あたし? あたしはええ、こんな身の丈ですがね、別に怪しいもんじゃござんせん。劇場の天井裏に生まれついた、至ってまともで正直なバケモンの一人でございますよ。
 かっ! なんざんすか、その顔は! 知らざぁ言って聞かしますが、いるんですよ。ホラ、有名なのがあるでしょ。パリーのオペラ座。あそこにとりついてるバケモンと同じ部類ですよ。
 劇場なんてところはねえ、どこも薄暗くって寒くって汚くって、昼から締め切ってウソ物のドラマをやるんだ。まっとうな場所じゃありませんや。シェイクスピアなんか掛けた日にゃ、毎日毎日人死にが一月近くもあるんですぜ。とても妙なもんを呼ばないでは済まねえ。
 あたしもそういうろくでもないのの一人ですがね、何、全く善良な方です。つまんねえ芸人が来たって、大根が「to be or not to be」とやったって、顎の骨カタカタ鳴らすくらいで、小屋(劇場)を燃したりしませんからね。あたしはお芝居や踊りが好きなもんで、いつだって猫走りに大人しく腰掛けて行儀よく見守ってやってんですよ。
 あの子を最初に見たのも猫走りからでした。その頃はまだほーんのガキでね。チラシにゃ12歳とか書いてあったがホントはもっとガキだったんじゃないかな。一見躾は出来てそうでしたがね、ちょいと母親が目を離したが最後、ばたばたそこら中を走り回って、近所の悪童と見分けがつきやせんでしたね。
 このガキにはもう一人ガキの片割れがいてね、これがえらく澄ましたシャンで、こっちが姉貴でした。まだ背も伸びきっていないくせにえらい大人ぶって、鏡の前で香水吹きかけてるのを見たときにゃあ、あたしゃ正直言ってどうなることかと思いましたね。
 ところがこれが舞台へ出ると違いました。勿論前座の一組でしたがね、とにかく二人して見せることが巧いんですよ。まだガキなんで、他愛のない話やってるだけなんですよ? いつも一緒に遊んでる近所のマイクとキャシー、今日はおままごとしながら将来結婚の約束を…。みたいなアホな筋を、歌と踊りでやるんです。
 しかしね、そういったもんを見飽きてるはずの客たちが、そのガキどもの時だけ妙に拍手をするんです。あたしも連中の時は、くだらねえなあと思いながら最初から最後まで結局見てるんです。あれー? これはヘンだなたあ思いましたねえ。
 何が決定的によかったんだかよく分からねえまま、じりじりとやつらの人気は上がっていきました。勿論まだまだドサ周りでしたから、いつもあたしの劇場にいるわけじゃありませんでしたけどね。それでもどっかから帰ってくるたんびに、ちょっとずつ変わった演し物を用意してやがってね。
 ああこいつらには才能があるんだ。と気がついた時にゃあもう遅かった。ヴィクターとアリス姉弟はトリの一歩手前まで来てました。
 しかもその頃にはあのこまっしゃくれて扱い辛そうなガキだった姉貴の方が、驚くほどゴーカな女に成長して、毎晩贈り物で楽屋を満杯にするようになって…。
 こうなるともう何で人気があるのかとは考えませんやね。人気が勝手に人気を呼んで、もうほっといても行くところまで行くもんで。
 初めてトリでショーをやった時は、もう二人とも大人でした。弟の方も前みたいに半ズボンはいたりしないで、黒の燕尾で紳士然でね。姉貴は勿論ステージドレス。でっかい悪趣味なリボンが手の込んだ高価なコサージュにとって代わり、弟の腕の中で踊るその艶やかさと来たらとてもとても…。今思い出してもため息がでまさぁ。
 ええ、あたしですらそうだったんですからね。世のサル顔した紳士方がほっとくわけはありませんな。新聞の芸能欄は軒並み彼女をべた褒め。アリスは劇場街に通う男どもの追っかけの的になりましたよ。
 またアリスって女は実にその手の扱いが上手でした。楽屋口に随時五六人が出待ちしてましたが、必ず全員と遊びに行ってるのに、誰かと間違いを起こすようなことはあたしの知る限りじゃなかったようで。
 結局ね、彼女が従えてたのは育ちのいいお歴々だったんですな。その頃は当世とは違ってえらくプロテスタントな躾の厳しい時分でしてね、紳士ならば淑女の座った椅子の背もたれにみだりに触れることすらかないませなんだ。白いカラーにぴかぴかの靴、トップハットの時代ですからな。
 勿論これは真ん中以下には当てはまりません。劇場のあたりは至って乱れたもんでしたよ。だからアリスが巧いのは無論のこと、加えて坊ちゃんばかりを選りすぐってたってことですよ。
 そうやってアリスが大盛況のレヴューの後から世が明け染めるまでの楽しい時間をスター気取りで過ごすようになってきた頃、あたしはもひとつ面白い事に気がつきました。弟のヴィクターです。
 今や彼も立派な大人。流行に則って瞼にシャドウを乗せたれば、それなりに写真も売れる年頃の男になってました。ただ何と言うか、彼はもともと体の小さい方で、身長もそんなに高くありませんでね…。
 や、ここはひとつ公正に行きやしょう。彼は結構なちびちゃんでした。その上、子供の頃からダンスなんてしてたせいか、バレエのダンサーみたいにがりがりの痩せっぽちでね。見目形はまあまあそれなりでしたが、色気とか水気みたいなものは全くナシで。
 一言で言うなら地味。きらきらの姉貴の後ろに隠れて新聞じゃ「ヴィクターも悪くなかった」なんて書かれる始末でした。ポーズをつけたゴージャスな姉貴と一緒に縮こまって写真に収まってるところなんか、ちょいと涙を誘いましたね。
 そんな風にいつまで経っても地味ーな感じが抜けない弟でしたが、あたしは彼に一種の気骨と言うか、叩いても簡単には折れないような手堅い部分があることにふっと気がついたんで。
 ヴィクターはショーが終わって、観客席が無人になると、ほとんど毎日もう一度ステージに戻ってくるんです。そしてその日の舞台で自分が間違えたところ、あやふやなところを必ず復習して、納得するまで帰らんのですよ。あたしはそんな奴見たことなかったですね。
 事情を知ってるスタッフ達は、あたしなんかよりもずっとずっと前から彼のただならぬところを認めてました。思えば姉貴を押し上げたショーの振り付けだって、実は全部弟がやってんですよ。
 あのクソ面白くもないはずの前座レヴューに手を加えて、ちょこちょこ面白くしていたのも彼だったのかもしれない。…ヴィクター・アリス姉弟は、実は完璧主義者の弟が支えていたんです。
 しかし、普通に仕事を終えた後、夜中にまたリハーサルをやるなんて、この浪費時代の普通の人間にゃ耐えられませんや。ことにドアの外にきらきらの男どもが待っているとくれば尚更で。
 ショーで振りを間違えたり台詞を忘れたりするのも専らアリスの方でしたが、彼女はよく石頭の弟を出し抜いてさーっと遊びに行っちまいましたね。そういう時はヴィクター氏、不興げにステージのど真ん中で腕組して仁王立ちしてましたっけ。その周りを気を遣うスタッフがうろうろ。
 彼としても、彼らを家に帰してやんなきゃなんねえですからね。結局十五分後くらいに諦めて、モブの女の子の中から代わりを選んで練習して、そんで引き上げるんです。練習相手には勘のいい、キムって娘がよくなってましたよ。
 そのヴィクター氏は、遊んでなかったのか? …遊んではいましたがね、至って大人しい遊び方でしたね。彼はまだまだスター扱いされてなかったし、ま、ごく簡単に言っちまえば、姉貴がああやって金を使っていれば弟の方は我慢せざるを得ねえですわな。
 てなわけで、ヴィクター氏はずーっと姉貴の日陰にいましたよ。一、二年のうちに二人が本物のブロードウェイのスターになって、イギリス公演までしたってそれは一緒でした。とにかく姉貴の人気はすごくてね、イギリスじゃ有名な文学の先生やら貴族様やら、彼女の楽屋に連日押しかけ大騒動だったらしいです。
 そんな選りすぐりの信奉者たちの中から、とうとうアリスは見つけましたよ。これ以上ないってくらいの上玉の輿を。
 勿論貴族様でした。どうも人間の振り回す称号ってのには慣れないんで忘れちまいましたが、イングランドに結構な土地を持った財産家のぼんぼんってのは間違いありません。
 その辺りになるとあたしにもぴんときました。
アリスは…、そのためにショーに出てたんですよ。そのために体を磨き、笑顔を作り、ステップを踏んでたってえわけですよ。
 成る程いい手じゃありませんか! 子供の頃には、移民の住む路地で野心に燃えるおかんの作ったドイツ風スープを飲んでたガキが、どうです! 今度は男爵夫人様になって、ロンドンで紅茶を飲んで暮らすんですよ。
まさに女版のアメリカン・ドリーム!
 や、こういうことを考える方がまともですよ。結婚、家庭、子供。正道なことです! そこにちょっとばかし自分かわいさが混じってたって許してやんなきゃいけません。
 ただね、少し可哀相だったのは彼女に本気で入れあげてた男どもと、弟です。ま、男どもはね。いい勉強になったくらいで済むかもしれませんが、弟はいかがなものやら。
 あたしは未だに、うちの楽屋で姉貴が弟に言った時のこと、覚えてますよ。
「あたし引退して結婚することに決めたわ。このショーが終わったらそこでもうお終いにするから。新聞社には、明日知らせる予定よ」
「………」
 弟が聞きたかったことは、新聞屋が代わりに聞いてくれました。
「アリスさん、舞台に未練はありませんか? 人気絶頂の今、結婚しようと思われたのはどうしてです?」
「だって、女はいつか結婚しなくちゃならないものでしょう?」
 これは、答えてないのと同じですな。アリスが言ったんじゃなくて、一般常識が喋ってんです。
「ロンドンで舞台に立たれる予定は?」
こいつは愚問で。
「ありません」
ねえ。
「弟さんはどうなさるんですか?」
「それは彼が決めることです。彼は心から祝福してくれています」
 ご参考までに申し上げておきますがね、この後ヴィクターの取りえる選択肢は三つくらいのもんでした。一つは一人で舞台を続ける。二つ目は別の女性パートナーを探して舞台を続ける。三つ目は引退なり転向なり、別の方向へ進む。
 さー、どれを採るにしても明日から、って訳には参りません。体勢を立て直すに時間が要りますわな。彼は芸人として名前は知れていましたが、その評価は地味で中途半端なもんでしたし。たった一人で舞台に立って、果たして売れるもんでしょうか。
 かといって貴族から新聞まで一通り魅了した姉貴に匹敵するような女が、ほいほいいるもんでしょうかねえ。姉貴よりもくすんだ女を腕に、同じレヴューはとてもとても! …出来ませんぜ。この手のパートナー変更をきっかけに落ちぶれる連中もたんといました。
 大体、引退だなんて一大事を前触れもなくぺろっと、しかもシーズンの終わり頃に言われたら誰だって狼狽しますや。次からはあんた一人でやるのよって言われてもねえ。
 だから弟はちっと気の毒でしたよ。また生来に格好つけなところがあるもんで、記者の前じゃつまんねえ程冷静に受け答えてましたがね。
 今日は昨日より、明日は今日より完璧なものを目指そう。なあんて職人みたいな心がけで苦労役に甘んじ、一生懸命積み重ねてきたその舞台から、鳥が逃げちまった。
 そ、簡単に言うと逃げられたってわけですよ。
姉貴にね。
しかもかくも見事な言い訳まで用意されて!
「女はいつか結婚するものだ。」
 参りましたね。あたしもコレにはちっとげんなりしました。せめて相手を骨の髄まで愛しちまったからだとか言えよって感じじゃあありませんか。
収穫物を持ち逃げするんなら!
 ともあれ、あー、今更ここで噛み付いたってしょうがない。あっという間に期日が来て、シーズンは熱狂の終焉を見ました。客たちはもう、客席で涙涙ですよ。やめないでくれ、戻ってきてくれってね。
 それに嫣然と笑っただけで、アリスはイギリスに行っちまいました。女が手袋を棄てる時なんてこんなもんですよ。 けらけ。
 大西洋豪華客船の旅。これにはヴィクターも同行です。結婚式がありましたからねえ。
 その半月後でしたか。大花が消えてしぼみ込んでいたうちの劇場に、ヴィクターが帰ってきました。楽屋に置きっぱなしにしていたものを取りに来たんですがね。
 劇場の支配人が、ヴィクターの身を案じて聞いてました。
「これからどうする予定なんだい? パートナーを探すのか?」
「いえ…。実はフィルム・テストを受けようかと…」
「映画か?!」
 戸棚の上にいたあたしもびっくり仰天でした。映画会社に入るってことは舞台から一旦身を引くってことなんですからね。
 変な話ですが、誰もこのヴィクターに特別の注意なんか払ってなかったくせに、辞めると言われるとその技術やら誠意やらが急に惜しくなってくんですな。
 世の中にはいなくなってみないと欠落の分からねえ人間がいるもんですが、ヴィクターもそういう一派で。
 それに小さい頃からドサ周りをした舞台の世界ならともかく、映画業界にはコネなんぞないはず。転向も転向。選択肢のうち最もありえなさそうな最後の一つを、よりによってまあ…。
 いや。このおちびちゃんにしてはよく決断しましたよ。五分後にゃすっかり見直しました。
 あたしは気楽な小鬼稼業で、どこにも義理なんざございません。ちっとこの男にくっついてホリウッドを見てやるかってな気分になりましてね。隙を見てこっそり奴の鞄の中に滑り込んでやりましたよ。
 門を出るとき後ろを向いたら、アリスに去られヴィクターに去られた我が劇場はしょぼーんとしちまって、自分ごとながらえらくまた寂しそうでした。
 そういや、二人の親父ってぇのも貪欲やり手なお袋さんとうまくいかなかったみたいでね、二人が劇場で踊ってる間に家で死んじまってたそうですよ。









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