「…気のせいかな」 「何か?」 涼しく流れる青い夜の下、小さなライトに照らされた看板を確認して、開け放たれた校門を通り抜けた時、トードーが言った。 「怪我をしてる人が多いように思うんですが」 「気のせいじゃないですよ。こないだ法務庁の近くで爆破テロがあったんですが、この大学すぐ近くでしょう。学生がたくさん巻き込まれたんです」 「ああ…」 「死んだのもいます。今夜はその騒ぎでお流れになっていた演奏会の仕切りなおしでしてね」 「そうでしたか」 外に電灯が少なく生のままの黒さなので、講堂は蛍を閉じ込めた箱のように内側から光って、かえって目印になっていた。人影の動く入り口で、何か待ち受け顔をしてウロウロしている少女を見つけると、クワンは手を振って居場所を知らせる。 ところが、彼女はクワンになかなか気付かなかった。ん? と二、三度加えて手を振ると、やっと目と目が合い、その上「えー?!」と素っ頓狂な声を出される。 「え? え? ちょっと本当? 全然わかんなかったー!」 こういうところはやはり少しおばさんぽい。ヤナ・ニカンダは呆気に取られているトードーの前で、クワンの腕を思い切り叩きながらひとしきり驚いた。名前を呼ばないようにあらかじめ言われているから、彼女としても他に仕様がなかったのかもしれない。 「痛い痛い。こちらがこないだ話した友達のトードーさん(彼は喚問で名前が出ていないのだ)。トードーさん、この子はヤナです」 「あ、始めまして。ヤナです」 「あ…。どうも」 もしかするとトードーは顔でも赤くしていたかもしれない。彼女の明るさと声の大きさは、はしゃいだ学生としては普通だが、それでももやしみたいな彼を充分に圧倒していた。 「それにしても、反則だよその前髪…。全然学生として通用する。サムさん、本当に27歳?」 「おう、今年で28だよ」 「どこで着替えたの? そのTシャツ…」 「ワイシャツの下に着て来たの」 「がっ、学生さん!」 ようやくトードーが笑い出した。先ほど、車の中でクワンが「変身」していた時のことを思い出したのだろう。場を和ませたのでもうよしとして、彼はヤナとトードーの背中を抱くようにして講堂の中へと押し込む。 入り口のところで学生がパンフレットを配っていた。こういうチープさはクワンがいた頃と全然変わっていない。三人はもう半ば埋まっている客席の階段を降り、ヤナが取っておいてくれた中段のいい席に落ち着くと、パンフレットに目を当てた。 と、ヤナがごそごぞやっていると思ったら、バッグの中からサンドイッチを取り出して渡してくれる。その後からプラパックのジュースも来た。 「作ってきたから食べて食べて」 「え、嘘。作ってきたの? 気を遣わなくてもよかったのに」 「いいのいいの。友達にいつも差し入れるんだ。ちょっと余計に作っただけで、そんなに大変じゃないから」 「ありがとう。悪いね…。じゃあ、はい、トードーさん」 彼のパンフの上にサンドイッチを差し出す。素直に受け取った彼だが、断面からはみ出した中身を見て何だか不思議そうな顔をしている。クワンが早速ビニルを空けてかぶりついても、何か釈然としない表情でそれを眺めていた。 「どうかしました?」 尋ねてみると、彼は失礼にあたらないかと怖がる口調で、 「あの、これ…、何ですか?」 自分の持っているサンドイッチの断面からのぞく、白地に赤い線の入った具を指差した。 「何って」 ヤナは冗談か何かかと思ったのか、笑いながらあっさり答える。 「えび」 「…あっ」 トードーの目の表情が変わった。えびのサンドイッチ。クワンにも思い出されるものがあった。あの撮影者不明の映像の話。撮影者が、好きだった食べ物だ。 「あっ」 きっとその感激がうまく言葉にならなかったのだろう。トードーはもう一度そう言って、見たこともないようなばら色の頬でヤナとクワンを見る。 「すごい…! これがそうなんですね。…僕、えびは初めてだ…!」 ヤナが戸惑っている気配が隣からぐんぐん伝わってきた。 「別の惑星にでも住んでたの?」 そのコメントにクワンは冷や汗を隠しつつ教えてやる。 「海の無いところに住んでたんだよ」 と。 開演時刻になった。舞台が暗くなり、なかなか立派なアナウンスが入り、オーケストラピットの上が明るくなる。既に席に着いていた面々の間を通って、指揮者が現われた。夏の椛の木のように若く、目を細めたくなるような青年だった。 普段はしないことかもしれない。拍手を押しとどめて、開演の前に挨拶があった。 この会は、本来春陽祭で行われるはずだった。しかし事件によってメンバーも傷付き、死亡した者もある。本当はあまりに辛いので、コンサート自体を中止しようかとも思った。しかしそれでは天国に行った仲間達が寂しがるだろう。今日は勿論、来てくださったあなた方に、そして天国にいる彼らにも届くように、各人が最高の演奏をするために集まりました。どうぞ最後までお楽しみください。 そっと伺うとヤナの下瞼に涙がたまって光っていた。友達が死んだのかもしれない。自分にどんな慰めの言葉がかけられるだろう。クワンはそう思い、腕を組んで、前へ視線を戻した。 吹っ切るような明るい曲から始まった。トードーは感動する、というよりも驚いたような顔をして忙しく動くオーケストラを眺めていた。 人間が実際に楽器を操って、力いっぱい音を出している。驚きなのかもしれない。思えばクワンだって生の演奏は久しぶりだ。こんなところに来なければ毎日音楽は聴いていても、スピーカーの向うには本物の生きた人間がいて、一生懸命音を鳴らしていることだって、忘れてしまう。 |
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