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けれどひとりのひと
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【フォルリーニの日記】


 
 九月二十七日 水曜日 
今日一人の少女と知り合った。少し変わった女の子で、名前はエレナという。
 天気予報は外れ。夕暮れ前から雨が降りだして、仕方なくスケッチを諦めなくてはならなかった。帰ろうとしたところをクアドリで友達につかまって、結局サン・マルコを出たのは八時過ぎになった。
 真暗い道をいつものように一人で、高潮の心配などをしつつボンディまで歩いてきたとき、ふいにどこからか歌が聞こえてきた。
 高い少女の無邪気な声だった。そしてまことにぴったりの歌…「雨に歌えば」を歌っている。気分が良くなって、どこから聞こえてくるのだろうと周りを見回した。けれどもよく分からなかったので、そのまま橋を渡り切った。
 …彼女は、橋のたもと、街灯の下にいた。
小雨の中、傘もささず、手すりに腰掛けて、一人幸福そうに微笑みながら、そして歌は、その小さな桜色の唇から漏れているのだった。
 …私はしばらくあっけにとられていた。と、言うよりはその、それこそ一枚の絵のような非現実の眺めにぼうっとなっていたのだ。
 黙って傘をさしかけると、少女はそこでようやく私が側にいることに気がついて、歌を止め、ふいと顔を上げた。
 判断は難しいが、十二、三歳くらいの娘だった。美しい白い肌に、見事な金髪、碧眼。そして、まるで初聖体拝領の時の子供達のように、裾の長い白い服を着て、その波に水滴が明かりにぼうと光って、少女は、ほとんど…天使だった。
 風邪をひきますよ、と私が言うと、返事はいきなり「おはよう」ときた。一応天を仰いでおいてから今は夜だと返すと、「十二時過ぎだもの」とくる。まだまだそんな時間じゃないというと、今度はぶすっとした顔をした。表情がくるくる変わって、さらに幼い感じがする。それが「あなたって、女の子の扱いを知らないのね」なんて言うものだから、つい笑ってしまった。
 少女はいよいよ機嫌を損ねて、つんと横を向く。その時に、ひょっとしたらこの子は、少し知恵遅れなのかもしれないと思った。よくよく見れば彼女の服は、どこかの養護施設の寝間着ともとれる。
 ためしにどこに住んでいるのか尋ねると、彼女は東を指さして「大きな教会のとなり」と言った。おそらく、少女は施設から抜け出してきたのだろう。
 いつもここにくるのかと聞いたら、時々、との答え。彼女は首を傾けて笑いながら「また会いたい? あたしがかわいいから?」と、無邪気そのものといった感じでそう言う。そうだよと私も笑いながら答えた。
 すると立ち上がって、独特の唐突さで帰ると言った。怒ったりしたわけではなく、興味が急に薄れたという感じだった。名前を聞いたら、「エレナよ」と答えた。ばいばい。それから小雨に煙る道を踊るように、一度も振り返らず、東へ走り去っていってしまった。 
 私はすっかり心を奪われて、彼女の背中を見送った。目の前を白いウサギが横切っていったような気分だ。
 家に帰ってから、キャンバスを持ち出し、いつものように画想を練り始めると、あの少女のことが頭の中で膨らんできて、どうにも離れなくなった。もう一度会ってみたいものだ。彼女を描いてみたい。何か創作意欲をそそるものがある。
 …それにしてもあの娘は、本当にあそこにいたのだろうか? なんだか、夢でも見たんじゃないかという気がする。十分と思っているうちに一時間が過ぎる、朝の布団の中でのあのまどろみにあらわれる短く物憂い夢のようだ。



*





 イタリアの街には、どこにでも必ずバール(Bar)と呼ばれる喫茶店がある。そこではサンドイッチなどの軽食の他、コーヒーはもちろんのこと寝酒まで飲めて、いつでも一休みができる居心地のよい空間である。
 カフェとは、古くは伝統的な立派な店のことを指していたが、最近では一般化してバールとの違いはほぼ名前だけのことになっている。もちろんイタリアには二百年とかそれ以上の歴史を持つ文字通りのカフェもざらにあるわけであるが。
 さて、ヴェネツィアの北側、カンナレージョ区にあるバール『ラピダ』も、無数に存在するそんな店の一つである。店に入ると左にレジとカウンターがあり、右に四つ程テーブルがある。狭い店内では立食が主流なのだ。店の主人の趣味で、壁には小さな絵がたくさん飾ってあり、店内をさらに狭く見せていた。
 グイード・フォルリーニはその橙がかった空間の中で、彼が一週間前の晩に会った不思議な少女のことを友人達に話した。
 だが。
「…酒でも飲んでたんじゃないのか?」
彼の話に、バールに集まる仲間達は懐疑的だった。みんなとりあえず大人しく聞いているものの、「冗談だろ?」という半なまの笑みをにじませながら、時折お互いの顔を見合わせたりする。
 「僕はシラフだよ、そん時も今も」
カップを空にすると、グイードは少し口を尖らせて仲間達にそう言い、革手袋をはめ始めた。
「…信じないなら別にいいさ」
いじけたノアみたいに、ぼそりと言う。
「しかし本当にしても…、会えるかどうかも分からんのに毎晩あそこらをうろつくなんて、バカげてるぞ」
 友人のカルロが、遠慮なく本音を口にした。他の面々も、そんなにズバリとは言わないが同意見であるらしく、カルロの言葉に沈黙の賛意を示していた。
 だがグイードは首を振る。
「あれからちょうど一週間目だから、今晩こそは来ると思うんだ。
 …どうにかもう一度会いたいんだよ。ずっと探してたもの見つかったような気分なんだ。とても諦められない。次のやつにはまだ間に合うから」
「ああ、今度のコンクールね。ミラノだっけ?」
 カルロと同僚である仮面職人のアルトゥーロが、カンパリの入った赤いグラスを揺らしながら言う。
「そ、今年最後のチャンスだ」
「他の女じゃだめなのか?」
「一週間努力はしたんだ。だめだった」
「才能がないからじゃないの?」
カウンターから一言飛んだが、グイードは眉一つ動かさずきれいに黙殺した。
「直接施設に行ったらいいじゃないか」
 カルロの言葉に彼は、肩をすくめ苦笑いをして見せた。
「行ったんだけど…ね。なんの御用ですかって、えらく高圧的に言われちゃって、…はは。どうやらなんか勘違いされたみたいで、他の所まわる気も失せちゃってさ…」
「あらあら」
「だから仕方ないんだ。他に方法がなくて」
「…それにしても…」
非効率だと言おうとしたカルロの先を、青年は飲み込んだ。
「もう決めたことなんだ」
 カルロは青年の眼差しに軽く圧され、顎をついと上げる。
「…あそ。しかし気をつけろよ。こんな街でも、真夜中は危ないかもしれないぞ」
「うん。心配してくれて、どうもありがとう」
グイードはにっこり頷いて彼を黙らせてしまった。真面目で誠実な男だが、馬鹿正直なわけではない。
 鞄を肩に持ち上げる。それから「じゃあ」と店の仲間達に手を上げると、グイードは店のガラス張りの扉を押し開け、夜の町へ出ていった。代わりに入り込んできた冷たい空気が、残った者の肌を縮み上がらせる。風に圧されたドアが、再び空間を断ち切って、暗い外は見えなくなった。
 仲間達は、グイードの無謀で一本気なやり方には慣れているので、やれやれまたか、といった雰囲気だった。一年に何度かこうやって暴れ始める時がある。始まってしまえばあとは高潮と同じ、逆らわず引くまで放っておくしかないのだ。
 彼は、いつもはサンマルコ広場の付近で観光客相手の風景画を描いて糊口を凌いでいる、まだかけ出しの画家である。
「グイードっていくつだっけ?」
と、アルトゥーロは隣の同僚に聞く。
「二十四? かな?」
「二十四よ」
ホットカクテルをすすりながら、カウンターに着いていたシルヴィアが横から念を押した。先程一口挟んだのは彼女だ。
「この寒空に、…ばっかじゃないのあの男。酔狂にも程があるわ」
と、胡椒でもかみ砕いたかのように眉を思いっきり寄せ、煙草を吸い込む。彼女の趣味に合わないのだ。
 「二十四か、若いなあ…。若いことはいいことか」
「さああねえ」
カルロも煙草に火を点けながら、気の抜けた返事をする。
「アナトール・フランスは青春以外は信用ならぬ、と言ったよ」
 そう発言したのはミゲルだ。彼はこのバールの長老とでも表現すべき存在で、店主の親戚でもあり、この建物の二階に独りで住んでいるボヘミアンである。
「さすが大学出」
「モデル一つにあれだけかけずり回れるのも若さだろう。いいことじゃないか」
「ミゲルは芸術バカに甘いのよね」
 シルヴィアはさらりと言うと、カウンターの上に肘をついて体を心持ち傾けた。濃いグレイ(今年の流行色だ)のスカーフの中に顎を埋める。
「だいたいね、彼がコンクールで入賞できないのは才能の問題で、モデルを変えたところで同じことよ。同一の感性で選んだ女の子なんだもの」
「こないだのウィーンのはどうしたの」
「あえなく落選。しばらく機嫌悪かったじゃない」
 カルロはバールの壁に掛かっているグイードのパステル画を見やった。マドンナ・デロルト教会を描いた中程度の作品だ。
「なんでだろうなあ…。うまいと思うけどね、俺は。な、アル」と、横に振る。
「うーん…」
アルトゥーロは腕を胸の前で組んで、しばらくその絵を眺めていたが、
「ま、いいよな。…上手だよ。…でもなんというか、少し物足りない感じもするな。毒っけがないというか…。きれいなだけだというか…。パステルのせいかもしれないけど。あ、でも画材の選択も画家のセンスか。でもこれが彼の理想なら…、うーん…」
うなる彼の頭に、涼しい声が飛ぶ。
「絵ハガキ向けのちゃちい絵よ。はっきりそう言ったら?」
 アルトゥーロはちょっと困ったような微笑を彼女に向けた。シルヴィアは手厳しすぎるのだ。
「…ま、そこまで…。俺はあっちの、奥の小さいやつの方が好きだな。あれはなんかぴりっと締まるものがあって。あれ、グイードの昔の作品?」
「ん?」
 ミゲルは背中を反らして、カルロの体越しに彼の示す絵を見る。バールの中に彼の知らないものはない。
「ああ、それはグイードのじゃない。奴の親父のだよ」
「ええっ!」
カルロとアルトゥーロが同時に飛び上がった。
「え、本物!?」
「本物本物。本人がくれたそうだから。盗られたくないんでそんな隅に、地味な額縁で。しまっとけばいいのにそれはもったいないって」
「あはは、屈折心理よねー」
 アルトゥーロは店の隅に飛んで行くと、それこそハガキほどの大きさの額縁を、必死になってのぞき込んだ。
「うわっ、本当だ! サインがA.F.だ。アルチバルド・フォルリーニだよ。道理でいい絵だと思った。…しかし全然気がつかなかったよ、今の今まで。
 何でこんなとこにあんの?」
ミゲルは口ヒゲをいじりつつ言う。
「彼のはほとんどアメリカに行ってしまってるけど、ちゃらんぽらんな人だったからあっちこっちに小物が散らばってるんだよ。アメリカのどこぞの美術館が、今必死になってヴェネツィアを洗ってるって話だ。
 うちにも来たよ。なんかひ弱なインテリでね、親父さんに丸め込まれて帰っちゃった」
ミゲルは、叔父である店主のことを「親父さん」と呼ぶ。
「いくらでもきやがれって、調子に乗ってたよ」
「ははは…」
 「フォルリーニって、確か派手な死に方したんだよな。派手な生き方の総決算として」
と、カルロはかじっていた細長いスナックをタクトのように振り回した。
「ゲイの恋人に撃たれたんだっけ?」
「それはヴェルサーチ。フォルリーニは交通事故。ロスで」
「あ、思い出した。メリケンの映画女優かなんかと、一緒に。自殺だの他殺だのと」
「そうそう。死んだ後ますます有名になって、特にその…、メリケンでバカスカ売れ出したって話だよ。でもグイードにしてみりゃ、家に滅多に帰ってこなかったスキャンダルまみれの父親ということでしかないんだろう」
「そういやあ彼は、平和で健全な家庭を作るのが夢だって言ってたもんなあ」
 遊び人のカルロには、ぴんとこない要望らしい。天井を見ながらスナックをかじる。
「天才の息子は平凡って真実ね」
 言うやシルヴィアは空になった煙草の箱を、生き物の首でも絞めるみたいに右手できゅっと握りつぶした。
「いつも自分は優良生ですって顔して、清潔なおゲイジュツ。うっわー、気にくわない」
「君の親に似てるからって、あちらはいい迷惑だぞ」
ミゲルが冷やかす。
「嗜好は眠気と一緒で、がんばったところで止められないわ。どうしても合わないって人間もいるのよ」
 冗談めかして言うと、彼女は最後の一本を口にくわえて火を近寄せた。煙草はほとんど吸わないアルトゥーロが、眉を上げる。
「それでやめとけよ、シルヴィア。早死にするぜ」
「お生憎、それほどヤワじゃないわ。働く女はたくましいのよ」
「最近どうよ。もうかりますか」
「んー、高潮のせいで午前中は不振。でも午後にアメリカ人の観光客が大量にやってきて、…ぼちぼちですかしら」
 彼女はリアルト橋付近の、大きな土産物の店に勤めている。カルロが立ち上がり、テレビをつけようと、棚の上に手を伸ばしながら彼女に尋ねた。
「ねえ、君んとこのグラス偽物っていう話だけど本当?」
「何を言うの、本物よ」
「なんだ、ガセか」
「少なくともお客の前ではね」
 シルヴィアはごく真面目な顔で口を閉じた。それから、みんな一緒になって、どっとばかりに笑い転げる。
 棚の上のテレビは、にぎやかなクイズ番組を映し出した。眼鏡をかけた人気者のエンタティナーが、にこやかに笑いながらべらべらと喋りたてて、小さな機械の中から飛び出してこんばかりの勢いだ。番組とCMが忙しく交代し、その都度画面に接する壁に七色の光を投げかける。
 テレビはひどくうるさいのに、周りの空間はかえって静かに、ひっそりとしてしまう。嵐の前には喋らないでよくなるからだ。
ふいに、柱にかかる時計が鐘を鳴らし始めた。
「もう九時か」
ぽつりと漏れたミゲルの言葉が、最後の余韻に重なった。身の引き締まるわびしさが急に店の中を満たして、彼らの頬に暖かいおのおのの家庭を思い出させる。
 悪友達と気楽に過ごすこのサバトも、もうすぐお開きの時間なのだ。










 




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