先生宅の長い長い螺旋階段の途中で、黒髪のカール.Cと擦れ違いました。外の空気を吸ってきますと薄暗がりの中で申します。私は一つ頷いて彼の代わりに三階まで昇って行きました。 居間にはヨハンだけが残っていました。 彼は面倒くさがって一つしか点していなかった蝋燭の明かりを、あちこちの燭架に移しているところでした。 「隣にも差し入れてきました」 と、彼は閉じられた仕事部屋への扉を顎で差します。 「まだまだ時間がかかりそうですよ」 「そうですか」 私はため息をつきましたけれど、心の中はさほど深刻でもなく、家への言付けは済みましたし、後は実際どれくらい遅くなろうとも大丈夫だったのです。 後半は二人で灯りを配り終えると、私達はまた、居間のテーブルを囲むそれぞれの椅子に戻りました。空っぽのカップを背中にお湯が沸けるのを待っていました。 「カールと会いましたか」 「ええ、階段のところで…。…かなり、お疲れのようでしたわ」 ヨハンは私の顔をちょっと驚いたように見ました。私が何か? という様子を見せるとすぐに目を逸らし、それから微かに笑った後、言いました。 「ええ、…彼は、いつも何も言いませんが、きっと辛いだろうと思いますよ。『小さい』カールが本当に小さかった頃から、ずっとかわいがっていましたからね…」 「カールは、やはりこのまま、お母様のところへ戻されるのでしょうか?」 「…そうせざるを、得ないでしょう。自殺未遂とあっては…。 先生ももはや潮時と分かってはいるようですよ。でも感情の折り合いがつかないんです」 弁護士と先生とは、隣の部屋でほとんど言葉も交わさないまま、長い間対峙しているのでした。二人の間には署名欄が空白の書類があり、そこには裁判で獲得したカールの養育権を実母に戻すという旨の文章が綴られていました…。 「…なんというか、残念ですわね、色々」 「ええ、それは無論ですが…」 そこまで言って、ヨハンは暖炉へ立っていきました。やかんの口から立ち上る湯気が見えたからです。 単に身体が少し離れただけなのに、私は寂しさを感じました。丸いテーブルについているのに両隣が空の椅子二つでは不足に過ぎます。私は子供じみて半ば身体を浮かすようにし、彼が帰ってくるのを待ちました。 「ですが、何ですの?」 「……ええ」 意外にも台所仕事は彼が一番上手です。手際よく三人分の珈琲を作りながら、私の気持ちを察したのでしょうか、遠くから続きを言ってくれました。 「…あなたにはあの子がうらやましいとかいう感情がありますか」 「うらやましい?」 その時、その言葉の意味を正しく理解で来ていたかどうか疑問です。私はただ音に驚いていたのです。沈んだ夕闇の部屋の一画で、聞かないと思っていた音でした。 「…『小さな』カールがですの?」 「ええ…。先ほど、あなたのいない時カールが…、でっかい方ですが、彼がそう言うんです。 彼は小さなカールが可哀相だと思うより感情もずっと強く、うらやましいのだそうです」 「…そんな、どうしてですの?」 私が尋ねると、ヨハンは珈琲から顔を上げました。 暖炉の側の小さな台の上には、白い地に草模様のカップが仲良く三つ並んで、同じように縦に湯気を放っていました。 「分かりませんか?」 彼はいつもと同じように優しげに、でもどこか妥協的に微笑んでいました。ただ、今日はほんの少し寂しさが沈んで瞳が薄いのです。 そしていつにもなく私をまっすぐ、身体の奥まで探るかのように見つめながら言いました。 「私がどれほどテレーズ・マイヤーを自分の奥さんにしたかったかお話したことがありましたね」 覚えないうち息を吸い込んだとき、珈琲の香りが耳の後ろの辺りまで滑り込んでまいりました。でも彼は私が黙ったその一瞬の間にいつもの速度で動き出してしまい、それで私は、その一息を吐き出す機会を永遠に失ったのです。 珈琲は三つ用意されていました。 どうするのだろうと思ったその時、黒髪のカール.Cが部屋に帰ってまいりました。 「外の空気はうまかったか」 ヨハンが尋ねるとカールは自分の内に向かって嘲りをくれて、少し乱れた息で言うのです。 「僕がいない間に、君達二人のうちたった一人でもいなくなっていればいいのにと思っていたよ」 残念でしたとヨハンが彼に珈琲を与え、カールは諦めたかのように大人しく、自分の椅子に戻りました。 私はその頃ようやくカールが『小さな』カールをうらやましいと言った意味が分かってきました。そして珈琲に砂糖を落としながら私もまた、心密かにその感情の片棒を担ぐのでした…。 私達三人は、この部屋の主が決断を下して隣の部屋から出てくるまで帰ることが出来ません。 それが深夜なら深夜、朝方なら朝方。お終いの時がくるまで私達は手に拳銃もなく従順に、三人一緒でいっそ幸せに…、いつまでもいつまでも待っているのでございます。 DasEnde |
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03/02/08