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++ The Story of Madame O ++





 久しぶりに見るマダムOは主婦にお馴染みの白いネットを被っていた。赤銅のような髪の毛がその縁からくるくると円を描いてはみ出す様は母を思い出していつも胸苦しくなるのだが、その時ばかりは別の理由で額を覆ってしまう。
「何を話し合うと言うの? 今すぐパンフレットを変更するか、さもなくば法廷に現れるか二つに一つよ」
 この手の女が木で鼻をくくるようなことになったら大変だろうなと思っていた女がそうなってしまった。顔に石の仮面をすっぽり被って、こういう人間を知らないわけではない。集合住宅の一階に暮らす骸骨のような老婆、背中の曲がった狡猾な高利貸し、吝嗇で狭量な寡婦。
―――――ああ、つまり彼女は三つ目のに当たるわけだ。
「冗談だろ? たかが作曲者名の順序のことくらいで――――」
「ヨハンが生きていた頃は彼の名前が一番最初に印刷されていたじゃないの。死んだ途端変更するなんてあからさまな悪意の現れだわ」
「あの四重奏曲はヨハンやイグナーツや僕や皆で一緒に作った曲だ。その名前の配列に意味なんかないんだよ。今回の順番もデザインの引き起こした偶然なら、過去のパンフレットだって同様だ」
「分かったわ。その真偽は法廷で争うと言うわけね」
「………」
 娘は結婚するまで我慢しているという。小生意気な意見やあまりにも鋭すぎる物言いは減点対象になるからだそうだ。
 その話を聞いたときには疑わしく思ったが、こうなると黙らざるを得なかった。いまや恐れるものの無くなった彼女の言い方は、冬場の台所に置かれた水差しのような冷淡さ。
 雪と違って降ってくるわけではない。湧いてくるのだ。そうと知っていても、どうしても、何故そんな扱いを彼女から受けなければならないのかさっぱり分からない。
「そんなことを言ってもパンフレットはもう全部印刷済みだし、公演は二週間後なんだよ」
「そんなこと知らないわ。出廷しなければみんな拘束されるだけのことよ」
「ああ?! 冗談じゃない! 演奏会はどうなる?」
「それが嫌ならパンフレットを変更しなさい」
「そんな費用がどこにあるというんだ?」
「もし裁判に負けたらそれどころでは済まないわよ」
 彼女は突然立った。口調そのまま絶壁のように切り立った背中を、言葉を失った私に向ける。
「私、他の裁判もあって忙しいの、ヘル・シュナイター。歩み寄りのお気持ちがないなら帰ってくださらない?」
「………」
 マダムO。
彼女がそう呼ばれるようになって十年が経つ。彼女にその名を与えた不運なヨハン・Oが死んでからも、その名前には一種の威厳が残されていたが、こんなことが続くようではそのうち女の不可解さの代名詞になってしまう。
「テレーズ…」
 私は呼吸を整えると、名前を唱えてみた。
私がそうやって彼女を呼んでいたときの記憶を最後のよすがに、何とかこの女とまともに話そうと。
「テレーズ」
「何です」
 振り向くからには確かにテレーズなのだ。しかし彼女は自分の名前は思い出しても、全てが穏やかだったほんの三ヶ月前のことは思い出してくれないらしい。
「君の行動にみんな困惑している。君が夫の友人に次々と召還状を送りつけたりするから。
 何か問題があるなら相談に乗るし、力も貸そう。僕には金持ちや貴族の友人もある。幼馴染の『弟のヨハン』に何か出来ることはないのかい?」
 小さいが力を秘めた青い目が私を見る。私は彼女が近所の悪童を追っ払ってくれたことを思い出す。スープを作ってくれたことを思い出す。母の看病を手伝ってくれたことを思い出す。そのよく働くたくましい手。
「ヘル・シュナイター」
 そんな私の感傷を同じ彼女のその声が(嘲笑混じり!)一瞬にして冷ましてしまう。
「何か勘違いしていらっしゃるようだけど、これ以上のお話はお互い法廷でした方がいいと思いますわ。さあ、もう帰って。次のお客様がいらっしゃるから」
 薄ら寒い螺旋階段を襟元を直しながら降りていくと、途中で知り合いの楽譜商と擦れ違った。












『…故ヨハン・Oは当代随一の有能な演奏家であり、作曲家であった。この才能の浮沈夥しきヴィーンにおいてもその名は長く語り継がれるであろう。
 先月七日に行われた葬儀には彼の知人友人、死を悼む多くの知識人達が雨にもかかわらず参列し、彼の早すぎる死を悲しんだ。
 その記憶もまだ覚めやらぬというのに、昨今彼の名前が別の方面からさかんと聞こえてくるのを読者諸君はご存知だろうか。それは彼とは今まで何の縁も無かった天秤と剣の女神殿。然様、裁判所である。
 ヨハン・Oの未亡人テレーズは喪服に身を包んだまま黙々と告訴状の作成に忙しい。訴訟相手はかつての夫の仲間、関係のあった商人、パトロンなどほとんど全てで、内容は契約不履行、名誉毀損、賠償請求などとにぎやかこの上なしだ。
 なるほど確かに、ご夫人とて生きねばならぬ。たった一人で身を保たねばならぬ彼女の訴訟を起こす権利を剥奪しようとするものではない。
 だが、心ある世のご婦人ならばまだ夫の死に懊悩している時期ではないか? 教会に通い、人目を嫌い、日夜ハンカチを涙で濡らすのが普通である。
 それが彼女ときたら、メドゥーサの姉二人のごとく髪振り乱して告発告発告発!
諸君、実に嘆くべき時代である。
 このO未亡人の取り憑かれたような訴訟行為についてヨハン・Oの元仲間達は心から驚き、且つ当惑しきっている。』
(1824年12月20日 地方M紙)












 どうだった、と先生が尋ねるので「とても駄目です」とコートをたたんで椅子にかけた。(家政婦が出て行ったのだ。)
「イグナーツ達と話し合って結局、パンフレットに訂正印を押していくことで訴訟を回避することにしました。格好悪いったらないし、劇場の方が大騒ぎです」
「やれやれだな。マダムOの様子は?」
「新聞で叩かれていることは知っていると思いますよ。机の上に何部も新聞がありました。ヨハンが作曲に使ってた机ですが、今や総司令本部といった趣ですね」
 私は抱えてきた荷物を紐解いて中からインクやら紙やらを取り出すと、部屋の各所に補給する。この人は紙がなくなると家具や壁にガリガリ書き出してしまうので物品の買出しは弟子達の重要な役目だった。
「カールは今日は?」
「来ない。相変わらず生徒らの世話でくたくただ」
「あいつと先生は告訴されていないんだなあ」
「Oとは面識はあったが仕事は一緒にしなかったからな。こうなると仲良くしていた連中ほど不運だ」
「本当ですよ。全くね」
こらえてきたため息が漏れてしまった。
「本来なら、彼女の助けになってくれそうな人たち、彼女と分かち合うべき人たちを相手に片っ端から喧嘩売るもんだから。あれじゃそのうち本当の寡婦になっちまう」
「私と同じようにな」
「カールなら違うと言うでしょう。僕は敢えて否定しません」
 無理な裁判をすれば人脈はのたうつ。そんなことは先生の例を知らなくてもうすうす分かることだろうに。
「彼女も寂しいんだと思いますか」
これは難聴を楯に聞こえない振りをされた。仕方なく私は荷物の片付けを再開する。
「彼女は金が入用なのじゃないか」
「僕もそうは思ったんですが、違うようです。他の人間に聞いても、彼女がどこかに借金をしているだのという話は出てきません。大体裁判費用を考えれば、よし訴訟に勝ったって彼女に大した入りは有り得ませんよ」
「では虚栄心だな」
「――――――と言うと?」
 ピアノの前まで戻ってくると、先生は眼鏡を掛けて、中断した作曲作業を始めていた。恐ろしく汚い手書き譜面を前に、恐ろしく美しい旋律を一頻り奏でる。
「どうだ? なかなかいいだろう」
「ええ。始めて聴く曲ですね」
「朝方思いついて作った。そのうちまた練り直せば商売物になるかな」
 …「朝方思いついて」、ね。
劣等感をくすぐる言い回しだ。
 先生やOと違って私に作曲の才能は備わっていなかった。勿論しないことはないし、作品が出版されないわけではないが、うんうん唸ってやっと一曲…。先生のような本物を前にするとその資材の無さは歴然だった。
「彼女は繰り返し勝ちたがる」
 私は胸の前で両腕を組んだ。
「何故です」
「Oが死んだからさ」
「………」
「分かるか? あいつが生きていれば、演奏すれば、作曲すれば、有象無象の連中の中でも燦然と輝く綺羅星であることは自ずから明らかになる。だが奴は今や冷たい土の中で、いずれ人は忘れる(まさかご大層な新聞の言葉を信じてるわけじゃないだろ?)
 世間の連中は譜面を見ただけでは作曲家の偉大さなんか分からないし、下手が演奏すれば曲の印象はどうなるか。いずれにせよ生きていた頃のOの存在は取り返しようも無くなる。彼女にはそれが我慢ならない」
「彼よりも才能の無い者がただ生きているというだけの理由で褒められたり利益を得たりすることが?」
 例えばそこらの楽譜商や、イグナーツや、…私が、彼よりも価値の無いもので簡単に勝利することが。
「だから裁判で勝つんだ。そうすればその度に必ず比較と勝利とが現れて、世間も再びヨハン・Oという存在を認識する。その度彼女の価値も上がるというわけだ。憐れな」
バン、といきなりな和音で先生は曲を締めくくる。
「女だ」
 夕刻の部屋に沈黙が満ちた。
生きているということはそれ自体が権力か。
彼女は私達がただ生きているということだけで彼に勝つのが許せないのか。
 もう百年待てばいいのに。そうしたら私達はみな等しく蛆虫の餌。死という定規で均されれば、ヨハン・Oの才能も改めて分かりやすく突出し、明らかになるだろう。
 誰かが誰かより長生きすることは仕方が無いことだ。その無意味なところに歯向かって、徒に敵を作り身内をなくすのか。
 そうしなくては済まないのか。自分のものではない子供を取り返そうと無茶な訴訟を起こしたこの先生のように…。
「…おかしいですねえ、先生」
 声の調子を明るくし、何かを振り切るように私は言った。
「子供の頃、僕等は身一つで生きていたんだけどなあ。いや、一緒に遊ぶ優しい友達さえいてくれればそれで本当に満足でしたよ…。
 それが一体いつ頃からこう、生きるために無意味なたくさんのものが必要になっちまうのか。誇りだの勝利だの安定だのね…」
 先生は答えないまま、ペンを持って作曲を始めてしまった。彼もまたこの渦の中で生きる人間だから、解決語などないのだろう。
「―――――そろそろ帰ります」
 私は肩を竦めてピアノの側を離れた。一日の疲れが背中の半ばに溜まっている。身体を震わせながらコートを着込んだ。
「ああ。もういっそのことこれからあの家にも一度行って、マダムOにプロポーズでもしてこようかなあ」
「ああ?」
 思わず振り向いた眼鏡の奥に微笑みかける。
「だってそうでしょう。誰かが彼女を『マダムO』から解放してあげなくちゃ。テレーズ・シュナイターもなかなかいい名前じゃないですか?」
「ヨハン、婚姻を冒涜してはいかん」
 にらまれてようやくいつもの図式に落ち着いた。
冗談を言う「ヨハン」に、いちいち嗜める先生。側で苦笑している大人しいカール。
―――――ほっとする。
「うははは、冗談ですよ」
「冗談でもいかんものはいかん」
「分かってますって」
 ―――――ほっとするからね。それは分かる。
だが、だがこの「ほっ」を得るために四苦八苦することになると、少し悲劇だと私は思う。
「僕だってヨハンなんだがなあ…」
「何だって?」
 先生が鼻の上で眼鏡を押し上げる。私は胸の中身を押さえつけ、彼になけなしの笑顔を向けた。
「先生、僕はまた彼女と仲良くなれると思うんですよ。だって僕らは結局、同じように淋しいんですからね」
荷物を持つ前の両手を広げて見せる。
「僕らはつまり、ヨハンが死んじまってもうそれはめちゃめちゃに悲しいってわけです…」
とても、とてもね。
「僕らには違うところもあれば同じところもある。違うところでの差異は同じところで取り戻せばいいんです」
 付け加えてお暇した。先生は今ごろピアノの前で首を振っているだろう。楽天主義のお人善しが。だが私はさっき言ったことを信じるのだ。
 テレーズも落ち着けばそのうち、同じ悲しさを他の人間も持っていることに気付くだろう。そしたら近くにもう一人、別のヨハンがいるってことに思い至るってことだってあるかもしれないじゃないか。
 私には作曲の才は無いが天性ののん気があり、昔一緒に遊んだ友達のことを、今も忘れられないのである。








DasEnde



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03/01/19