66.その場所まで |
独特の冷えた空間の中で再会を果たす。 さすがに少し、ばつが悪かった。けれどもトードーの顔が驚いて、それが今度は笑顔と一緒にじりじりと赤くなっていく。 ああ自分にも、他人を喜ばせたりする力があるんだな。 と、自我と遠いところでクワンは思った。 「あなたが許して下さるとは思っていませんでした」 呟く彼に無言で手を差し出す。合わせられたその手を握りつぶすほど固く握手すると、 「―――――遅れて申し訳ありませんでした」 やっと言うことが出来た。一月の間ずっと言いたいと思っていた言葉を。 「無罪判決おめでとうございます…」 飽きもせず無為な報道熱で沸き返る正面玄関に引き替え、この地下の駐車場は驚くほど静かだった。少し空気が煙たいが全く無人で、イム弁護士が得意げに言ったとおり確かにいい穴場だ。 その彼女はクワンの祝辞に 「トーゼントーゼン」 と手を振ったきりで謙遜の素振りもなかった。大人しく彼女の側に立つトードーに、 「もうちょっとで車が来るよ。あなたのお家まで『当事者』会のプロデューサが連れてってくれる約束になってるの。どこだかはっきり私も知らされてないけど、ご希望通り田舎だって」 「あなたも知らないんですか?」 とクワンが尋ねると、彼の肩くらいの身長しかないイム・セーディはぽうんと顎を跳ね上げて 「アッタリマエデショー!」 と高い声を駐車場にキンキンさせた。 「こういう時は、ドライバーと本人以外知らないようにするんだよ。ジョーシキだよ」 「すいません」 「ありがとうございます、イムさん。今後の連絡はどうしたら…」 「彼が携帯端末持ってくるはずだから、それで携帯間メールが基本だね。しばらくはネット使っちゃだめだよー」 「はい…」 トードーが頷いたその時、上の方からタイヤのゴムが捻じれる音が聞こえてきた。「来た来た」とセーディが言い、クワンの心拍と恐らくトードーの心拍とが同時に大きく撥ねる。 幾度かタイヤの音がして、低いエンジン音が届いたなと思う矢先、視界に白いワゴン車体が現われた。公園で爆発したものに似ていて、一瞬クワンの血の気が引くが、後部座席には黒い遮光シートが貼ってあって同じではない。 エンジンが止まると、運転席のドアが開いて、ラフな格好をした知らない男性が一人降りてくる。イムがすぐと彼を紹介した。 「プロデューサのダンだよ。ダン、あれはサモちゃんの部下ね」 「ああ、よろしく」 「どうも」 「じゃあ、カナン。早速行こうか。こんなとこに長居は無用だ」 と、彼はワゴンの後部ドアをスライディングさせた。 「指紋認…」 微かに怯えた声がトードーの唇から漏れる。が、次の瞬間、体から魂が抜けたかのように、彼はその場に棒立ちになった。 開いたドアの中に、横向きになった座席が見える。二人掛けのそのシートの真ん中にちょんと、女の子が座っていた。 白いシャツに、枯れ草色のカーディガンを羽織っている少女は、顔をこちらに向けたまま鏡の向こう側のように思い切りぽかんとしていた。 しかし突然顔が潰れたかと思うと、動物の悲鳴のような叫び声で辺りの空気を爆発さす。 「カナン!!」 イムの声など比較にならないエネルギーだった。 トードーも駆け寄り、少女も降りてきて、二人は丁度扉のところで思い切りぶつかり合う。それは恋人云々というより、生き別れになった磁石と磁石の再会という感じがした。 「カナン! カナン! 会いたかったよ!!」 トードーの方は、声もない。細い腕を少女の体に食い込ますほど強く抱きしめていることが、彼の叫びの全てだった。 「言っておくけど羽根はないよ」 思わず遊んでしまうクワンの視線に、イムが釘を刺す。 「あると気にして掻き毟るから、向うで一々切ってたの」 「あ、やっぱりそうなんですか。切るって、何で?」 「大き目の爪きりだって」 「…あらあ」 抱擁を一旦解いて、振り向いた時、クワンはトードーの表情がまるで違っているのに驚いた。目に潤いが溜まって、頬は上気し、―――――きらきらしている。 きらきらして生きている。 それが分かった途端、自分まで殴られたみたいに鼻の奥が痛くなって、歯を食いしばる必要があった。 「ありがとうございます、クワンさん。本当にお世話になりました。あなたに連絡を取りたい時は、どうしたらいいんでしょうか」 「手紙が、…早いかもしれませんよ。差出人住所なくても、届きますしね…」 緩みそうになるものを必死で押し止めながらやっとのことで返事をしたが、察しのよいイムが隣で笑う。 「分かりました。田舎から手紙を出しますね。ありがとうございました。本当にありがとうございました」 何度も何度も礼を言って、やっとワゴンの扉は閉まった。プロデューサも乗り込んでエンジンを掛けると、挨拶代わりに何度かライトを点滅させ、軽快に駐車場から滑り出して行った。 早いほうがいいと、頭では分かっていても、感情がなかなか追いつかない…。その差を持て余して、長い間クワンは、車の消えていった方角を無言のまま眺めていた。 辺りは再び静かになった。いや、人数が減った分だけ余計に静寂が増したように思われた。 喉が熱いことを忘れてしまえば、全く何事もなかったかのようだ。置いてきぼりを食った空気の中で、クワンの鼻筋が白く光る。戻りましょうか、とイムが言って、非常扉を開けた。 彼らは何となく言うことのないまま、駐車場から人を遠ざけている長い階段を、弱い光を浴びながら一段ずつ昇っていった。渦をまく四つの足音に軽いめまいを覚えながら、クワンは壁に手をつき、これで終わるものと、終わらないもののことを考えた。 「トードーは…」 「うん」 「この先大丈夫でしょうかね」 「大丈夫だよォ」 何だか語感が軽いのが気に入らず、暗いことを言おうとしたクワンだったが、イムの続く言葉に口を閉じてしまった。 「もう独りじゃないもの」 「………そぉか」 踊り場を曲がる時に、こっそり彼女の小さな体を盗み見た。それからまた並んで律儀に階段を昇りながら、 「…なんかですね、この件に関わっている間に」 「うん」 「世界の底が見えなくなっちゃって」 「は?」 「こんな感じかな、と見透かしてた人生が突然引き伸ばされて、結構近場にあったゴールが急に遠くなったような感じがするんですよ。なんか、悪い罠にはまったような気もするな」 あはは、とイムは笑う。声は高いけれども、その色はどうしても掠れる大人の微笑だった。 「いいじゃない。色々あった方が楽しいよ?」 「でもサモちゃんの年齢まで苦労続きかと思うとちょっと…」 「何で? 真剣にやって苦労半分なら、喜び半分だよ。この事件もそうだったでしょ?」 「………」 「世界に絶望すんのは、世界について知らない人間だけだよ。クワちゃんにはそんな必要ないでしょ。ね」 地上に通じる扉が開かれる。廊下を少し行くと、多くの人が知っている玄関前の広間に出た。一旦立ち止まったイムは、腕を持ち上げて時刻を確認する。 「あ、もう5時になる。クワちゃん、お茶でも飲んで帰ろうよ。もうここに用はないし」 「はぁ…」 言われたクワンは玄関先に顔を向け、そしてすぐにうっとなった。ガラス越しに彼ら二人を見つけたのだろう。ロープの中でひしめき合う報道陣たちのうち、気の早いのがばしゃばしゃフラッシュを焚き始めている。 「……あの中を、通って出るんですか?」 「だって他に出口ないよ?」 「あいつら、一時も休まないんだなあ…」 「ホント。人生と一緒だねえ」 人生と一緒にされては諦めるより仕方がない。しぶしぶ歩きながら、クワンは下を向いたまま言った。 「…でも、よかったですよね」 「ん?」 「陪審員たちが、無罪って言ってくれて」 「ああそうね」 「なんとかコレでがんばれそうですよ。もう一年や、二年くらい」 「一年か二年かよ。クワちゃん、根性ねえなあ!」 「すいませんねえ。80年代生まれでカウンセラーもぐれの上、末っ子の長男なもん、でっ!」 弾みをつけて玄関の重い扉を開き、土砂降りに飛び込むような気持ちで走り出した。 その後の五分間は確かに災難と呼ぶ以外の何ものでもなかったが、途中から苦しい息で笑い出したイムにつられ、彼も何やらぜいぜい言いながら、面白くって笑ってしまう。 もうたった独りの校庭に戻っていくことはない。 世界の前で絶望することもない。 そう心の中で反芻した時、自分自身や生きるということは問答無用にあたたかで爆発的に愛おしく、それでクワンは体勢を崩しそうになったイムの手を握って思い切り引っ張り上げると、血潮の命じるまま、子供みたいに叫んだのだ。 一気に走りますよ、一気に――――― 僕らの心臓が動きを止めるその場所まで!! |
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