想しているものがあって、少し勇気が足りないだけでしょう…。その相手がリンダであって…、何故いけないの?
 彼女は、美しいふっくらとした下唇を持つ彼女は知っていたのだろうか。僕が専門ではない古い恋愛小説を読んでいたことを。何日も続けて一心不乱に読んでいたことを。
「………」
 他にも思い当たる節があった。僕は掌の上で重たくなってきた頭を横に倒す。視界にヌクテの組んだ腕と、すっきりした肩から首、顔が入ってきた。彼はぬるくなったビール越しに、
「大丈夫か?」
と僕に声を掛ける。彼の後ろには店の明かりが煌々と光っていた。
「…君も同じだ」
僕が口を開くと、ヌクテの眉が右に動いた。
「一番御しやすいから僕のところに来たんだろ? …僕なら強引に押し切って、共犯者に出来る」
「………」
「だから今も全部話してるんだ。君は初めから、自分が正直に出れば僕が君に逆らうことのないことを知っている。僕の性質を利用して…。連中と同じだよ」
 彼の唇がゆっくりと割れて、白い歯が少しずつにやにやとのぞいた。それは自分の狡さを見抜かれて喜んでいるようでも、笑って誤魔化しているようでもあった。
 そうだ。ヌクテだって、最初から狙いを定めてやってきたはずだ。顔見知りで、同じ様に厚生局からマークされている、そして押しに弱い僕が文書館に居残っている日を知っていてゲートを乗り越えたに違いない。
 目的の為にデータを集めてそれを利用する。彼のしている事は結局カテドラルの小型版なのだ。正面ではなく、相手の弱点を裏から攻めてくるのである。
「…いやあ、悪い悪い」
 ヌクテはとうとうそう言った。僕が歯を見せて唸り声を上げると、
「おごるおごる」
と側を通りかかったウェイターを呼び止めた。そしてブランデーを二つ注文する。
「今まで悪い事もせずに生きてきたのに…」
眠くなってきた目をこすりながらそう呟くと、彼は
「君を利用したのは悪かったが、あれ自体はそれほど悪い行為じゃない」
などと言う。
 思いがけない断定に両手から顔を上げた。なんて態度だという面持ちをしていたはずだ。しかしヌクテは実行者である。悪びれた様子もなく、笑いながらこう言ってのけた。
「システムに取り殺されないための護身術さ」




 その日以来、僕は彼の人生に巻き込まれた。まったく彼の身勝手な事情から。
 しかしこう自白しておくと印象が少し違うかもしれない。僕は彼に共犯者にされたことを喜んでもいた―――――
 彼は聡明で、颯爽とした雰囲気を持った風のような男で、僕などとは違い、自分が仕組みの中でどういう状況に置かれているのか嗅ぎ付ける独特の勘を持っていた。
 確かに規範からの逸脱を辞さない危険なところはあったのだが、当時スコラにいた学生の多くが、彼に近寄られたらきっと大変だと思うと同時に、わくわくしながらそれを夢想してもいただろう。
 他人にそういう思いをさせる人間はなかなかいなかった。同じ様な体験をしようと思ったら僕らは、エア・ネットのムーヴィジョンに入るしかなかったのである。そこにはプログラミングされたヒーローがいて、荒廃した世界の中で正義を背負いやりたいように暴力を振るうのだった。



 やがて事件から一週間、二週間と過ぎたが、検索システムが持ち直したのみで、彼の行った小細工は一向発覚しなかった。
 一月後には、前に定期メンテナンスを行ったエンジニアがまたやってきてシステムの調子を見ていたが、何事もなく正常であると太平楽な記録を残していた。
 その隣ではヌクテの複写履歴に、「古代大陸歴史概説」だの「第二次エネルギー開発の課題10」だの「シャーリーの空飛ぶ魔法教室」だのといった、明らかにおかしな書名が蓄積されていたのだが…。
 僕はニンブスの堅牢な、何もない空間に人類を生かすために編み上げられた見事な蜘蛛の巣のようなシステムにも、レベルを上げれば抜け穴があることを知った。いや、知ろうと思えば以前にも知ることが出来たのかもしれない。
 しかし僕はその気楽なエンジニアと同じ様に、自分を取り巻くシステムに疑問を持つことはなく、さらにその仕組みを知ろうと情熱を持つことすらなかった。
 …自分はただ、自分の好きな文学の研究が穏当に出来ればそれでよかったのだ。虚か実かもわからない昔の物語と、滅び去った古い描写の解読が、自分にとっては何よりも重要だった。僕の時間は文書館の中にあり、その壁の外でフェイクファーが流行ろうと正常位が流行ろうと自然出産が減ろうと、付き合いで反応しているだけでその実何一つ本当ではなかったのである。
 生命の「約束」とやらも、カリーナもリンダも、突き詰めれば僕にとっては、うっとおしい邪魔でしかなかった。
 …ただ一つ、真正に惹き付けられる現実のもの。
何をするか分からずはらはらさせられる半野生の生物。
 それがヌクテ・ロイスダールだった。
だから彼は僕にとってとりもなおさず、現実そのものだったのである。








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