一つ昔話を致しやしょう。小さかった頃のヴィクターってぇと、思い出すのはローラースケートです。
 まだ半ズボンで芸やってた頃、やっぱり子供の芸人から借りたとか言って、劇場前の広場でガラガラ滑ってやがったことがあって。それこそ丁度親父が死んだ頃じゃなかったかなあ。
 姉貴はつんとしたきり見にも来やせんでしたが、マネージャーやってたお袋さんは大慌てです。その晩だってショーの予定があったんですからね。
「だめよ、ヴィクター! 転んだらどうするの!」
「大丈夫。心配ないよ、母さん」
 普段は言うこときかねえようなガキじゃなかったです。しかしそん時ゃ一体どうしたのか…、いくら母親がやめろと言っても、全然聞こうとしませんでした。
 成長期の足首ですからねぇ。ひねるだけでも一大事で。あたしもちょっと危ねぇなあと思いながら小窓から外、のぞいてやしたよ。
 その日は冬の初め、暗くて静かで雲が多くて、別段いい天気ってわけでもなかった。
 ヴィクターは何か諦めがつかねえって感じで、ずっとずっと滑ってました。上手いもんだからよろめくこともほとんどナシで、結局最後まで一度も転ばなかったんじゃねえかなぁ。
 一時間も滑って、さすがにくたびれたんでしょうな。劇場入り口の石段のところに腰を下ろしたはいいんですが、期待はずれの馬券を破り棄てる野郎みたいに、突然荒っぽくスケートを脱いだのにはびっくりした。
 痛い目にもあってねぇのに、何がそんなにつまんなかったんですかね? 丁寧に礼を言って友達に返してはいましたが、それから後、スケートをやってるところはとんと見かけませんでした。




 さてさてここらでもう一人、ろくでなしの仲間を紹介しないといけません。アリスやヴィクターの古くからの知り合い、ラリーという男で、年はヴィクターの4つか5つ上じゃなかったかな。
 こいつのことはあたしもよく知ってます。
芸人一家に生まれた男でね、もうアカンボの頃から劇場に出入りして、物心つくより先にドーランの匂いに慣れちまったような男ですよ。
 奴はヴィクターとは違って結構上背があったな。人畜無害な顔のくせ、三文芸から芝居もこなし、歌も歌えりゃ踊りも踊るといったなかなかの芸達者で、いかにもボードヴィルの叩き上げ。くるくる体の動く愉快な野郎でした。
 その多芸ぶりが受けたのか、二年くらい前に映画会社からスカウトされて映画に出るようになってましてね。つまりヴィクターが縁のなかった映画に転じる気になったのは、こいつの存在があったからなんで。
 その頃のホリウッド…、てえより映画業界は、どういうわけかミュージカルに狂ってました。歌と踊りがありゃあとりあえず売れるってことで、とにかく金に物言わせてそれぞれの会社がアホみたいに量産してたんですよ。
 まー一口にミュージカルといったって、ストーリーの狭間にちょいとした歌と踊りがあるだけってなお義理なやつから、最初から最後まできんきらショーを見せるのが基本でストーリーはおまけ。舞台での演し物に近いようなのまで様々でしたがね。
 とにかく滅多矢鱈に作ってたもんで、いつもいい人材は不足がち。舞台から有能な芸人やダンサーが札束で引き抜かれるのもよくあるこってした。
 とにかくラリーはアリス結婚の報道を見るや、すわキャマクラ。ヴィクターに猛烈なラブコールを送ったんですな。
 片や会社の重役達を「絶対に損はさせない」と言って説き伏せ、自分がこれぞと思った映画の主役ポストまで用意して待ってたってんですから友情ですよ。
 映画会社のお歴々はそれでも半信半疑だったんじゃねえかな。何せ、新聞の評価は全然高くなかったンですからね。スクリーン・テストの結果も素っ気ねえもんで、採点用紙には「わりと踊れる」とかなんとか書かれていたとか。
なんでヴィクターって男はこうですかね。
 勿論、奴とラリーの出たその映画は、重役連の予想を裏切って当たりに当たりましたよ。なにしろ最初の十分を見ただけで、あ、こいつぁ間違いなくいい映画だと分かるような、才気ぎんぎんの出来栄えでした。
 ヒロイン役の女優もやっぱりラリーの指名でしたが、頭の回転が速く、実力のある女の子だったんで、全振り付けを任されたヴィクター君、初めて地を出して思う存分、且つ手加減ナシでとことんやったんです。
 いや、別に舞台でサボってたというわけじゃあないですが、奴は生まれた時から姉貴とセットでしたからね…。同じフレームに収まる時には、常に姉貴を立てて自分は無意識のうちに一歩引いてた。
 その生物的な遠慮はどうしても芸に出てました。器用に作っていたので客にはまず知られませんでしたが、舞台での演し物は、いつもアリスに優しい出来になってたわけです。
 ラリーはさすがに年の功、そこのところはよく分かってたんで、まず最初にヴィクターの遠慮癖を取っ払ってやったんです。
 ―――――実力を隠すな。俺はお前に軽く追い抜かれたって、お前を嫌いになったりしない。
 本当にね。たったそれだけのことです。お袋も親父も勿論姉貴も言ってやったことがなかった台詞を、ラリーは言ってやりました。
 そして転がり出たのは万に一人のダンサー。
や、これは褒めすぎじゃあありません。
 ヴィクターは初めて全てを許されて踊りました。
その踊りが、目にはするりと入るんですが、いざ再現しろと言われたら誰にも模倣できませんでした。そもそも、人間がこんなふうに踊れるものだとは、その時までみんな知らなかった。
 体重は常に忘れられ、ステップは極限まで踏まれ、しかも体は飽く迄も安定を失わない。
ヴィクターはまさに、
飛ぶように踊りました。
空を滑るように体重を意のままに御しました。
 一体どうやったらあんなふうに踊れるのか、あたしゃ未だに見えません。たとえ振り付けの決定からリハ、本番までの流れを横で見ていていいと言われたって、同じ様には決して踊れねえんです。
 その上に余裕。
すさまじく高度なダンスを踊りながら、彼はまだ全然先があるように見えました。その辺りが、「こなし」の見えるラリーやレディの踊りとも決定的に違っていた。
 プレミア・ショウでは客の誰もが椅子に挟まった自前の体の重さを思い知り、そして唖然としたもんです。
 ――――――すごい…!! なんてこった。
こいつは違う。
きっと細胞のつくりからして違う。
こいつは「ダンサー」なんだ。
 フィルムが終わった後、ヴィクターは驚いた観客に取り巻かれて何時間も外へ出られませんでした。拍手と人々の鈍感な愛がやっとのこと、一人のスターを見出したというわけです。
 あたしゃ滅多に感動しないたちなんですが、こん時ばかりはじーんとしちまいましたね。自分の贔屓が正しく評価されるってぇのは嬉しいもんで。ことに長く不遇の灰を被ってた後じゃ尚更です。
 一躍認知されるダンサーになったヴィクターは、現場の雰囲気まで変えちまいました。勿論流行目当ての連中は何一つ懲りたりしませんが、奴の姿勢に触発されて、娯楽の職人芸を目指す何やら気高い流れが新しく出来たんです。
 撮ってみよう! まあいいか! よしセオリー通り売り出せ! みたいな行き当たりばったりじゃなくてね。納得する映像が出来るまで何度も何度も、何十回でもフィルムを無駄にするってこと。或いは十分のダンスシーンのために、女優も拘束して十日間も練習するようなこと。一本ごとに新しい手法やステップを取り入れて、何十時間もリハすること。
 今じゃ常識かも知れませんが、こんな労働じみた作業をミュージカル映画に持ち込んだのはヴィクターが最初です。ショーのハネた後、居残ってリハーサルをやってた奴ならではの、しぶとく地道なやり方ですよ!
 一旦スターになったらば、後はもういいものも悪いものも、勝手にごろんごろん転がり込んでくるもんです。この辺は映画も舞台も変わりませんや、ヴィクターの周りは彼の才能に合わせて、俄然高レベルになりました。華やかな連中が次から次に彼と友達になって、それがまた一層の実力になるもんで。
 中に一人あたしの好きなのがいます。撮影所の倉庫で気ままにピアノを弾いてたら、ちょうどそこをヴィクターに見つかってそのまんま意気投合。まことに映画じみたエピソードで知り合った作曲家で…。
 後に結構な大家になりましたが、あたしはこういったバカな連中、嫌いじゃあねぇなぁ。会ったその日に意気投合なんて、あのかわいそうなアリスには出来ませんや。
 えー…。
ぽりぽり。
気は進まないんですが、アリスの名前が出てきたとこで、ちっと女関係の話もしときましょおか。
 ヴィクターが女の子と食事したり、出歩いたりして写真に撮られるようになったのもこの頃からでした。
 あたしは何せその頃ヴィクターの背広のポケットに入ってたもんで、彼がゼンベーから集まってきた華やか美女連とどれだけ遊び歩いてたか知ってますよ。
 相手は女優さんとか、重役のお嬢さんとか、まあ社交界の知り合いとか…。西海岸はみんな発育が良くってね。よく間に挟まれて往生しました。
 毎夜毎夜高いお食事に、劇場デートに、贈り物の嵐。この頃の金持ちは歯止めを知らないのが美徳でねえ、ペットやら手袋やら花束やら、ぽんぽん投げるように与えてやったもんです。
 さすがのヴィクターも業界人らしいこういう浪費を西に来て覚えましたよ。硬いさなぎの殻を割ったテフテフさんはセオリー通り、プレイボーイに変態を遂げましたとさ。
 夜はホテルまで相手を送り、嗚呼うなるような香水の香り。積み重なる接吻と抱擁。で、ギョエテばりの血の逆流。
 愛してるよ、ベイビー。私もヴィクター。うーはー。
…じゃ、おやすみ。
パタン、って感じですかね。
 …いや。
いやいやいや、ご同輩、怒っちゃいやですよ!
誓ってこれで全部です。
 そうなんです。ヴィクターはあんだけ遊び歩いていながら、デートのお相手とは深いとこまで行きませんでした。
 ジョークもキッスも別れんのも日増しにうまくなって、いかにも遊び人といった見てくれだったのに、例のアノ…婚前交渉には転ばねえンです。
 いやー、感心でしたね。そりゃあんた感心ですが、ちっとヘンじゃありませんか。
 あたしはそれほど人間てぇヤツを信用してませんでね。どんだけ理性耕したって、ビンの中に二匹人間を突っ込めば、もう勝手に仲良くなっちまうもんですよ。
 映画を撮る時には相手の女優と四六時中一緒。しかもそのペアが当たるとなると、何本も一緒に仕事することもあります。そうやって、長い付き合いになった女の子もあったんですよ? 情が湧かねぇはずがねぇや。
 それにあたしの第六感じゃ、ヴィクターは本当は誰かと、身も世もない、手ひどい間違いを起こしてすっ転んでみたいと願ってたように思うんですよ。
 でもねえ、淋しいことにヴィクターは、我を忘れるってことがどーしても出来なかったみたいでね。
 …多分、比べちまうんでしょう。子どもの頃からずっと側にいた例の片割れと。
 それに、どんな熱の最中にあっても忘れられないんでしょう。熱いナイフが肋骨の間で回転するような、あの棄てられるっていう感触を。
 しかし当然女はおさまりません。それで別れる → すぐまた別のを試す → 別れる。
 そんなこんなで、順調な玄関の後ろで人知れずよろめいた挙句にこのボン、突然親の宗教を捨てくさって英国教会に入っちまいやがってね―――――
 ハイ。結婚に永遠を命令しねえ例のとこ。人間同士に不滅なるものなどないと、ハナっから終わりに備えた例のとこです。
 …ヴィクターは、何時間もの格闘の末、危なっかしい靴を履くのに疲れたんですな。
 疲れたもんは、仕様がありません。脱ぎ捨てて履き替えるのが普通です。
 だがあたしゃ、ポケットの中で思わず胸叩いたもんです。
バカだよこいつは。
情けねえよ。
 こんだけ実力があって、折角いいところまで来たってのに、まだ棄てられることに怯えてやがる。
 姉貴風情に入れ込んで一生ものの傷を負うなんざ、あたしからすりゃ大バカの大将でさ。




 ところでラリーですがね。奴はホリウッドの生き方にひとっつも染まってませんでした。
 まあ奴は三枚目の役をもらって脇を固めんのが仕事でしたから、巨万の富があったってわけじゃねえでしょうが、それでも普通に悪くねえ暮らしが出来たと思うんですがね。
 だのにこの芸人は未だにそんな高くもねえアパートに部屋借りて住んでました。しかも暮らしぶりはかなり地味で、女はそこらの文無しウェイトレスときたもんだ。
 どうも生まれ育ちに好みの鋳型は、なかなか変えられねぇもんなんですな。身の丈に合った生活ってのがあるもんで、落ち着くんですよ。どうしたって。
 ヴィクターもいつまで経っても安いヌードルが好きでした。だからラリーもどうしたってそんなことになったんでしょう。
 ある晩、ヴィクターとラリーが連れ立ってそのアパートの部屋に帰ったら、女と喧嘩になりやした。
 なんでも二、三日前からどうも険悪だったってんで、ラリーが土産まで買って早くに帰ったんですがね、女は機嫌を直さねえで…。口に口が答えるうちに喧嘩になっちまったってわけで。
 あたしゃポケットからこっそり覗いてましたが、もうそりゃ劇場の楽屋で起こる痴話げんかそのものでやんしたよ。そこにいる連中のうち何人かが仕立てのいい服着てたって、甲斐がありませんや。
 ヴィクターも何とか止めようとしてたんですが、結局のところ手が出ました。ラリーにぶたれた女が床にかがみこんだところで、下の階に住んでた女の友達が異常を察して登場。女を庇って、
「人でなし!」
と大騒ぎですよ。ちょいと真似してみましょうか。
「畜生! 女をぶん殴るなんて、犬以下よ!」
 どうです、次はこうですよ。
「どうせ男なんていつもこうよ! ちょっとくらいいい格好してたって、身勝手で、乱暴で、女の気持ちなんか分かりゃしないんだ!
 この子はあんたが他の女の写真を後生大事に隠してるの、知ってんのよ! 分からないの! それを見てこの子がどんな気持ちになったか!」
 こう言われた時ゃ、男ども床の上に棒立ちでしたよ。
「この子はどうしたらいいのさ! こんなろくでなしの子供孕んじまって! どうしろっていうのさ!」
女が床でしくしく泣き出しました。
「気付かなかったんだろ! 気付きもしなかったんだろ! 他の女のことばっか考えてるからだよ!!  畜生、あんたなんか犬以下だよ! 地獄に落ちるといい!」
 そこで青い面したラリー君、押し止めるような手つきで言いましたな。
「――――悪かった! …悪かった…!」
他に言い様がありますかねえ。
 結局、もう一人のバカ大将は三人の前で写真を焼いて、女に結婚しようと言いましたよ。
 身の丈に合った生活ってぇのは、あるだけじゃなくて、口を開けて待ってんですな。どれだけ路地を変えても親父とお袋。似たような門のあるお家へ還っちまうもんで。
 灰皿の上、ぷすぷすになった姉貴の写真をちらりと見棄てて、ヴィクターは今度はうれし泣きの女友達を送るために部屋を出やしたよ。そんでそのまま撮影所の練習用スタジオに行きました。
 誰もいねえはずでしたが、スタジオにはキムがいましてね。――――この大人しくてよく分かんない古馴染みの女の子は、ヴィクターに遅れること半年でホリウッドに出てきたんですが、こんな時間にたった一人、ダンスの稽古をしてたみたいで。
 ヴィクターは大道具の上、彼女の隣にちょこんとガキみたく腰掛けると、何があったか話しました。 キムって子は劇場育ちのさばさばした性格で、ちっと男っぽくて欲が無さげで、その点なんでも話せるいい子でやした。
 細いダンサーの足を抱え上げて、ひざ小僧に顎の先くっつけて、ヴィクターは言いましたよ。
「いい加減忘れた方がよさそうだ」
キムは大人しく聞いてました。
「僕も結婚の潮時かな」









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