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けれどひとりのひと
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 一方グイードは、夜の冷気に身をさらしながら、街灯の下で詩集を広げていた。
 彼はリルケが大好きで、学生時代に買った文庫本をいつもポケットに入れて持ち歩いている。その愛情のために本はもうぼろぼろだ。表紙も背も取れかかっていて、分解してしまわないのが不思議なくらいだ。
 …この本のことを、あのいまいましいシルヴィアが、小鳥の死骸のようだと言ったことがある。人を不愉快な気分にさせれば、彼女はそれで満足なのだろう。あんな曲がった考え方しかできないなんて、哀れな女だ。
 どだい、彼女と意見が合わないのは仕方のないことかもしれない。大学に行かずに若い頃から働けば、ものの考え方が現実的で、潤いなく偏るのも必然だ。そういう世間ずれした連中は意見だけは一人前に好きなことを言うが、自分の理想も、リルケの詩も、高尚すぎて理解などできないだろう。
 怒りを通り越して気の毒にすらなる。
「…そして夜々には重い地球が、ほかのすべての星から離れ…、孤独のなかへと落ちる…」
一編を口ずさんでいると、橋を渡る足音が響いた。はっとして顔を上げる。胸は高鳴り、表情は既に笑いかけている。
 だが、やってきたのは鞄をさげた男だった。暗い失望のうちに、グイードはまた目を本に落とす。そのまま男は行ってしまったが、すれ違う数瞬、不審げな視線をグイードの方に向けてよこした。
 足音が遠ざかってから、若者はため息を一つもらした。もう一時間近くになる。息が白くなるほどではないが、暖をとらずに長時間外にいれば寒いのは当たり前だ。すっかり体が冷え切ってしまっていた。一体自分は何をしているのか、そんな疑問の次、しきりにこすり合わす両手が、覚えず止まる。
 …来ないかもしれない。
そんな恐ろしい予感が生まれた。やがてすごい速度で絶望へと変わっていく。
 …努力も虚しく、僕は彼女に会えないのか。やっと見つけたのに、どうしてもだめなのか。だめならその理由を教えてくれ。どうしてだめなのか、そもどうしてそれならば、僕を彼女と巡り合わせたのか。ぬか喜びさせるためだったのか。
 眉が歪んだ。
…くそ。
お前はそんなことをして、何が楽しいんだ…!
 彼は焦っていた。なんとしても、なんとしても父親が世に出た二十四より先に、自分は認められなければならないのだ。後もう一年もないのだ。それだのに描いても描いても報われない。
 彼は自分に才能がないなどとは信じない。
自分は世に溢れる、無為に時を食いつぶしてばかりの連中とは違う。ものを生み出す力があるのだ。遠くまで行く才能があるのだ。妥協しないだけの心があるのだ。
 …父は弱い、愚かで浮ついた男だった。あんな男に僕は一度たりとも負けたことなどない。けれどそれを「石頭の審査員共」は認めてくれないのだった。
 彼は大衆を軽蔑していながらその一方で、大衆から認められたいという切実な願望が自分の中で矛盾を形作っていることに気づいていないか、または考えていなかった。ただ前を見て、一途に成功だけを、父を見返す日だけを目指して、がむしゃらに両手両足をばたつかせているのだ。
 それでも焦りが頬を冷や汗となって滑り落ちる時がある。最近のように作品がことごとく選から漏れることが続くとなおさらだった。しかしようやくその不運から、抜け出すきっかけができたと思ったのに。
 自らを省みる余裕もない若者に、おあずけなど期待する方が間違いである。グイードはたまらなくなって本の中に顔を埋めた。
 感情のめどがつかなくなってただもう、泣きたくなったのだ。瞼を歪めて、グイードは神を呪う軽率な言葉を歯も折れよとばかりにかみしめる。
 その時だった―――――。
突然、耳元に息がかかった。活字の世界から目を覚ますと、そこに乞い求めていたエレナの顔が、ぽんと差し出されていた。
 驚愕反応でもあるまいが、あまりにあっけない再会だったので、グイードは呆然としてしまった。ふぬけたふうに、ただただ至近距離で少女と見つめ合うばかりだ。
 つい数秒前までの恨みはあれ程鮮烈だったのに、砂に抱き合ったイニシャルのごとく、波に洗われもはや影も形もなく―――――
「どーしたの?」
エレナはもとよりそんな事情は知らず、ただ不思議そうに言うと、彼の頬に手を触れた。
 ひやりとしたその瞬間心の中で、一週間積もりに積もっていた慕情が一気に燃え上がった。衝動に駆られるまま、ほとんど無意識のうちに、グイードは目の前の少女を力一杯抱きしめる。
 鼻から下が金の波の中に埋まり、両の腕がどこまでも閉まった。エレナは細い。膝から本が落ちた。
「どーしたの?」
彼女はこの行為をよくある好意の表現の一つとでも思っているみたいだった。騒ぎ立てることも抗うこともしない。
「やった…! 会えたぞ…!」
少女の髪の毛の香りを全身に心地よく感じながら、グイードはやっとそれだけ言った。
 若い彼には絶望も早く深ければ、有頂天も一気に大袈裟なものであって、瞬きする間に一番下から一番上まで行けるのだった。
 だから彼はその時事実は少女を抱きしめていたのだが、一緒に栄光をも抱いていたのだ。もはや疑いようのない七色に光り輝く未来を、理想の王国を、確かに胸につらまえていたのだった。
 教会の鐘が控えめに鳴って、幸せの絶頂にある彼の耳に、明日まであと三時間、とためらいがちに告げた。





*








【十月四日 水曜日】


 …彼女が私のことをグイードと呼ぶ。その響きは猫の首の鈴のよう。彼女が私の冗談にあどけなく微笑む。それは清らかな月のよう。二つの瞳が私だけをのぞき込む。それはそう、深い藍色のヴェネチアングラスのようだ。
 エレナをモデルに、とにかく描けるだけ描いた。彼女は辛抱して(おそらく)、大人しく欄干に座っていてくれる。もしかするとモデルを結構楽しんでいるのかもしれないが。
 エレナは一個の美だ。朝露にしっとりとそぼぬれた若咲きの赤いばらのようだ。
 体つきはまだ性の匂いを感じさせない。しなやかな柔らかさを保ちながらも、しかし女性以外では有り得ない瑞々しさ。
 その危うい見事な調和は心にも見られる。
少女はまだ甘い夢の世界に生きている。彼女はおそらく精神を病んでいるが、その病気は奇跡を支える細い柱だ。それが折れれば彼女はたちどころに今の魅力を失い、二度と現在のごとく輝くことはないだろう。
 エレナは、週に一度、シスターが決まって「お薬」を飲む夜にだけ、抜け出してこられるのだという。また会いたいと言うと、首を傾げて微笑んだ。
「いいわ。あたしグイードが好きだもの」
と、立ち去り際に頬にキスしてくれた。 
 ああ彼女は、なんと無垢なのだろう。なんと清純なのだろう。神はなんと偉大なのだ。
神よ、私は幸せです。
 私の中に今、創造へのみなぎる力が強靱な根を張り巡らしていて、私に何でもいい素晴らしい仕事をさせようとうずうずしている。エレナは私のミューズだ。 
 私は幸運をこの手につかんだ。なんと遠回りをしてしまったのだろう。今までは闇の中でただやみくもに魂をすり減らすばかりだったが、これからは違う。私には、約束された未来が、微笑みながら手をさし伸ばしてくれているのだ。
 今東の空に朝の先触れが差し込み始めた。
筆を休め、昼まで眠ることにする。
可憐で優しい僕のエレナ、おやすみ。
おやすみ。





*









  あなたのお陰で目が回る
  私はあなたの回転木馬
  お陰でいつもお祭り気分
  腕に抱いてくれるなら
  世界一周もできそな自分



 朝のラッシュがあけて、ようやく店の中も静かになった。老人たちが表に出したテーブルで二三人ひとかたまりになっておしゃべりをしている。今日は惰眠を誘うような好い天気だった。
 ミゲルはシャンソンが好きだ。店の中に自分と店長くらいしかいない時にはよくかける。
「ミケーレ。今日は仕事はどうした?」
 彼の叔父である店の主人だけは、彼のことを本名で呼ぶ。昼用のサンドイッチを手際よく作りながら、声だけカウンターの甥っ子の方へ向けた。
「今日は午後に来てくれと言われてます。なんでも大事な客がアメリカから来るそうで」
「また買い占めに来たのか? 好景気で結構なことだなあ」
 あまり本気でないような口振りで、主人はパンが山と積まれた皿をウィンドウの中に入れる。それから大きな手をはたいて、また次の仕事にかかった。
 ミゲルは顎の下で指を組み合わせ、何事か祈ってでもいるように、じっとしていた。
「アンジェリーナだが」
「はい」
「最近やっと落ち着いてきたみたいだぞ」
「…そうですか」
「やっぱり木の芽時がいかんらしいな」
「……」


  あなたの胸に私の胸を寄せると
  お祭りのざわめきが聞こえる
  もう地球なんてなんの意味もない…


「あっ。いかん」
主人が急に大きな声を上げた。
「市場でブドウを仕入れてくるのを忘れた。時間…」
と、時計を仰ぐ。
「まだやってるな。お前ちょっと行ってきてくれ。頼む」
「はいはい」
 ミゲルはすぐに壁に飛んでいって、上着を羽織る。市場は昼前まででさっさと閉まってしまう。時間があまりない。ボタンも留めずに出ようとしたその時だった。
 表にいた老人たちがわあっとみんなで飛び込んできて、仰天した二人にむかって口々にわめき立てた。
「おい大変じゃあ。絵を隠せ絵を隠せ」
「奴らが来たぞえ」
「腹の中に入れちまえ!」
 受難のユダヤ人みたいなことを言うが、カラスがよってたかってわめいているのと同じで、さっぱり要領を得ない。
「なんだあ? おい、ちょっと静かに…」
 主人が事態の収拾を図ろうとしたその時、開け放してあるドアから、黒い人影がぬっと店内に差し込んだ。
「わああああ、もうだめじゃああ」
背の高い男だった。いや背だけではない。体のそれぞれのパーツ全てが大きいのだ。
「こんにちは」
と、英語なまりのイタリア語で言う。
「ど、どうも…。いらっしゃい」
 男はサングラスを取った。現れた三白眼が、脅迫めいた威厳でもって主人を見下ろす。
「…私は客ではありません。こちらに、アルチバルド・フォルリーニの絵があるとお聞きしたのですが、ご主人。
 わたくし、ベッカーズ・コレクション・ギャラリーのものです。…以前部下がお世話になったそうで…」
主人の顔から、ざーっと音を立てて血の気が引いていった。



  世界一周もできそな自分
  今ほどぐるぐるしないでしょう
  地球は丸いと言うけれど
  あなたほど目をまわさせやしない…






*










 午後六時。
それでどうなったのかという仲間たちからの問いに、ミゲルは黙って壁をさした。
 奥に稀少の存在を誇示していたあの小作品が姿を消し、その不在が額の並ぶリズムに支障を来している。
「…親父さんは?」
アルトゥーロは苦笑しながら聞いた。
「夕方まではもったんだけど、僕が帰ってくるなり奥に引っ込んじゃった。奥で、もう一度連合国と戦争をするとか言いながら泣いてるよ」
 と言うわけでミゲルは、前掛けをつけて今夜はカウンターの中に入っている。
「誰もイタリアなんかと手ェ組んでくれないって。組もうって冗談でも言ってくれたの、キタノ・タケシが最初で最後だよ」
 カルロは頬を両手で挟み込んで顔をつり上げた。成立後よりも成立前の歴史の方が遥かに長いイタリアの中でも、特にヴェネツィア人は国への帰属意識が低い。彼らの忠誠心は基本的に国単位ではなく街単位なのだ。
 「バランスが悪くなったねえ。何か代わりに吊したら?」
そう言うアルトゥーロは、先程から珍しく旅行ガイドなどをめくっている。
「今更ヴェネツィアの案内なんか見てどうするの?」
シルヴィアがワインを片手に彼をつついた。
「いや、次の火曜日にお客さん来てね、街を見せてまわらなきゃならないもんで…」
「仕事関係?」
「うんにゃ。全く関係なし。…母の知り合いだよ。多分、恋人かな。カンだけど」
「じゃあ舞台関係者?」
「映画監督」
「ふうん」
と、別の話になってしまう。アルトゥーロの提案はカルロの青い目が引き継いだ。
「そうだなあ。グイード、何かあれくらいの大きさの新作ないのか?」
 グイードはカウンターの一番奥で、新聞を読みながらビールを口にしていた。とは言っても彼は酒を好まないので、ノンアルコール・ビールである。カルロの言葉に、
「え?」
と、やや芝居がかった感じで反応する。彼は今までの会話を全て聞いていたのだ。あえて初めて気がつくような振りをしたのだが、いささか妙な感じが残った。
「何?」
自分は知っているということを頭の中で充分意識しながら質問する。カルロも、彼は聞いていただろうと思いながらももう一度繰り返した。
 「あれくらいの大きさで、新しい作品ないのか? 壁に掛けたらいいようなやつ」
「あー…、そうだねえ…。ラフデッサンならあるけど…」
照れ隠しに、耳の後ろから髪の毛に手をからめる。実はエレナを描いたものなのだ。
「商売用じゃないのか?」
「いや…、違うよ」
「じゃあ持ってきて飾れよ」
「あ、うん。それじゃ明日持ってくるよ…」
 グイードは頷いたが、少々複雑な気分だった。エレナを写した絵は、彼女自身と同じように、多くに見せつけたいような、誰にも絶対に見せたくないような二つの感情を常に同時に呼び起こす。
 夕方店に入ってきて、壁に空いた白い穴を見つけた時から、彼はどきどきしていた。秘密をばらさねばならない瞬間が来るような気がして。けれど、一旦承諾の返事を吐き出して少し経ってしまうと、今度は予想される賞賛の声に早くも心が踊った。実際、その絵は今までのどの作品よりも自信があるのだ。彼はわくわくしてきた。
「――――それ、例の女の子の絵?」
核心をつく言葉は、二つの頭を飛び越して突然、シルヴィアの唇からもたらされた。
「闇夜で歌うくだんの子?」
 グイードは途端に不快な気分になった。彼女の口から聞くエレナの名は、わけもなく汚されている気がする。
「…そう」
不愛想に返事をすると、目を伏せてビールを舐める。舌をのたうつ苦みだ。
 早々と交信うち切りを決め込む彼に、彼女は最後に一声投げる。
「ふーん。やっとこさご対面できるわけね。楽しみにしてるわ」
 確かにシルヴィアの口調には、なにか人に引っかかりを感じさせるようなところがあった。からかっているような、挑発しているようなそんな棘だ。いつものことながらの東西冷戦に、残りの三人は互いに目を見合わせる。
 海は霧が出ているようだ。ちょっとの間生まれた沈黙を、遠く霧笛の音が埋めた。










 
   



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