32.明転或いは暗転







 サミュエル・クワンは報道陣と彼らの荷物の間を抜けて外へ出た。特に煩わされることはなかった。公務員に強引にマイクを向けても、拒む映像しか取れないことを彼らは知っている。そういうのはもう二、三日前に撮影したから要らんのである。
 勿論彼がトードー・カナンの主任担当官だということを知っていれば話は全然別だろうが、札を下げているわけでもなし、彼のような若造に注意を向けるものは一人もない。
 外は昨日の雨を思い切り裏切るかのような晴天だった。気温も高く、まさに春陽祭にはうってつけの天気だ。クワンがいつものコーヒー屋に歩いていくまでの間にも、風船やおもちゃを振り回した子供と幾人もすれ違う。
 そんな春の午後が振るう、のどかな力に半ば屈して安堵しながらも、クワンの気分は晴れなかった。彼は先ほど降下するエレベータの中で、我慢のない連中がひそひそ声で交わす会話を、聞くともなしに聞いてしまったのである。
――――もう決まってるんだってな、誰の首が飛ぶのかってのは。
 男が言い、女が尋ねる。
――――それ、ウチの人間の話?
――――当たり前だろ。政府が責任取るわけない。
――――随分迅速ね。誰があっちに着いてるの?
――――エブレン・シャオユェさ。
 うわあ、と女が顔をしかめる。
――――出た、って感じね。
――――面倒なのは全部あそこへ行くんだよ、結局。親父さんも大物だし、彼女もウォルシュの事件を辞職者ゼロで片付けたろ。
――――事件がややこしいのか、あちらさんが焦ってるのか…。
――――どっちもさ。選挙だ。とにかく選挙だ。こういう時は先生方、死に物狂いだ。
――――なんだか嫌な雰囲気ね…。私大体、あの弁護士好きになれないのよ。
――――みんなそうだろ。あいつに恥かかされた人間、一人や二人じゃないんだから…。
 子供が走って、視界の隅を赤い風船が流れていった。ふと見ると向うから学生らしい連中が十人ばかり歩いてくる。クワンは早くから道を譲って車道へはみ出しながら、
「どうするんだろうねえ…」
と思わず嘆息交じりに呟いた。皆から怪物みたいに言われる人間になって、その後はどうするんだ。
全く。
 誰の首が実際に飛ぶのか、クワンは下馬評以外聞いていなかった。ニカンダがそういう情報については確定してからでないと部下へ下ろさない性格だからだ。しかし、あの時厚生局で会ったシャオユェが、何をしに来ていたのかはうっすら分かりかけていた。
 彼女は、首を切る人間のメンタル・データを洗いに来たのだ。組織に対する忠誠度、精神の安定度(辞職させた直後に自殺なんかされたら逆効果だ)、説得しやすい環境作りのための情報収集…。
 そして本人がじきじきに出向いてそれを調べたということは、その対象がかなり大きなポストに及んでいるということの裏づけなのかもしれない。
「………」
 クワン達は今、俎板の上の鯉というやつだった。調査については一旦停止命令が出ている。周囲の状況が固まるまで、下っ端は辛抱強く待つしかないのだ。仕事が過酷なのも大変だが、仕事がないのはもっと辛い。憂鬱の上にまた憂鬱が積み重なるのに耐えかねて、彼は休憩へ出たのである。
 学生たちの群れは続いていた。みんなそこらで手に入る菓子やらビールやらを手にしている。関係がなければ、今頃自分も微笑ましい気持ちでそれを眺めていただろうに。不思議と後悔はないが、やはり面倒なことに関わったものだ…。
 そんな事を思いながら、公園南口に差しかかった頃だった。
「―――――あれ? クワンさん?」
 遠くで自分の名前を呼ばれて、彼はえ? と顔を上げる。すると「おーい! クワンさん!」と続く声があって、さ迷う視線が固定された。
 学生たちの群れの中から、Tシャツにジーンズという気楽な格好をしたヤナ・ニカンダが立ち止まった彼のもとへ走ってくる。その姿は元気一杯で、何だか前に会った時とは別人みたいにあどけなく見えた。
「クワンさんもお祭り?」
 さすがに気持ちよく的の外れたことを言う。クワンは苦笑いしながら、ネクタイを引っ張った。
「まさか、仕事だよ。ちょっと外にコーヒーを飲みに」
するとヤナも失言に気付いたらしく、申し訳なさそうな顔をした。
「そうか。そうだよね、今、大変だもんね…。ごめん、あたし自分が浮かれすぎて忘れてた」
「いや、気にすることないよ。サボってるのは事実だしね。ちょっと今自由に動けなくて、オフィスにいても煮えてるだけなんだ。それで気分転換…」
 話していると、南口の検問を抜けて車が一台、公園の中へ入っていくのに気がついた。今日は交通規制がかかっていて車の姿をほとんど見ていなかったから、妙に視線に引っかかった。
「あれ? 車って、今日はダメなんじゃなかった?」
「え?」
 クワンの注意にヤナが振り向く。だが見るとすぐ、
「ああ、あれは身障者用の車両だよ。そういう車はOKなの。時々入ってくるよ」
と教えてくれた。
「ああ、そう…」
 クワンは答えたが、何となく視線が絡まったままその車から離れない。ヤナと二、三話しながらも、何故かちらちらとそっちを気にしてしまう。
 何故だろう? あれに違和感を覚えるのは…。
「友達がみんなクワンさんのこと気にしてる。みんな二種文官受ける法科の学生だから、本当のこと話したら大変だよ」
「じゃあみんな試験直前? 遊んでていいの?」
「あは、今日だけ今日だけ」
ああ、とクワンは笑いながら解に行き着いた。
 身障者用のバンは、大体後部座席の窓にフィルターが掛かっている。中で介護をしたりする際、外から見えないように。あの車にはそれがない。中に積んである車椅子も丸見えだ。カーテンがあるのかもしれないが…。
「クワンさん、今日は遅くなりそう? 友達が七時からステージで音楽やるの。私もいるから、もしよかったら顔出してみて」
「そうか、わかった。どうなるか分からないけど、まあ…」
 妙だな。あの車。変な場所に止まったまま、誰も下りてこないし、動き出す気配もない。その周りを歩いていく人々も、邪魔くさそうな視線を車体に向けているが、車は、ひっそりとしたものだ。
「―――――変、だ……」
 クワンがそう呟いた時だった。
いきなり真っ白な光が炸裂して世界が明転した。クワンはまぶしい、と思ったところまで覚えている。次の瞬間激しい圧力が全身を叩き、突如意識が闇に落ちた。








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