58.最後の回想









 ――――一体、どうするつもりなんだろう。
目の前の床には、食べ物のかすやら包み紙やらが散らばっている。その真ん中に座り込み、また一つ新しい包みに手を伸ばして黙々と食い散らかしているエテルの背中を見ながら、そう思う。
 僕は既に、非常毛布から出るのも億劫だ。何も入っていない体というのは寒い。だが手足がぶるぶると痙攣するのは、寒さの為ではなかった。
 僕の心の中に、暗い炎が一つ燃え盛っている。そんなものを中へ抱いたのは、今が初めてだ。 憎悪だった。
漁っても漁っても漁っても漁っても底の見えない。
 止めようと思うたびに一層深く引きずり込まれ、僕はエテルを激しい憎悪のこもった眼差しで眺めていた。
 一体、どうするつもりなんだ。
こんな時に腹いっぱい食って。
後も先も考えずに。
 ―――――こいつは馬鹿だ。
何も分かっていないんだ。
 通電していない扉をやっとのことでこじ開けてルームからは出られたものの、エレベーターが止まっているのだから結局入れる場所はフロアと、リンダの部屋しかない。密室が少し広がっただけのことだった。
 食糧は、見つかっただけしかない。
それで二人の人間がなるだけ長く生き延びねばならない。
なのにエテルは腹が減れば食べた。
満足するまで意地汚く食べ続けた。
 食糧を取り上げようとすると、本気で殴ってきた。皮膚に爪を立てられ、金切り声を上げられた瞬間、馬鹿らしくなって僕は非常食の包みを離した。
 好きにするがいい。食べたいだけ食べるがいい。
この馬鹿が。状況が見えないのか。
分からないのか。
 いいか、ここには限られた資源しかないんだよ。
お前が気ままに食っているということは誰かが我慢してるんだよ。そんな単純なことも見えないのか?
 お前が欲望を自制しないで今ある食糧を食いつくせば、死ぬんだよ、俺もお前も。
 そんな話したら暴れまわって死ぬのは嫌だとか泣くくせに、分からないのか?! 分からないのか?!
 これを分からないならお前は馬鹿だ。その言葉のために生まれてきたような大馬鹿だ!
 憎悪は憎悪を呼び、心の悪態はどんどん飛び火していった。僕は僕らしくなかった。いや、初めて自分の本性に突き当たるほど怒っていたのかもしれない。今思い出してもあの時の自分には、二度と会えないような気がしている。
 喉元までエテルの生々しい愚昧さに対する蔑みと憎しみとで一杯になっていた。自分も聖人ではなかったということだ。エテルの何も分からない加減が自分を害し始めた今、以前のようにその野生味を愛して髪を撫でるような心の余裕は無くなっていた。
 暗くなると同時に、毛布の中で眠るエテルは際限の無いだらしなさだった。口の周りは汚れたまま、髪の毛もぼさぼさだ。暗闇の中で、僕の眼が光っているのが自分でも分かった。
 早晩、このままでは全てが駄目になる。
エテルは底がつくまで食べ、そして飲むだろう。
彼女には、幾度説明しても分からないのだ。
 いや、正確に言えば分かろうとしないのだ。
分かってしまったが最後、我慢しなければならないから。
 その知恵が見え隠れするから腹が立つのだ。無垢な振りをしてだらだらと笑いながら、自分の利益だけは絶対に譲ろうとしないその狡猾さ。
 憎悪が、暗い世界の中で音も無く青い炎で燃えていた。自分の皮膚から光がこぼれるようだった。
 こいつが僕の犠牲をまるで考えず、我儘に振舞うというのなら、僕が同じようにすることは礼儀にかなったことだ。自分の命を守る為に、暴力を振るっても、相手が相手なのだ。許されることじゃないか。
 僕は壁に手をついてやっとのことで立ち上がった。膝から毛布がするりと落ちた。部屋のど真ん中でぐうぐう寝ている少女の体にこっそり、こっそりと近寄る。
 この節度を知らない厚顔な女は、じりじりと僕を殺している。食糧を、今も毛布の下に、独り占めにすることによって。
 恨みは無い。だが、
自分を守る為だ。
 エテルの体を跨ぎ、下に見える首に手を伸ばした。目覚めるかと思ったが目覚めなかった。きゅっと皮膚を挟み込んだ。首というものの形が分かった。
 両掌に彼女の脈の音がばん、ばんと伝わってきた。この音が自分を殺しているというのでなければ、普通人間は他人を殺そうなどと決して考えはしないのに。
 力を込めた。涙が出そうになった。
そして一気に終わらせようと息を呑んだ瞬間、エテルの瞼がぱちりと開き、青い目が僕を見た。
 心をいっぱいにしていた憎悪が瞬間、情に翻った。水の中に飛び込むみたいに彼女の上に倒れこむ。鼻が悲鳴をあげたいくらいに痛み、目から涙がぼろぼろこぼれた。
 駄目だ。
僕は崖の近くまで歩いていってその下の奈落を覗いた。そして分かったことはこの女を殺したら同時に僕も破滅だということだ。
 一体僕にどうしろというんだ。
世界は閉じられている。
食糧は限られている。
その上相手に愛情を抱いている。
どうしろというんだ。
 エテルは葛藤などしなかった。涙に濡れた頬を見たその顔に淫蕩な笑みが浮かんだ。下瞼が盛り上がって細い線で僕を招く。
 こいつは馬鹿だ。
欲のままに僕から体力を奪い取っていくエテルを見ながら、僕の中でまた憎悪が吹き返してきた。ところが少女と体を寄せ合うことから生まれる快感が同時にそれと競って、僕は振り回された。
 ああこいつは馬鹿だ。馬鹿だ。僕はこいつが嫌いだ。不愉快だ。だけども世界からこの子がいなくなったら世界もお終いになる。
 明らかに絶望な未来を見ながら、このままやっていくしかないんだ。何とかするしかないんだ。
他に選択肢は無いんだ。










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