リンダの部屋は、どことなく雑然としていた。多分、本当に徹夜だったのだろう。僕も寝ていなかったのでどうも力が出ず、部屋の椅子にエテルと腰を下ろしたまま、ぼんやりとしていた。 カテドラルの中は静かでよかった。また外では人々が騒ぎ出した頃かもしれない。たった二つの情報で簡単にニンブスはひっくり返った。 一つは無論、エテルの羽根の発生を窺わせる内部資料。もう一つは我々の健康状態の統計レポートだ。そこには我々が進化した人間などではなく、寧ろ母星の人間たちより一回り以上脆弱な存在なのであり、ニンブスの手厚い保護がなければ今すぐにでも滅んでしまうという事実が分かるような内容となっていた。 ヌクテはこれを公開して、ともかくも人々の『羽化』を止めたいと思ったのだろう。しかし自らの立場を知った人々の反応は一回転して、自分の落胆を大声で吐露すべく、路上へと展開したのだ。 「外の様子が見たい?」 リンダがふいに口を開き、僕の希望を先取りした。 「でも、あなたはそれよりもきっと、向うの様子が知りたいわよね」 彼女は立ち上がると、机の上の端末にかがみこみ、少しキーを叩いた。すると、扉の上に四台ほどあったモニターが切り替わり、二面に外の様子が、一面に統治者ルームの様子が映し出された。 「すごい!」 エテルの感嘆の声と一緒に、僕は目を丸くした。リンダの行動があまりに――――何と言うか、気が利きすぎていると思ったのだ。 「…ちょっと私、出てくるわね。ここにいてもらって、構わないから…」 僕の表情に疑問を読み取ったのだろう。彼女はそれに答えることなく部屋からすーっと出て行った。最後に、「もし音が聞きたかったら、端末上の音声をONにすれば聞けるから」と教えてくれることまでして。 …彼女の気持ちが分からなかった。リンダは、カテドラルとゲオルギウスに心酔しているのではなかったか。喩えこんな事態が発生しても、最後の最後まで意地でも上司の味方をするかと思っていたのだが…。 そう思いながらも僕はすぐ端末に飛んでいって統治者ルームの音声をONにした。諦めていただけに余計嬉しかった。 「あ、閣下の声だ」 エテルが明るい声で言った。 これが…、と僕は目を見開いた。彼らとは違って、直接ゲオルギウスの声を聞くのは初めてのことだったから。 モニター越しに見る彼は、そこらの青年と変わらぬ格好をしていた。けれども動きは悠然としていて威厳があり、他のどんな5470とも違っている。 これが自分の父の声か。 僕は一種不思議な気持ちを味わった。 「――――ヌクテ君、私は君の事を高く買っていたのだよ。君のように自立的に振る舞い、自分から延々と知識習得に励み、また行動する人間は滅多にいない。だからこそエテルのパートナーにも選んだ。カテドラルにも出入りを許した。 そんな期待をこんな形で汚されるとは、至極残念だ」 「………」 「今からでも遅くない。心を落ち着けて私と一緒に、ニンブスの治安を立て直す為に協力してくれないかね? そうすれば私も、かわいいエテルからパートナーを奪わないで済む。 既に知っているとは思うが、統治という要素で測れば人間には二種類しかいない。統治側と被統治側だ。 そして君は統治の側の人間、しかもリーダーになれる器だ。ニンブスの人間には、滅多にいない。 その意味でも君は得難い存在だ。協力してくれれば違反行為についても酌量しよう。5470の私と、人間の君が協力して収拾を図れば、ニンブスは必ず落ち着きを取り戻す」 画面の中でヌクテはゆっくりと身体を右へ傾けた。少し小さくてもわかる。板についた不遜な態度だった。 「お断りします」 隣のモニターには騒ぎ出した人々が固まりになって道路に溢れている様が流れていた。音は聞こえないから、彼らの怒りに歪んだ顔や震える体だけが見えた。 制止に入った5470を叩き壊している彼らの後ろに、火も見えた。女性型の服を剥いでいるものもいた。実際それは、世界の終わりの日のようだった。 「どうして自らを育んだニンブスを愛さないのかね? 孤立するのみならず、義務を果たさず、ニンブスにこのような情報を流して徒に混乱を引き起こすのは何故だね?」 「……ご存知のはずですが」 「何?」 「あなたは最初の理由をご存知です」 「何のことだ?」 「…じゃあ言いますが、お父さん。 …あなたが私を殺したからです」 「――――!」 その一言を境に、ゲオルギウスの平静が崩れた。それによって自分の状況判断に間違いがあることが分かったからだ。 「馬鹿な…。君が作ったユーザーにそこまでの権限はないはずだ…!」 「閣下、もし私が管理者用ユーザーを持っていれば、ダミーのユーザーを作成するのは容易いことです。そのIDはあなたに私の動きを追わせるために作りました。私の本当のユーザーIDのログは、あなたにも見ることは出来ませんよ」 「………」 さすがにゲオルギウスは、飲み込みが早かった。厳しい顔つきながら落ち着きを取り戻すと、今更罪には問わず、暗然と突っ立ったままのヌクテに言う。 「――――あれは君ではない」 「一卵性双生児は全く同じ遺伝子です。そのうちどちらが自分で、どちらが自分ではないなどと、言えません」 「しかし生まれてきたのは君だ」 「念のため教えてください。どうして私の片割れを消しましたか」 「全く同じ遺伝子は、二ついらない」 予想していた答えだったのだろう。ヌクテは首を曲げた。彼が冷笑する時の癖だった。 「―――――他方で私を殺しながら、他方で命は惑星よりも重く遺伝子は何よりも貴重だなどとよくもまあ…」 「…では君が消された方が良かったのかね?」 「違う。事実としてあなたは私を一度殺した。私にとって重要なのは、その記憶です。 自分を殺した親にも、子としての愛情を抱くべきだったかもしれません。 ―――――だが私には無理でしたよ。天使ではないから」 数秒の沈黙の後、ゲオルギウスがぽつりと言った。 「覚えている、わけがない」 「…では私は、その有り得ないものの一つです。エテル・ファーレと同じ様に」 「それが、君がこのような社会に対する犯罪を行った理由かね」 「…まさか、そんなわけないでしょう。これは単にあなたの『なぜ愛さないのか』という問いの答えであって、…個人的なことですよ。 二日前情報を流して人々に事実を知らせたのは、あなたがマシンとして狂っていて、これ以上あなたの指示に従うと連中が図に乗ってどこまで行くか分からないからです」 「………なに?」 その時のゲオルギウスの表情は、忘れられない。自分が「狂っている」と言われて、彼は全く無実な人のように本気でぽかんとしていた。 本当の狂人は自分が逸脱している事にも気付かない。どこかで読んだ一文が脳裏を掠めて行った。 「多分、エテルを見て、『天使』と誤って判断した時を境に、あなたはおかしくなったんですよ」 「ミスなどではない。あれは『天使』だ」 「そうです。あなたの現在のメソッドでは、背中に羽根のある人間を見ると『天使』と判断してしまうのです。 一種のバグで、修正ファイルと再調整が必要です。言ってることが分かりますか?」 「…バグだと? では、何もかも知っている口ぶりの君に尋ねるが、『天使』でなければ、あの子は一体何だというのだ?」 「――――ゴミです」 僕はその言葉にぎょっとして、咄嗟にエテルを窺ったが、彼女はぽかんとした顔のままモニターを見ていた。 話の内容云々よりも、自分の知っている二人が言い争っていることの方に驚いているようだ。 「僕の調べたところでは、あれは最終的な審査で選別される事を見越して面白半分に作られた遊びの受精卵です。多分、操作者は最低な馬鹿野郎で、コーカソイドの女の背中に鳥の羽をくっつけたら面白いとでも思ったんでしょう。 その男は(もう死んでますが)それ以前にも二度、不良受精卵を製作している。その時は他ならぬゲオルギウス、あなたがそれを選別し、処分したから問題にはならなかったんです。 ところがエテルの場合だけは、その形態から判断結果が『天使』と転び、その上『進化』と来た。 有効な反応ではなく、明らかにバグです。その報告をTTMにしなくてはならないし、あなたは母星に帰って再調整作業を受ける必要があります」 その時、ゲオルギウスの鼻から吐息と共に嘲笑が漏れた。 ―――――何を言っているんだ、この人間は。 その目つきがそう囁いていた。 同時にゲオルギウスの態度から礼儀正しさがするすると抜けて、まるで何日も前にテレビで見たスコラの偏狭な教授の姿にそっくりになった。 「では一体、今の事態をどうやって説明するのだね? 人々は『羽化』を始めた―――――。 これは確かに私の予想の範囲ではなかったが、進化については我々の知識は充分でない。進化の一形態でなければ、この状態は何と説明する?」 ヌクテも同じレベルに落ちて冷笑が蘇る。かつてスコラで見せていたような、鋭く黒い目だった。 「…ご満足でしょ? 飛べと言ったら空を飛んで、右と言ったら右を向いて、羽根といったら羽根を出すような、従順で愚かな子供たちで」 ばん! と大きな音がした。ゲオルギウスが人造の掌で机を叩いたのだ。端末の前にいた僕は思わず飛び上がり、膝の上に置いていた右手で引き出しの腹を叩いてしまった。 「君はどれほど私のシティを小馬鹿にすれば気が済むのかね?! これほど調整され、これほど選別された人間たちが、集団ヒステリーを起こしたなどと!」 「あなたがどう思おうが、事実はそうだし、我々はその程度の人間です! 今、モニターを見れば分かるでしょう! ガキみたいに無闇と従順なくせ、八つ当たりでもしなければ現実一つ真っ当に受け入れられない! 集団から脱落するのが怖くてホイホイと羽根を出したくせに、いざそれが手違いだったと分かるやその差異を自分で埋めることすら出来ず、カテドラルに責任転嫁して5470を打ち壊す。 …あなたのいう選別された人間たちの現実は、これですよ。自我の尊重と快楽という飴を使って、あなた達がそう育てたんです。操作しやすく、統治しやすく、死にやすい人間達を」 ―――――弾みで、引き出しが少し開いた。反射的に目を落とすと、何か白いものが視野に入った。 引っ張ってみると、引き出しはするすると拡がる。端から奥までびっしりと白い何かで埋まっていた。 「実際、どうするんです? あんな人間達を作って。 自意識過剰で孤独にも苦労も耐えられない。問題を解くこともしない。ただただ労働し、考える事もなく享楽し、自分の精神すら自前で管理しないまま、エスカレータのような約束事の中で死んでいくだけ。 身体的にも数種の食物アレルギーを抱え、免疫不全で、心肺が弱く、外の風に当たったらころりと打ち倒されてしまうためにニンブスから出ることもならない、不自然な程『誰かに都合のいい』人間のようなもの――――――」 ――――――リンダ? 「…あなたも、私も、本当は別の大きな力によって動かされているんです。我々は誰かの欲望に従事する為に作られ、あなた達5470はそんな我々に従事する為に作られたんだ。 でもね、知ったら怒るのは当然でしょ。勿論外にいる連中はやり過ぎてるし幼児退行してやがる。羽根まで出したのは奴らの自己陶酔です。 しかし、そんな立場に立たされたら怒るのは当然ですよ、人間なら! その上動揺しやすい連中を天使にまでして、ふわふわした夢の中でいい気分で死なそうと言うんですか。そんな出来すぎたステージを、どうして作ってやらなきゃいけないんです? 彼らが良心の呵責を感じない為に―――――」 顔を上げた瞬間だった。左壁面に大きな窓がある。その切り取られた四角い青空の中を人間の身体が一つ、上から下へと落下していった。 掌から引き出しが落ち、角からけたたましく床へ着くと同時に、真っ白い羽根を一方へ撒き散らした。 呆然と自分がしでかした事を眺めながら、…気付いた事がある。 「…こんな社会を維持して、あなたは一体どこへ向かうつもりなんです?」 この羽根は重たい。 この羽根では飛べない。 ―――――落ちる事しか出来ない…。 |
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