「最近、どうですか」 そんな風に切り出すとカールは笑い出しました。しばらく見ないうちに手に余るほどたくましくなった肩が両方から胸を攻めて、カフェの椅子では窮屈そうです。 「先生はいつも遠まわしな言い方するけど、いいんですよ、最初から本当のことを言っても。あの人に頼まれて様子を見に来たんでしょ」 「…あなたも大人になりましたね」 僕がピアノを教えていた頃はまだほんの子供でした。レッスンの最中にお母さんに会いたいと言って泣き出したこともあります。 結局彼は音楽に向いていないということが分かって今は商業学校に通っているのですが、最近浮かない顔をして態度も朗らかでないので、心配した先生が私を寄越したのです。 「学校の勉強はどうですか」 「大変です。難しくて」 「でもせっかく先生がお金を出してくださるのですから、がんばらなくてはいけませんよ」 カールは形の良い、青白い額に皺を寄せました。 「無理です。僕には商才がありません」 「みんな挫折すると一度はそう思うものですよ」 「でも僕は商売人になりたくないんです」 「ではどうやって生きていくのです?」 「兵隊になります」 浪漫を求める若い男の子に大変よくある夢のように思います。私は思わず笑みを浮かべて言いました。 「カール。戦争はおとぎ話じゃありません。あなたが思っているよりもっとずっと過酷なものなんですよ」 すると突然、彼は気分を害したかのようにテーブルを叩きました。 「そんな台詞はもうたくさんだ! あなた方は…、うるさいんですよ、兵隊をやったことなんかないくせに!」 「……カール」 「僕はとにかくどこかへ行きたいんです! 戦場が悲惨だなんてことは知ってます。だがこんなところよりずっとずっとましだ! もうやっていられない…! 僕は実際ぎりぎりなんです! 何度も何度もそう言ってるのに…、どうしてあの男には分らないんだ…!」 「………」 給仕が振り向いたのを見て我に返ったのでしょう。彼はあ、と息を吐き出すと同時に、後悔の表情で椅子の背に落ちました。 「…すみません。先生、怒鳴ったりして…」 「とんでもない。大丈夫ですよ」 私は子供達によくやるように職業的に微笑みました。 「この際色々言ってください。溜め込んでいる方が身体に良くありませんからね」 ですがその後彼はすっかり大人しくなって、もう爆発はありませんでした。ぐったりといささかだらしなく椅子に腰掛け、窓から往来の方へ長くぼんやりと目を注ぎながら私と話をしました。 「…僕は…、とにかく…、この腹の中の蛇をどこか、どこでもいいから…、吐き出す必要があります…。血とか、死とか、涙とか感動とかが、入用なんです…」 「カール」 最後に問い掛けるとやっと私のほうを向きました。 「はい」 「…大人というのは、しばしば子供に信じられないほど辛いことを押し付けるものです。それが子供のためになっていると彼らが信じているときほど子供は大変です。 ――――― でも」 この青年は私と同じ名前です。 「カール。お養父さんがあなたを愛しているということを忘れてはいけませんよ…」 「………」 青い目が、しばらくじっと私を見つめていました。 外の夕焼けが店の中まで橙色に染めています。辺りが急に遠のいていって、世界にこの目の前のテーブル一つぎりしかないような、奇妙な感じがしました。 「…先生はその呪文を呟いてずっと耐えてきたんですか」 「小さな」カールがしまいにそう言いました。 「でも本当はご存知でしょ…? 本当はご存知で…。それでもあなたは…」 それから彼は口をつぐみ、唇の前に手を添えて、聞き覚えのある傷ついた子供の声で 「ふふふふふ」 と笑いました。その後は何を言っても笑ってばかりでしたが、 「僕にあなたの真似が出来るかどうか…」 そんなことを呟いていたのを覚えています。 + 両親に知れたら大変ですが、私は夜、色街の辺りを散歩するのが好きです。 そこは私がもといた場所だからです。 父と母はボヘミアからの移民で、この街で暮らし始めた頃は、それはそれは貧しく寡(すくな)い生活をせざるを得ませんでした。 だから私の子供時代は猥雑で騒がしい一角にあり、夜はいつまでも派手に明るく、朝はだらしなくてそちこちに嘔吐の跡があるのでした。 父は私を辺りの子供たちと遊ばせませんでした。 五歳からピアノを仕込み、八歳でコンサートを開き、十歳で先生の所へ連れて行きました。(ただし、彼のことをさほど尊敬していた様子は無かったので、寧ろ名声のためだったのでしょう。) 両親が私に求めていたのは、金を作り、暮らしを豊かにすることでした。だから私は先生のような浮沈のある職業作曲家になることよりも、堅実なピアノ教師としての道を選ぶことになり、現在は一日に十人からの生徒を見ています。 そのため生活は落ち着き、私は両親をもっと治安の良い通りに住まわせ、十分に養うことができるようになりました。父は今では、もう働いていません。 時折ヨハンや先生に「お前は物分りが良すぎると」同情されますが、私には「腹の中の蛇」はおりません。…或いは、もうずっと昔にいなくなったので忘れてしまったのかもしれません。 どちらにせよ、現在の自分の結果について、誰かを憎むというようなことは無いのです。 本当に…、無いのです。 ただ、…どうしてなのか、二月に一度ほど、どうしても足がこの一角に向かいます。 この街を歩くと、橙色の明かりの中で渦を巻く、不思議に冷たい子供時代のシーツのことを思い出すのです。 それは使い古しで廉価な布切れだったに違いないのに、寝台の上で薔薇の花びらのように幾重にも幾重にも波を作って、(子供の目には、)信じられぬほど美しかった。 涙を流したのはその時が人生で最初で、次はまだ来ていません。 明日も私は仕事をします…。 DasEnde |
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03/01/25