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NONSENSE >>3<<






 三日後、美香はなにか馬鹿みたいにぴかぴか光るプラダの鞄を持って、図書館の中で、一人で本を読んでいた。
 才谷は借りだしていた洋書を書棚に戻しに(本来ならば司書が戻すのだが、彼はあまりに頻繁且つ大量に本を出し入れするものだから、自分でやれ、と言われている)来て、ふと通路の先に彼女を見つけた。そしてやっと自由になった右手で、眼鏡を押し上げる。
 彼女は、本棚の間に設置された一人用の学習机に座り、前屈みになっている。その膝の上にけばけばしいピンクのプラダが見えた。
 世の中は実に分かりやすく、そして容赦がないと才谷は思う。これで何か趣味がいいとか、一つでも取り柄があれば救いの世界なのにね。
 ダメなんだろうな。実に根本的な問題なんだ。頭脳というのはいわば人格のメインフレームだから、そこが不健全でありながら個々の端末が良質なわけがないわな。証明終わり。
 読んでいる本は…。あの規格は絵本じゃないか? おいおい、まんが以前なのか。本気でバカだな。
「やあ、どうも」
 手のひらサイズの絵本に一心不乱だった彼女は、びくっとして顔を上げた。瞳が少し潤んでいるのは、後半にさしかかったシンプルな物語のせいなのだろう。
 勝手に屈み込んで題名を見る。
「どこまでもいっ…しょ、はー…」
時が止まってしまったのは、きっと自分が冷たい人間だからなんだろう。事実彼女は一分前まで、お約束満載のひらがな絵本に完全に同調していた。
「…まあいいけどね。それも誰かに買ってもらったの? それとも、男の股ぐらにに顔突っ込む尊い労働の所産?」
「……」
 ぴくぴくっと、美香の頬がひきつった。精一杯軽蔑の眼差しを浮かべようと、悪戦苦闘している。見た目にはもう充分、「痩せ女」みたいな顔になっているのだが、彼女的にはまだ足りないようだ。多分この間の仕返しをしたいのだろう。
 才谷はちょっと頭を反らし、ポケットに両手を突っ込んだ。
「何かおかしな事を、言いましたかね? 今日はお金はいらないの?」
 彼女は汚い口元で、破り捨てるように、一言言った。
「サイっテー…!」
 才谷の表情に変化はなかった。が、立ち上がって行こうとする彼女の先、ぴょんと道化じみて道を阻んだ。美香がぎょっとしたほど軽い仕草だった。
「誰がサイテーよ、君」
 手はポケットにいれたまま、才谷は足をちょっと拡げて書棚と書棚の間を埋めていた。口元には相変わらず締まりのない笑いが漂っていたが、妙な気迫に圧されて美香は微かに身を縮める。
「…なんかしたら、人呼びますよ」
それを聞いて、才谷はうつむき、くつくつ笑った。
「呼びますか。ふうん」
 ゆっくりと、彼は顔を起こした。その眼光が非常に厳しかった。
「…サイテーなのは君でしょ、野村さん。どうしたらそんなにリアルにサイテーになれるのか教えてもらいたいくらいだよ。水商売してるくせにそれをカタに人を強請るなんて、それこそビッチって言われる種類のお方のすることだよ」
 じり、と才谷の右足が一歩進んだ。スペースを保とうと、美香の体が後退する。刺激に弱い女と見えた。もう半分、恐怖に捕らわれかけて、もともとの顔がさらに醜く歪んでいる。
――――そう、こいつは弱いんだ。メチャメチャに弱いんだ。体中の何処にも一片の筋肉もない。あるのは腹やら腕やらに贅肉だけ。鍛えようにも根性がない。痩せようにも気力がない。汗水垂らして働く甲斐性も、欲望をはねのける力も専門書一冊読む能力も、向上心も反骨心も何も、何もない。
 そのくせ、不細工な顔をして、大の男をゆすりにかかる。腹が立った。
 日本というところはバカ平和なところだ。こんなのが雨後のタケノコみたいにあちこちでにょきにょきしてやがる。
 才谷は口を開いた。
「一体アルバイトで何学んだのさ。臨時雇いでも君だって風俗嬢でしょ。やって良いことと悪いことの区別くらい教わってこなかったの。
 その上自分の身の上だけは何とかなると思ってるの。人呼べば何とかなると思ってるの。それとも俺に相応の社会的地位があるから、何とかなると思ってるのかな。
 何ともならないよ。人来ても何ともならないんですよ、野村さん。どこをどうしたらそんな風に勘違いできるのかな。
 君はきっといいご家庭に育ったんだね。多分…、五六回レイプするといいんだろ。自意識が実力に見合うくらいまで」
その言葉に、進んでくる才谷に、美香はぞっとした。
「や…来ないでよ…」
 一歩、また一歩と彼女の体は逃げ続けた。がたがた震える左手から「どこまでもいっしょ」が床に落ちた。次の一歩で、才谷はそれを踏みつけた。
「最初に下手に出たからもうずっと大丈夫だとか思ったのかな。君は想像力が足りないよね。いきなりこんな風に相手が豹変するとか、反対に危害を加えられるとか、思いも寄らないってわけですか。
 それとも何、スタンガンでも持ってる?」
 美香の背中が窓枠に触れた。どん、と間髪入れずに才谷の体が彼女を押す。全身で押す。精一杯首を反らして、彼女はなおも逃げた。フレームが追う。
 体をよじった拍子に、今度はプラダが床に落ちた。才谷はそれを右に蹴り飛ばし、さらに体重をぐいぐいとかける。彼女の胸を、下腹を、言葉を押しつぶそうとする。店ではこんなに乱暴をしなかった。
「や…やめてっ…!」
 やみくもに抵抗する二本の手のひらを上手に避けて、才谷の唇が彼女の耳に達した。斜めになって息を呑む美香の鼓膜に、次の瞬間、こんな言葉が聞こえた。




「バカ女」





 いきなり、才谷は体を引いた。バランスを崩して、美香が無様に尻餅をつく。
 窓の下にうずくまった彼女が、ぜーぜーと息をつきながら顔を上げると、自分を追いつめていた男はもう興味をなくした背中で、どこかへ行こうとしていた。
 本棚と本棚の間を抜けて、それなりに大柄な体が、自分から離れていく。白い床のあなたに、絵本が。こちらに、プラダが転がっている。その突き当たりに美香は、ただもう呼吸を、していた。
――――怖かった。怖かった…。
 心臓がどきどきして、指の感覚が麻痺していた。
 ただ耳に、そんな感情とは無縁な言葉、
バカ女。
という声だけが、貼りついていた。


 「才谷さん! 才谷さん!」
遠くで、誰かがそう呼んでいた。
「はい?」
 男がやはり、もう見えないところで明るく返事する。
「雑誌社の人が、探してらっしゃいましたよ」
「あ、そうですか。もう来たのか、どうも」
「いーえ、がんばって下さい」
「何をがんばる?」
笑い声。
「インタビュー、でしょ?」
「まあ、多分」
 遠ざかっていく革靴の音。
――――バカオンナ。
 一重の、まぶたの下で美香の眼球が右に動いた。それからまたゆっくりと戻る。その動きには、どこか力がこもっていた。
 美香は、四つん這いになるとプラダに手を伸ばして、立ち上がった。歩きながら、絵本も拾った。それらを小脇に抱えながら、大股で図書館の出口へ突進した。彼女の勢いにびっくりした数名の視線が、その足音を見送った。


 鼻歌を歌いながら中庭を歩いていた才谷は、突然野村美香に後ろからすたすたと追い抜かれてびっくりした。
「え? おい」
歩調を早める。すると、美香は小走りになった。
「何だ…?」
 いきなり彼女が走り出した。ミュールでもって全力疾走だ。才谷はあっけにとられる。
 ――――が、美香の行き先にはたと思い当たり、顔つきが変わった。
「あ、まさかお前!」
 慌ててばたばたとその後を追い始めた才谷の姿を、回りの学生が呆気にとられて眺めていた。



 応接間で待たされた挙げ句、突然見知らぬ女学生の乱入を受けた「雑誌社の人」こそいい迷惑だった。
 目をぎらぎらさせて、髪の毛はおどろに、呼吸はむちゃくちゃに乱れた
その生徒は、化粧崩れしたしたすごい顔で、
「才谷助教授は風俗店に出入りしたりするような男女差別者ですから、記事になんかしないで下さい!」
と、叫んだ。
「えっ?」
 生真面目そうな雑誌社の彼は、発言の突拍子のなさにと言うよりも、この事態そのものに驚愕して飛び上がった。
「な、何のことですか?」
女子生徒はもどかしげに地団駄を踏んだ。
「私は、才谷助教授をサイテーのセクハラ野郎だって証言できるって言ってるんです。告発して下さい!」
「えーと、それは週刊誌部門の仕事なんですよ…」
 勢いに圧されてつい、彼が入社後五度目の的外れな返答をした時だった。彼女に負けず劣らぬ取り乱し方で、才谷が飛び込んできた。
「す、すいません児島さん。お待たせしちゃっ…」
と、せき込む。それから両手を膝について、胸を鳴らしていた。
「い、いえ…、お構いなく…」
「この女、…降りる時エレベーターのボタンを全部押しやがって、もう、仕方がないんで、階段で来ましたよ。もー…」
「そー、そりゃ、また…」
 才谷の研究室は6階にある。児島氏は汗だくの彼を口を開けて見ていたが、急に右腕を強く引っ張られた。
「助けて下さい、私脅されてるんです! この男、私が風俗店でバイトしてたの内緒にする代わりに、私のことレイプしようとしてるんです!」
「…君を?」
 エコ・ブレイン・ジャパン誌編集の児島氏は、混乱のあまり一時的に正直になっていた。
「何をバカ言ってんだ。野村君、落ち着け」
「ホントです! さっきも図書館で襲われそうになって!」
「と、図書館?」
児島氏びっくり。
「奥の方で無理やり押し倒して襲ってきたんです!」
 その言葉に、才谷が気色ばんだ。
「襲うだ? 誰がお前みたいなブス襲うか!」
「ほら分かったでしょ、こいつが男女差別してるって!」
 指さされた才谷は口を開ける。ぽかんとしていた。
「男女差別だと? 男女差別……?」
やがて耐えきれなくなったらしく、自分の膝を叩いた。
「…っこのどうしようもないバカ女! 男女差別だと? いつからそんな話になったんだ!」
「同じことじゃないの!」
「違う! 単に俺が風俗店に行って女を買ったってだけの話じゃねえか!」
「それよ! 買春したくせに!」
「お前こそ売春したくせに!」
「それには事情があったのよ!」
「売る方は無罪で買う方が悪いのか! それこそ男女差別じゃないか!」
「うるさい発情期中年!」
「金まで要求した娼婦の分際で!」
 「あのー…」
児島氏が手を上げて、発言したいと示した。肩で息をしながら言い合いをしていた才谷は勢いで、
「何だ!」
とにらみつける。
「あ、あの、すいません。あの…、結局、…今日は、もうインタビュー無理ですよね……」
「……」
 その後二人は急に素に戻ったのだが、やはり児島氏はそそくさと帰っていってしまった。
 その日の怒鳴り声が廊下へ漏れだしていたせいで少し噂が流れ、才谷は数日後、柴崎学長室に呼び出された。





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