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NONSENSE >>2<<





 ユリカは自分をフリーターだと言っていた。うすぐらい照明の下だったけれど、彼女が美人でないのは一目で分かった。
 まぶたがはれぼったい一重で、よく整形外科にサンプルで乗っている顔写真の、「処置前」のあれだ。やたらとマスカラをつけているのが、かえって気の毒な程だった。加えて鼻は低いし唇は薄いし、どっちかって言うとブスの領域だろう。
 その夜彼女はピンクのキャミソールを着ていて、色はともかく、手足はそれなりに伸びていた。売り物になるのはこの体つきだけだなと思ったことを才谷は覚えている。
 彼女はこれまたひどく下手だった。アメリカに渡って骨の髄まで功利主義に染まっていた才谷は、以後二度と口車に乗って新人など試さないことにしたのだ。
 不器量なユリカに会ったのはそれきりで、それ自体半年は前のことである。そんなわけで、彼は野村美香の顔を見ても、誰のことだか思い出せなかったわけなのだ。
 第一あの雰囲気の中で会うのと、こうやって講義室で向かい合うのじゃものが違うんだよ。と、才谷は思う。
 ああいう店の中じゃまるで女は、皮をかぶったダッチ・ワイフに見えるものね。


 彼女は今日、前から三列目の一番左の窓際に座っている。風俗アルバイトどころか優良生の座る場所だ。
 もっともノートはほとんど取っていないようで、とにかく顔を上げて話を聞いている。理解しているのかは…、正直怪しいところだが。
「斯様に欧州においては通貨統合が果たされたわけだが、しかしながらこれ以上の統一が推進されるかは微妙だと言える。特に懸案の農業問題や、欧州連合自体の拡大による―――」
 あの後、聞くともなしに研究室の学生に尋ねると、彼女は埼玉のお嬢なのだという。親は銀行のエリートか何かで、お嬢様学校をエスカレーターで登ってきて、うちの大学の中で一番偏差値の低い学部にいる。
どうりでバカなわけだ。
「…では、次回の講義では欧州を下り、アフリカ地域を扱う。北側の資本投下の現状と今後を重点に、テキストを読み進めておくこと。本日はこれまでとする」
 ブチッと、マイクを切るよりも早く、教室が動き出す。彼は自分の講義が人気があることも、その理由も知っている。何よりも裁定が甘めであるため。それに尽きる。
 資料をまとめて彼も立とうとしたとき、講義台の前に、何を思ったのか彼女がやって来た。
「やあ」
と、才谷は気軽に挨拶した。
 彼女はジーンズのジャケットに花柄のぴらぴらしたスカートをはいて、趣味の悪い紫のミュールを引っかけている。流行なんだろうが、ポリシーのない惨めな格好だ。
「どうも」
「こんな一二年学年向けの概論をまだ取ってんの? 君はだいたい、学部は社会学じゃなかったっけ?」
「…中学の教面を取るのにいるんです」
「はー、教面。いいんじゃないの」
 いい加減に言いながら、こういう世間ズレしてない阿呆な教師がいるから世の中が乱れるんだろうなと思う。
 廊下へ出た。彼女も黙って後ろに続く。どこか階段あたりで別れると思っていたのだが、何処までも着いてくる。とうとう研究室の前まで来て、才谷助教授は振り向いた。
「なんかまたご用でしょうか?」
「先生、私今日来る途中で丸井行ったんです」
「ああ、そっかバーゲンか。いいのがあった?」
「ええ、でもちょっと手持ちのお金が足りなくて」
と言って、美香は口を閉ざした。
「……」
 才谷は、いつも笑っているように見える、独特な雰囲気の黒目がちの目で、彼女の顔をじっと見た。眉間だけがまたえらく曇っている。 どういうわけだろう。美香は今日は動じなかった。才谷の乱暴な視線に会わないように、自分の視線を上手に顎の方へそらす術を身につけていたのだ。
――――子供は日々小賢しく成長する。なるほど。
「いくら?」
 美香の目がちょっとさまよったかと思うと戻ってきた。
「…五万…」
「五万!」
 相手の反応に、美香はびくりとする。
「マジで?」
と才谷が驚いたように聞いた。それで彼女は勢いを掴んだ。きっと顎を上げる。
「マジです」
 ところが次の瞬間、才谷の唇から漏れたものは、
「っは…」
冷笑、だった。
「……!」
美香は内臓から凍り付いていくような気がした。
「あ、ごめんね」
 慌てて才谷は手を振ったが、誠意はない、口元はまだにやにやしていた。彼女の表情が、思いだしたようにめきめきと険しくなる。
「あーもう、そんなにすぐ怒らないでよ。精神年齢の鑑定サイト行ってみた? ちなみに俺は二十五とかだったけど、君はさらに低そうだよねえ」
 どうでもいいことを言いながら、彼は背広の内ポケットからヴィトンの財布を取り出した。縦の溝から五枚を引き抜くと、二つ折りにして右手でつまむように持ち、彼女に示す。
 才谷の長い指に挟まっていると、一万円札は腐った玉葱のような色に見えた。
「人が…、来るじゃないですか」
 美香の手が、それを受け取ろうと持ち上がった瞬間、才谷の手はその隙間に割り込んで、キャミソールの胸元へ金を放り込んだ。
 ぱり、と札が鳴る。
「ったない…!」
美香が顔をしかめて、中に手を入れた。ブラのところに引っかかっていたらしい。すぐに拾い上げてきて、皮肉に唇を曲げている才谷を睨んだ。
「やめてください! お札って汚いんですよ」
「あそこじゃこれがルールだったじゃない」
ジャケットの中にまた財布をねじ込む。
 それから、ふいに退屈でもしたような表情を浮かべて、才谷は言った。
「―――君の爆弾は小さいね」
美香は、自分が何を言われたのか分からないらしかった。ただ、彼の態度から軽蔑されたことは感じたらしい。目が怒りにつり上がる。
 だが、才谷の方はもうそれに取り合おうとしなかった。
「引き取りなさい。僕は本当に忙しい」
 やや手荒に彼女の肩を押しやると、才谷はドアの施錠を解き、さっさと研究室の中へ入った。遠慮なくぴたりとドアを閉ざし、内側からすぐ鍵をかける。
 やーれやれ。と、息を吐いて、文献を机の上に投げた。携帯電話に、着信がある。開くと柴崎嬢からだった。彼女にはすぐに折り返しの電話をかける必要がある。
 発信音を耳に当てながら、椅子の上で足を組んだ。そして埃だらけの靴先を眺めていると、相手が電話に応えた。才谷は顎を上げる。
「…あ、もしもし。どーも、そうだよ。うん、電話をどうも。お帰りなさい。お母さんもご無事で何よりでした。
 …あ、ごめんね。少し授業が長引いてね。うん、遅くなってごめんなさい。
 で、パリどうだった? え? すごい買った? また? …ははは、もう病気だね。
 あー、うんうんエルメスね。ああ、あれの色違いがあったの。どんな色? ふーん。で、いくら? 七千フラン? まあお得だったね、それは。うん。ああ…」
 貧乏くさい灰色の椅子を、無意識のうちにきいきいと左右に振っていた彼は、ふいに、その動作をぴたりとやめた。
「うん…、うん…、パッシーのね。ああ…、うん、怖い太ったマダムのいるとこでしょ…」
 卵色のドアの、灰色の円い取っ手が音もなく、動いている。才谷の眼鏡の下で瞳が、動物のように光った。
「…え、あの店を右? ちがう? あの赤い看板出してるとこじゃないの?」
 右に行き当たるが、錠が下りているのだ。開くわけがない。それも分からないで、今度は逆へ回る。
「…左。はー、そんなにおいしかったの? コンソメが? ふーん。じゃ今度は一緒に行こうか」
開きはしない。開くわけがない。
 何をしてるんだ、あの女は。才谷は笑った。声が出ないように三日月の口元で笑った。
「…う? 今日? 今日はね〜、ごめん。ちょっと無理かな。うん、今度ね。はい、はい。うん。分かった。
 じゃ、お父さんお母さんによろしく。うん、はーい、じゃあね。ばいばい」
ピ、と電話を切って、才谷は面白そうにドアを見た。もう、何の気配もない。美香は立ち去ったようだ。
 携帯を机の上の充電器に戻すと、才谷はぼそりと言って、もう一度密やかに笑った。
「バーゲンとはね、全く、お似合いですなあ」





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