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Sentimentalizm ::::::
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「けふはとつても楽しかつたわ」
 ちょっとした買い物の後、青葉台の秘密のリストランテのコースを食し、旧山手通りまで人のいない道を歩いた夜の終わりに、柴崎 孝子はそう言った。
 渡る春の風の中をゆっくりと進みながら、才谷は優しく微笑む。
「そう、そのやうに言ってもらえると嬉しひよ」
「いつもありがたう、才谷さん。お仕事お忙しいのは分かるけど、きつとまた誘つてね」
ぶら下がった右腕に少し力を掛けて、彼女は甘えた声を出した。
「そうだね。今度はお和食でも食べに行こうか」
「わあ、いひわね、嬉しひわ。きつとよ、約束よ。
…才谷さん。孝子に寂しひ思ひなどさせないでね」
―――――断っておけば、孝子は昭和の終盤にきちんと生まれた女である。別に年寄りなわけぢゃない。
 ただ育ちのせいなのか、一種丁寧でしかつめらしい言葉遣いをするので、才谷はいつも頭の中で旧仮名遣いに置き換えることにしていた。そうすると彼女と同じ言葉を使おうとする時、うまくいくのだ。もっとも、真面目にやればやるほどおかしくなってくるのでバランスが大切だが…。
 「そろそろ帰らないとご両親がご心配なさるね」
「…さうね。つまらないけれど、でも帰るわ。送つてくださる?」
「ええ、勿論」
 孝子の、つまり柴崎学長の家は松濤にある。静まり返った高級住宅街を、十分ほど歩いて送っていった。
「お寝みなさい、才谷さん」
「ええ。それじゃ、また…」
「御機嫌やう」
 そうだ、忘れてた。才谷は笑って振り返る。だが、自分の感情を極力表に出さないように、注意深く、
「…ごきげんよう」
と、丁寧に挨拶を返した。


 「――――――っは……!」
毎度のことながら笑っちゃうね。
「ごきげんやう」だって。ライオンか、お前は。
 かなりの距離を取ってからようやく才谷は思う存分笑い出し、闇に向かって一人つっこみを入れた。
 他のことは全て慣れたとは言え、どうもあの家のあの挨拶だけは未だに横隔膜が震えて困る。特に、最初の「ごきげんやう」はともかく、気が抜ける最後の「ごきげんやう」はつい失念してしまうことが多いのだ。その度にひやり危ない思いをする。
 自由になった才谷はそのままBunkamuraの方へゆっくりと歩き、東急デパートの、既に閉じたシャッターの前を渋谷駅へと向かった。ここいらはちょいと入ると下世話なホテルと風俗店が軒を連ねる薄暗い通りだ。
 目立たないがなまなかでは叶わぬ高級住宅地松濤を右に、少女達が春をひさぐ(と言われている)下品なネオンサインを左に抱えているところに、この地区の面白さがある。
 分かっているさ。
才谷は道ばたにはみ出している看板をちょっと懐かしそうに見やってポケットに両手を突っ込んだ。
 あのしわぶき一つ漏れてこない家々の背面に、ソファのきしみや臭いまで漂ってきそうなこの赤裸等が隠されていることは実に象徴的だ。
 夜は同じさ。何処も同じだ。
才谷は本屋の前で流れているタクシーをつかまえると、家路につく。後部シートで時計を見ると、午後十時半といったところだった。



 「ただいま」
玄関で傷が無いか点検しつつ皮靴を脱ぐと、才谷は中へそう声を掛けた。だが、リビングにいるはず(テレビの音が聞こえる)の相手は、拗ねて一言も返してこない。
 才谷は苦笑をすると、意地悪く時間をかけて背広を片づける。手を洗ったり、喉を洗ったり、とにかくありとあらゆる用事を済ませてからやっと居間へ移動した。
「美香ちん、ただいまった…あらー、ブタになってる」
 マンションの合い鍵を持つ女、野村美香は、ソファで頬が45%増しになっていた。金を掛けて色々改造しても、全ては無駄な投資なのだとこういう瞬間に思い知らされる。
「ごきげんようと言えとは言わないけどさ、挨拶くらいしなさいよ」
 ライオンにブタか。動物園だな。もっとも美香はここのところ努力して、ずいぶん痩せたのでブタは可哀想だ。
「…今日は私にくれるって言ったじゃない」
ブタさん、やっと口を開いた。彼女はからめ手なんて言葉はご存じない。とにかく胸の内を吐き出すのに精一杯なのだ。
「遅くなって悪かったよ。でも仕方ないでしょ。孝子さんはご存じの通りああいうお人なんだから」
「……」
 テレビが後ろでやかましいので、才谷はテーブルからリモコンを拾い上げ、断りもしないで即座に電源を落とした。
「ちょっと、あたしそれ見て―――――」
続けて文句を言う美香の体に二本の腕を通し、是非も問わずに抱き上げた。
「ちょっと才谷さん! あたしの話聞いてんの?!」
「あんまり」
 重いのに暴れる。才谷はそんなに鍛えた男ではないので、隣の部屋へと限界に急かされた。ベッドに到着した時には腕が痺れて、荷物もろとも前に突っ込むような無残な始末になった。
「やだ、お酒臭い…。もう、ちゃんと話をさせてよ!」
「俺は今、約束の履行で一杯一杯」
 自分を押し返そうとする本気でない手を、なにしろたった一つの夜を二人の女にあげる約束をしてしまった彼だ、簡単にすり抜けていく。
「君に借金こさえるのヤだし、それに」
「もー、やだ……」
「今、汚い言葉はあんまし聞きたくないんだ」
 それにしても自分の買ってやった服っていうのは構造が知れてていいな。どこにボタンがあるかすぐ分かる。
 屈み込むと赤ワインが今更回ってでも来たのか、上気した才谷は全身に痺れるようなめまいを覚えた。それをごまかしながら、
「…あー、美香ちやん。悪いのだけれどちょつと、右足を挙げてくれまひか?」
などと言ったその台詞に、下で彼女は小さな目を剥く。
「…ったいなんなのよ、その宇宙語!」







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