28.再び |
「彼は激しく葛藤していたと思います」 薄い雨雲を通して朝日が差し込み、白色に染まり始めた部屋の中で、トードーは静かに言った。 「やるべきか、やらざるべきか?」 「寧ろ、このままでいいのか、よくないのか。です」 外が明るくなるに従って、クワンのところからはトードーの顔が暗くなり始めた。少し斜めを向いた彼の顔の形が、影絵のようにくっきりと見え、遠い昔の話でもしているかのようだった。 「彼は、何かの存在を感じていました。ニンブスというシステムが内部に抱え込んでいる何か。自分の存在に関わる忌まわしい何か。その時にはその実態をはっきり掴んではいなかったでしょうが、彼は少なくとも、それが『ある』ことを知っていたんです。 そして、悩んでいました。その扉を開けて中へ飛び込むか、扉を閉めたまま、エテルに屈するか」 「屈する?」 クワンが繰り返すと、トードーはこちらを向いて、小さく頷いた。 「緑帯に遊びに行ったとき、彼が『厚生局はいいところを突いて来ている』と言ったことを覚えていますか」 「ええ」 「あれは、エテルのことなんです。ヌクテは彼女を子供のように扱って、決して本気で相手にしていないように見せていましたが…」 「…ああ、そうでしたか…」 クワンは少し感情が煽られそうになって、意味もなく髪に手をやった。振る舞いの大人しくなかったヌクテという男が、その時に限っては遠まわしに感情を隠していたという事実が、妙に琴線をくすぐったのである。 「でも、…結局のところ彼は、扉を開けることのほうを選んだんですね?」 少し慌てたようなクワンの言葉に対するトードーの答えは、意外なものだった。彼は首を振ったのだ。 「いえ。彼はエテルに負けました」 「え?」 「その時の保守作業で―――――、彼は結局、何もしなかったんです。というより、何も出来なかったんです。 そしてその時点で彼は自分の弱さを笑い、自分にはやっぱり出来ないのだ、と思い知ったと思います。 無事作業は終了。彼はきっと内心ほっとしながら、もう気配を追う必要はないのだ、もう闘わなくてもいいのだと思いながら、安心して眠りについたことでしょう。 結果からみると逸脱者でしたが、彼は本当は僕とは違い、一つの道しか知らないわけじゃなかったんです。だからこそ、迷いました」 「………」 「その次の日は、休暇でした。彼は静かな気持ちで身体を休めて、穏やかでした。そして夕方だか夜だかにやってきたエテルに、精神的な意味だけでなく現実としても、とうとう膝を折ったんです」 「…どうしてそんなにはっきり分かるんです? 彼がそう言ったんですか?」 「………」 トードーは雨の音の中で顎を動かさないままちら、と皮肉めいた苦笑をこぼした。そんな笑い方は、今までしたことがなかった。 「…その夜中に、彼はうちに来たんです。真っ青な顔をして…、ものすごく取り乱してね…。 本当なら、その時には一番僕には会いたくなかったはずなんですが、余程狼狽していたんでしょう…」 その瞬間にクワンは結論が分かってう、と口元を押さえた。そんな彼に悲しい微笑を向けながら、トードーは言う。 「彼は僕の両肩を鷲づかみにしてこう言いました」 エテルの背中から羽根が生えている。
「そして、一週間後です。先の予防保守作業で適用した修正情報に一部バグがあることが判明し、急遽二度目の保守作業が決定しました」 トードーは額を右から左へとゆっくり撫でると、静かな声でそれを告げる。 彼はもう、迷いませんでしたよ。 |
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