62.プラスティック







「あなたにはいい応援が付いてるみたいだね」
 イム・セーディはそう言ってページを開いた雑誌を彼に向けて滑らせた。トードーの黒い瞳が少しだけ動いて、義理のようにその上に落ちた。
「これはいい手だよ、あたしもそれで行くつもり。ここには嫌味な書かれ方してるけど、トリストはいい歌手だよ。彼に味方してもらえるなんて、あなたは運がいいね」
「……はい」
文章を読んでいるからなのか、別に理由があるのか、彼の返事は手ごたえの無いものだった。
 相変わらず、プラスティックみたいね――――――。
セーディはその華奢な肩をこっそり動かし、やっとのことで嘆息をこらえた。彼女は小柄で感情の起伏が激しく、いつでも大声が出るといったタイプの女性なので、こういうリアクションの乏しい人間を相手にするのは結構な苦痛だ。
 鬱は苦手ではない、トードーは鬱ですらない。人の存在が音波だとすれば彼にはまるで凹凸が無いのだ。その静けさは雪の日の朝のようで、一番端の裁判官が毎回出廷の時、本気で心配そうに彼を眺めるほどだった。
 セーディの方はやりにくくて仕方が無い。商売とは言えプラスティック相手では虚しすぎる。腹の中でニカンダに要求する報酬を倍加させながら、力を振り絞って口を開いた。
「審判もあと多分3回くらいだと思うけど、これが終わったらどうするの?」
 大学生みたいに落ちた髪の毛の間で、彼の目が少し動いた。しかし視線は変わらず持ち上がらない。声ものろいままだった。
「…さあ……」
「そろそろ考えておいた方がいいよ。裁判のことばかり考えてるんじゃ気が滅入っちゃうもんね」
「………」
 まずい――――――。セーディは本気でそう思った。この無気力な感じは、陪審員によっては反抗的と取られる。彼らが最も不愉快だと感じるのは、こんな裁判に興味など無い、という態度を被告に示される時なのだ。
 もっと悪いのは、こんな冷静な態度のまま死体を食べたのではないかと受け取られることだ。その瞬間に何ら感情が動かなかったのではないかと思われることだ。そうなったら心証は最悪だし、悪くすると精神治療命令が出かねない。一旦その登録がされてしまうと、彼は裁判後も何かと監視され、拘束される可能性がある。
 このプラスティックは絶望している。そのことは彼女にも分かった。彼の眼差しは深いけれどもからからに乾いていて、いつかニュースで見たガワティ区の少年のそれにそっくりだった。
 どうすりゃいいのよ、サモちゃん。
こんなの私の手に余るわ…。
 密かに弱音を吐露した時、
エテルは…。
ふいに声が聞こえて、セーディは我に返った。しかし声だけは大人しく、
「なあに?」
と抑える。
「エテルは…、元気でしょうか」
「ああうん、全然元気だって。厚生局が出し渋ってるけど、まあ今月末には自由になれるんじゃないかな。あなたも裁判が終わったら自由だから、一緒に暮らすのもいいね」
 その時、トードーの顔に微かな変化が起きた。頬にさっと血が上ったのだが、眉は僅かに怯えを刻んで、少し苦しそうな表情になったのだ。
 セーディはものも考えずにそれを見た。亀裂が開いたのが分かった。
「そうしたいんじゃないの?」
「……いや、でも……」
 トードーの目が右往左往する。感情を隠せるような言葉を探しているらしい。だが結局釣り上がってこなかったらしく、しどろもどろになった。
「…彼女は…、多分もう…」
「うん」
彼女は優しく受ける。
「僕のことなんか、忘れてるでしょう…」
「………」
トードーの恥じらいが音もなく深くなった。
「…もう長い間会っていないし…。その間に他の人に優しくされれば、彼女は多分全然…」
寂しい笑みが唇に兆す。
「彼女には僕なんか必要ない……」
「―――――いいえ?」
 相談室の中に、やっとセーディの力強い声が響いた。その特性に初めて気付いたかのように、トードーが顔を上げ、彼女を見る。セーディはとぼけた振りで、どうしてそんなことを彼が言うのか分からない、という衣を咄嗟に被った。
「カノジョ、最近じゃずっとあなたに会わせてって言っているらしいよ。気まぐれとは違うし説得が通用しないから、厚生局も手を焼いてるみたい」
「……え?」
 意外なのは本当だろう。エテルから愛情を注がれているとはほとんど予想していなかったのだろう。そしてその予想が外れる事も期待していて、きっとそのことが自分で恥ずかしかったのだ。
「どうしてかと尋ねるとね」
 セーディは何も知らない振りをして、「当事者」会のプロデューサから聞いた話を本能的にそのまま彼に伝えた。
「自分のことを許してくれるのはカナンだけだからと言うみたいよ」
 ―――――三十秒。
いや、もっと短かったかもしれない。
沈黙が流れた。
そして突然それはこぼれる涙の玉に切り下げられた。
 トードー・カナンは同じ有様で座っていた。顔も体も動かしていない。だのにその両目からただつーっと一筋が下り、後は止まらなくなった。
 セーディとカナンはまだ見詰め合っていた。彼女は胸の中で心臓が押さえられるのを感じながら、自分の言った「プラスティック」が無音の中で飴のようにゆっくりと溶けて、垂れ下がっていくのを眺めていた。
 とうとう彼は下を向き、両目に掌を宛がった。
「ごめんなさい」
と言う。
「どうして謝るの?」
「…もなんです…」
「なあに?」
 ポケットからハンカチを取り出して、彼の前に出しながら聞いた。彼はそれを受け取ると、一気に赤くなった目の縁に礼を言って押し当てる。それから、少し自分が落ち着くのを待ってから、小さな声で残りを話した。
「…僕のことを許してくれるのもきっと…彼女しかいないんです…」
「え?」
「彼女は僕と同じものを食べただ一人の仲間です。…だから、羽根があろうがなかろうが、
本当にごめんなさい」
あれは僕を許してくれるただ一人の天使なんです。








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