21.青空にある何か(トードー・カナンの供述)







 その映像を最初に見た時、心に起きたことを説明するのは難しい。外面的に言うと、僕は全編15分ほどのそれが突然ブラックアウトして途切れた後も、同じくらい長い間端末の前で動く事が出来ないでいた。内面的に言うと、がらんと空いた自分の体内に、内側から絵が貼り付けられていったとでもいうのだろうか。
 そういう感覚は、それまで体験した事がなかった。勿論僕も子供だったので、ムーヴィジョンやエア・ネット上でのストーリーに夢中になったことはある。しかし、体内で壁が修復されていくような、或いは剥がされていくような、そういうイメージは、あの映像が最初だった。
 僕は今でも、文章を漁りながらその実あの感覚を漁っているのだと思う。事実、昔の文章の中にあの素晴らしさ―――――― 素晴らしいと言ったな、僕は ――――を何度か再発見しては、その度奥へとはまり込んでいった。
 その映像をヌクテに見せたのだから、僕も余程彼には気を許していたということだろう。またその時には「カメラの無い」緑帯の奥深くに来ていたから、きっと色んな意味で気が大きくなっていたのだと思う。
「明日は大変なことになるぞ」
 と、言いながらヌクテは敷物の上に腹ばいになって僕の渡した端末を見ていた。
「なんで?」
「鼻と喉がぐずぐずだ。こいつらの花粉でさ。今は大丈夫だが、毎回一日経つと風邪でも引いたみたいになる」
「へえ?」
 僕は緑帯への侵入(勿論システムを騙してだ)は初めてだったので、彼の言葉の意味が分からなかった。ただ辺りに立つ巨大な木々にもう一度目を向ける。空気循環のために植えられているその植物たちは理路整然と天に向かって直立し、ぎらぎらと痛いほどの太陽を浴びて王者のように僕達を見下ろしていた。
「本当は直の陽光もあんまり良くないんだが、まあ長袖着てるし大丈夫だろう」
 ヌクテが言ったその瞬間に、太い幹の間からきゃーっと言いながらエテルが現われ、またきゃーっと叫びながら別の幹の間に消えていった。彼女はお出かけと知るや大変なはしゃぎようで、さっきから遠慮なしの歓声を吐きつつあちこち走り回っていた。
「元気だねえ…」
「元気だな。あ、始まった」
 その言葉が聞こえたので僕は黙った。彼の顔を見ているのも何だったので、目を上に放り投げ、微動だにしない木々の枝と、その向うにのっぺりと広がる白い天井を眺めていた。
 ――――――静かだった。上から下まで透き通るような昼間の中で、空気が少しも動かなかった。
 こんな場所があるんだなあ。と僕は顎を下ろし、瞼を閉じて考える。外にいて、それでいてたった一人になれて、何ものを目指すことも無く、あれをせねばならない、これをせねばならないと心を一杯にすることも無い…。
 勿論、こんな場所で僕が生きていけるとは思えないけれど、木の上に家を立ててそこに住みたいと夢想する子供のように、僕は辺りの静けさと肩に降る陽の光に少々うっとりとなっていた。
「…あ、切れた」
 ヌクテの声が背中の方でした。僕は気持ちいいんで目を開かないでいた。
「…これ、ここまでか?」
「そこまでだよ」
「…ふーん……」
 ヌクテは息を吐き出したまま、しばらく何も言わなかった。何か考えているような気配だけが、暗い世界の中、僕の背中に伝わってきた。
「…なんだろうな、これ……。何か、妙だ…」
 僕は同じところを彼が通ってくるので、嬉しくなって笑いながら先を待っていた。彼よりも先んじたのはこれが初めてだという気がする。
「……変だなあ。こんな映像、俺は見たことがないはずだが…」
 ヌクテの声は微かな戸惑いを含んで続いた。
「…懐かしい、という感じがしてる…」
僕は彼の隣で目をつぶっていた。
「……何でだ? …そんなことってあるのか? 何だか妙にしっくりするのはどうしてだ…?」
「僕もそういうのは思った」
 耳の上から両手で自分の頭蓋骨を締め付ける。
「特に青空を見ているときだ。熱い飴玉が喉元で引っかかっていつまでも溶けないような感じがする」
「俺としては髪の毛が引っ張られるようだと言いたいよ」
「身体が覚えてるってのはありだと思う?」
「……分からん。これって、俺たちのルーツに当たるような場所なのか? 母星なんだろう?」
「フィルムの年代からしてそのはずなんだ。ただ何処かは分からない…」
「……最後の、あれは、聞き取れなかった。何て言ってた?」
「『こんな私を…』?」
「そう。その後は?」
「聞こえない」
「『私を』どうしろって? …死んだ家族に向かって。変なこと言うなあ」
「そうだね。…でももしかしたら、母星の人間には簡単に分かることなのかも知れないよ。僕らには色んなレベルでストーリーが欠落していて、彼らがその時感じたことがもう、分からなくなってるんだ。そもそも家族、妹…。これからして半分以上分かってない」
 すう、と僕は肺の底まで空気を入れた。その時喉の粘膜が微かに焼けるような感じがした。
「でも彼が最後に何が言いたかったか分かるようになりたい。…昔の文章の研究は…、そういう意味では遺跡の発掘のようなものだよ。これを見つけたのは十三の時だけど、それ以来僕の大きな目標の一つなんだ」
「そうか。なるほどな」
 ヌクテはそう言って端末を僕に返した。
「なるほど?」
「ん? 俺も探しているからさ」
「何を?」
驚いて尋ねると、彼は惜しみなく目を線にした。
「さあー。何だろうなぁ、あれは」
と、楕円の敷物から立ち上がる。
「自分でも分からんのだな、あれが何だか…」
 彼は身長が高いので、座っている僕からは塔のように見える。
「ただまあ厚生局はいいとこ突いて来やがるよ」
「え?」
 ヌクテは僕のほうを見た。その顔は笑っていたが、いつもの薄情な笑顔ではなくて、少し自嘲のこもった、少し困っているような、自信のない笑みだった。
 意図の端を取り損ねているうちに、彼はついと顔を森へ戻し、話題を変える。
「エテルはどこ行った?」
 確かに彼女の姿が見えなかった。彼は探してくると言って木の間に入り、しばらく姿が見えなくなった。僕が端末を閉じ、アーモンド型の敷物を畳みながら待っていたら、十分ほどして手をつないだ彼らが戻ってきた。
 エテルの顔が真っ赤に火照り、目は潤みできらきらしている。歩きながらすっかり体重をヌクテに甘えてご機嫌だ。…ご機嫌過ぎてちょっと訳が分からなくなっているようだ。
「どうしたの? なんだかすごくほっぺが熱いねえ」
 と、何の気なしに僕が手を伸ばすと、冷たい皮膚が首筋に触れた瞬間彼女は嬌声を上げて体を震わした。
 そこに否定できない強さで漂った性的なサインを感じて、僕は思わずヌクテの顔を見る。彼は肩をすくめて、あんまり興奮しすぎたんだろ。と言った。
「座り込んで自分の身体いじって遊んでた。そういうの、すごく好きなんだ」
 ぎゅーっとして、ぎゅーっと! と彼女は言いながらヌクテにじゃれついた。僕は毒気を抜かれて口を開ける。この自分の肩より背の低い痴的な少女が自分の性感に夢中だなんて、想像したこともなかった。
「もっと幼いレベルの遊びの方が好きなのかと」
「いやあなかなか侮れませんよ。男のアレにも興味津々だ。気を付けろ」
 ヌクテはそう言いながら彼女を適当にあやし、最後には背中に負ぶって市街へと戻った。僕は彼らの後ろについて黒々とした木々の間を歩きながら、時々思い出したように彼と話をした。
「もう三週間もすれば、君はカテドラルの住人になるんだな」
「お前のパートナーと同期だ。もっとも局は違うけどな。俺は資源局で彼女は統治局。何でもゲオルギウスの秘書官になるって聞いたぜ」
「らしいね」
「抜擢人事だな」
「だね…」
 僕は憂鬱な気持ちで頷いた。彼女がこれまで以上に僕に対する要求を強めてくる予感があったのだ。彼女との付き合いも三年以上になり、それだけの長さになれば当然情だって湧いてくる。彼女自身の成功については祝福を述べたい素直な気持ちがあったのだが…。
「提出期限もこの調子だと、すぐ来ちまうな」
 考えが通じたと見えて、ヌクテもぼそりとそう言った。
「どうするかねえ…」
「期限越しても提出しない場合どうなるんだろうね」
「さあ…。そういう事例は聞いたことないな」
「厚生局が強制的に収集するとか?」
はっはっは、と突き抜けるような明るさで彼が笑った。
「その絵面は笑えるなあ」
 体力を使い果たしたエテルはいつの間にか彼の背中の上で眠り込んでいた。そして僕達にも同様に、体力の終わりが見え始めていたのである。
 十八歳、十九歳の時には反抗も悪くない選択の一つだ。その頃、遺伝子提出などの義務活動から逃げ回るのは僕らだけではないし、厚生局も深刻には取らない。
 しかし、二十三歳という年齢は、待ったなしの一線だった。そこを超えるとこの反抗は法律違反となる。簡単に言うと洒落にならなくなるのだ。
 僕達はそのけりをどう付けるのか考えねばならなかった。カリーナ達もこれまで以上に強く、僕達を説得するだろう。もはや誤魔化すだけではどうにもならない強制性でそれは目前に迫っていた。
「…まあ何だ。ともかくカテドラルに勤めても突然性格は変わらないよ」
 彼の声が木々の間を縫って僕に届く。いつの間にか足元に落ちていた視線を上げると、エテルのぶら下がる両足が見えた。
「お前も大学に残って忙しいだろうけど、また遊ぼうぜ」
 遠い結論を意識しながら、僕は笑った。今この時には別の話をして、そう片付けるしかなかった。戦争に行く前の兵士は、こういう風な気持ちかもしれない。



 ところでヌクテが言っていた通り、翌日は正に「大変なこと」になった。喉がひりひりして目が覚めて、一日中訳も無くくしゃみをしては鼻ばかりかんでいた。その上目の周りもむやみと痒く、気が散って何一つ手につかない。スコラでヌクテに会ったら、彼も同様で風邪を引いた振りをしていた。
 ところがエテルは元気だった。彼女はまるで何も無かったかのようにけろりとして、その日もきゃーきゃー言いながら辺りを走り回っていた。








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