「…大丈夫、ですか?」
 廊下においてある長椅子に座り込んで、頭を膝よりも下に抱え込んでいるトードーに、恐る恐る尋ねた。
 開演して1時間ほどが経っている。休憩に入った頃には少し疲れたと言っていただけだったのだが、ロビーに何か飲みに出てきて座り込んだら、そのまま立ち上がれなくなってしまった。
 目に見えるような異常はないので、多分、心の中の問題だろう。そうは思ってとりあえずヤナを席に戻し、ベルの鳴り終わったロビーに残ったものの、15分もぴくりともされないと不安になる。
「…平気です、ごめんなさい…」
 答えて、トードーは無理矢理顔を上げようとする。そうなるとクワンも悪い事をしたような気になり、さりとていいから顔を伏せておけとも言えず困ってしまった。
「何か、水か温かいものでも必要ですか?」
「…いえ、いいです。本当にすみません。…ちょっと、どっと来てしまって…」
 彼の台詞の後ろに音楽が聞こえた。確か第二部はオペラ歌手が歌っているはずだ。疎いから知らないが、どこかで聴いたことのある曲が、扉を隔てたロビーにも遠く流れてきた。
「………」
 トードーはまだ少し辛そうにしていた。膝に両肘をつき、組んだ手の上に唇をつけるようにして俯いている。
 クワンは迷ったが、結局彼の隣に座ることはしないで、自動販売機にコーヒーを買いに行った。頭が仕事モードでないせいか、どうも対応が稚拙になる。
 出来るだけ時間をかけ、両手にカップを下げて戻ってくると、トードーは思い切って身体を起こし、壁に背中を預けていた。幾分だるそうだが、静から動へ移り変わっている。クワンはひとまずほっとして彼にコーヒーを渡した。
「ありがとうございます。すみません、折角のコンサートを…」
「ああいえ、いいんです。それに、無理言って連れ出したのはこっちですよ。疲れましたか?」
「…いや、疲れたわけじゃ、ないんです」
「何か話して楽になることでしたら、どうぞ」
 するとトードーは一分寂しげな、陰のある微笑を浮かべる。
「…でも、クワンさんはもう…、僕の調査官じゃないから…」
「…はい?」
「僕の話を聞く義理はないんですよ」
「…いいじゃないですか。そんなことどうだって」
 クワンは思わず本気で彼の目を覗き込んだ。その一瞬、宇宙に独りでいるつもりらしいこの青年が心底歯がゆくなり、叩きつけるか引っ張り上げるかしてやりくなった。
一体今、隣の席にいる自分のことを何だと思っているのか。
 こういう感情を何と呼ぶのか知らないが、何か少し傷付いたような気持ちだ。
「僕に話しにくいことなら、無理にとはいいませんが」
「あ、いえ…。そういうわけじゃないんです…」
 自分の言葉が彼を苛立たせたのが分かったのだろう。トードーは驚きと戸惑いの合わさった声で、彼の付言を否定した。それから今一度クワンの顔を見ると、極微かに苦笑して、やがて観念したかのように口を開いた。
「…僕は全然そうじゃなかったんですが…、リンダは、今日聞いてるみたいな、古い音楽がとても好きだったんですよ。それで、彼女のことを、少し思い出してしまって…」
 クワンは言われて機嫌を収め、ニンブスの人事データで見たことのある、リンダ・ウェルスの画像を思い出していた。地味で、飾り気に乏しく、いかにもきれいなもの、大人しいものを好みそうな女性だった。
「彼女は何でも古典的なものが好きでした。教養といわれる部類のものが好きでした。そういうものは、『間違えが無い』んですよ。
 彼女は…、間違えるのが嫌いだったんです。正しい答えが好きでした。そしてゲームの途中で最初に些細な間違いをしていたことに気付いた場合、放棄して最初からやり直すような厳密な人でした」
「…それで…」
 あれほどまでに自然出産にこだわっていたのか。
先を読んだかのようにトードーは笑った。困ったような笑みだった。
「…でも本当は、彼女も…、色々迷っていたんです。きっと不安だったんです。そういう道を選んで順調に安心を獲得しながら…」
 クワンの頭に、今思い出してはならないような人の姿が思い浮かびそうになった。本当に人間は――――、ありとあらゆる機会を利用して、自分に都合のいい想像を膨らまそうとする。
「特にカテドラルに入ってからは…、彼女は変わりました。スコラにいた頃と全然違いました。僕に会っても義務の話をしないんです。それどころか、何か思いつめたような表情で、会話も上の空でした。 …変な話ですが」
 ふいに頭を伏せ、トードーは自分の髪の毛を後ろへ撫でた。
「僕はそうなってから初めて彼女のことが心配になりました。それまでとんと知らない振りをしていたのは、彼女がそんな僕の態度に気付こうものなら、何を要求してくるか分からなかったからです」
「子作りですね」
 彼が顔を下にした理由が分かる。クワンだって言ったくせにその後で照れた。
「そう…、子作りです。全くね。
 でもね、クワンさん。…感覚ってものはアテにならないですね。僕は義務を果たせとうるさく言われていた頃には嫌だったんです。でも彼女が悩んで、取り乱して僕の前に現われてきた時は……」
 彼的にはもう一つの山だったのだろう。言葉が途中で途切れてしまった。そして指がまた髪の毛をかき回す。クワンはその照れが内包するものに気付いてびっくりした。
「…え? じゃあ、トードーさんはリンダさんと?」
「………」
 明るい光が床に跳ね返る固いロビーの空気の中、トードーは長い間返事をしなかった。それが肯定にあたるのだろうと捉えてかなり驚き、色々思いを巡らしていたクワンは、もう最後の方になって注釈をつけられた。
「その予定だったんです」
「…え?」
眉根を寄せる。
「ある晩…。あれは…、12月の終わりでした…。ニンブスが何も知らないでいた最後の月でした…。
 突然リンダがやってきたんです。僕の部屋に直接。
 そういうことは今までありませんでした。彼女は言ってることも滅茶苦茶でした。崩れるように部屋に入ってきて、崩れっぱなしでした。
 そのせいだと思います。
四角四面だった時には通れなかった穴を、するりと通り抜けて彼女と…僕は、今までに無い誤りの少なさで向かい合ってしまいました。
 …あの時の感じは、今も忘れられません。僕は嫌じゃありませんでした。そんな風に、…一瞬だけでも、自分と彼女の間に何も無い、というほど『本当に』、他人と向かい合ったのはあれが初めてでした。
 だから、僕はいいと思ったんです。その時僕は自分は彼女自身に興味が無かったわけじゃなく、義務を果たすことに興味がなかったんだということが…、何となく、分かりましたよ…」
 話が止まって、困ったのはクワンだ。まだ説明されていない部分がある。我慢できなくなって口を開いた。
「でも、予定だったってのは? …結局、何もなかったんですか?」
「…ええ。申し訳ないですが、ありませんでした」
「な、なんでですかって聞いてもいいですか?」
 トードーは顔を上げた。いや、クワンに自分の顔を見せた、という方が正しい。いわく言い難い表情をしていた。
「その謎が、さっき突然解けたんです」
と彼は言う。
「どうして理由もなく突然昔の事が分かったりするんでしょうね。ヘンだ、人間の脳ってのは…」
「………」
トードーは独り、苦笑する頬を掌で押さえた。
「羽根です。背中に」
「え?」
釣り込まれるようにクワンは上体を寄せる。
「…リンダは浴室で服を脱ぎかけた時、多分…、自分の背中の異常に気付いたんです。ぞっとするような悲鳴を上げて出てきたかと思うと、呆気に取られる僕に何だかよく分からない事を言って、部屋から飛び出して行きました。そう思えば、合点が行きます」
「………」
 飲み込んだ息に蓋をするように、クワンは口に手をあてる。
「…彼女も…?」
「ええ。長い間、気付かなかったんですが…。それでもやっぱり彼女は正しい答えが好きだったから…」
彼は前を向いて、ガラスに映る自分たちの姿と共に何か遠いものを眺めていた。
 扉の向うから拍手がする。きっともうすぐ休憩があって、人がばらりと出てくるのだ。その最後の一瞬を見計らったかのように、トードーの言葉が静かに終わった。
「……きっとニンブスの中でも一番早く、…『羽化』してしまったのでしょう…」
 最後の音を踏むようにして、重い扉が開き、人が一人外へ出てきた。











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