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Sentimentalizm ::::::
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 女二人と同時に付き合う―――――つまり二股をかけるということは、世間様からは正座で怒られる行為だが、かける側からしてみれば癖になりそうなくらいの面白味と益がある。
 何よりそれぞれの女のことがよく分かっていい。比較対象が生まれると、今まで目に付かなかったところまでがくっきりと浮かび上がってきて実に公平になるのだ。
 柴崎孝子。
これは学長柴崎の長女で、栄養の行き渡りすぎた体に、実は抜け目無い頭脳を持った女である。子供の頃から何不自由なく育てられたことに不自由を感じるような迷いはない。自分の満足にどれほど金がかかるか、彼女はきちんと知っているのだ。
 多くの金持ちがそうであるように、彼女も礼儀正しいけれども優しい人間ではない。滅多に父の大学に遊びに来ない理由を尋ねると、おっとりと、お洋服が汚れるものと答える。
そういう女だ。
 今、才谷は彼女の婚約者といった立場にいるが、公式には発表していないし、彼女と寝てもいない。このあたりもこのお嬢様の油断ならないところで、どんな選択をしようとも、彼女は必ず退路を一本確保しておくのである。
 才谷は彼女をえげつない、などとは思わない。自らが欲するものを知り、それに躊躇もなく堂々と手を伸ばしに行く彼女の育ちの下劣な良さを、好ましくたくましいと思う。自分が何者であるかを直視しないで、無益な約束を重ねる女よりずっとましだ。才谷は意地汚い貴族である彼女の本能を尊敬し、見習いたいとさえ思っていた。
 さて、いま一人。
これは野村美香という学生で、不細工で夢見がちで頭の悪い女である。話していても、よくそんなに次から次へと妄想が膨らむものだと言うくらいに、思考が幼稚である。
 彼女とはおかしないきさつでこんな仲になった。出会ったところが風俗店だったと言えば彼女の馬鹿さ加減が分かるだろう。
 そんな彼女にだっていいところはあって、彼女はとにかく相手につくすのだ。一見わがままに見えながら、実際には何一つ受け入れられぬことなどなく、自分が二股の一方であることも知っていて文句も言っているが、それでも甘んじてその位置に留まっている(孝子には美香のことなど内緒である)。
 きっと自我が不安定なのだろう。相手に棄てられるのではないかという恐れから、何でも言うとおりにしてしまうのだ。
 こういう女のいる家で虐待が起こるんだよな、と彼女の語る、夢の家庭の話を聞きながら才谷はよく思う。
 ところでこの美香とはよく寝ている。孝子は気も体も許さないから、密かに美香が彼女の代わりになっている夜もある。暗くしてしまえば顔が分からないのが夜のいいところだと、不誠実な彼は笑う。
 そんなふうにして才谷は半年の間、いい目を楽しみ、不道徳な一種の道楽に耽っていた。一時は、常時女が二人くらいいた方が体にいいなあ、などと真面目に考えていたくらいだ。
 だが、やはりそんな状態は長く続かなかった。美香の方はともかくとして、柴崎サイドが焦れ始めたのだ。
 未来の婿殿は一向に結婚の話を現実に進めようとはしない。どれほど時期や内容については一任する、とあらかじめ言われていたとしても、才谷の動きはいささか緩慢に過ぎた。
 柴崎側が彼の駒としての有効性を疑い始めたのも無理はないだろう。柴崎の娘と結婚する男はやがて大学の次期学長として、言われなくとも彼の望みを知り、叶えていく才知がなくてはならないのだ。
 そして三月の終わり、業を煮やした学長初老が動いた。大学の私室でのんびりしていた何も知らない才谷のもとに、ふらりとモヤシのような若い男がやってくることになったのである。



「お初にお目にかかります。今度こちらでお世話になることになりました、朱江、言います」
 才谷は入ってきたその男が、関西弁を繰って自己紹介を始める前からアンパン口を開けていた。ずれやすいトラッサルディは無論鼻先まで落ちている。
「才谷さんにはずっとお逢いしてみたい思おてました。いたらぬ点、数々ございますけども今後よろしゅうお願いいたします」
 ひどく柔和で、どこか非現実な程の挨拶と共に名刺を差し出す。表に漢字で朱江数矢、裏にはAKAE KAZUYAとあった。だがそんなものを見せられる前に才谷は、目の前の男が誰であるのか骨の髄までよく知っている。
 だから椅子から立ち上がって、
「…あらま」
彼の驚きは素直に脳天へ抜けた。
 そう来たか…。
名刺が受け取られないので、目を丸くしている朱江へずけりと尋ねる。
「柴崎さん、幾ら払った?」
 朱江は清かな目元をした南方系美男だった。だが、惜しげもなくまん丸く崩した目で瞬きすると、あっさり、
「三ケタ後半」
と、白状する。
「冗談のつもりで吊り上げたらそれでもええ言わはって」
「そりゃーまた、えぐい商売したね」
 才谷はやっと胸ポケットに手を入れ、名刺入れを取り出した。自分のが下になるように手慣れた動作で名刺を交換する。
「君は僕の対抗馬というわけだ。ま、お互い卑劣な手段をつくしてがんばろうね〜」
 受け取った名刺の白い角に、四分の一切り取られた男の瞳孔が下まぶたで笑う。さすがに頭のいい男で、つまらない説明など必要なかった。
 朱江は国内外の学術雑誌、経済雑誌で毎年山のように論文を発表している日本経済学界の駿馬である。特にここ一、二年の研究活動はその質量共に群を抜いて優れていた。才谷と同様、現在の地位は助教授であるが、必ず三十を迎える前には教授になるであろうと囁かれる噂の、その本人である。
 生きた朱江は写真で見るよりもずっと若く、優雅だった。その美貌もトーキオの男のようにきざったらしくない。気品のある細い目は笑うとほとんど線になって、まるで眠たいシャム猫のようだ。
「そうやな。どうせここまで来たんやから、そうせなつまらんかなあ」
 才谷が最初から社交辞令を水に流したので、彼の方もそれに従って年齢相応な、砕けた物言いになった。
「でもほんま言うと才谷さん、俺、柴崎さんのゼニアより、あんたのD&Gの方が好きやねんけど」
そう言って腕を組むお兄さんはCalvinKleinだ。
「あれ、褒めてくれるの?」
「だって俺ら二人が相争ったところで、柴崎のおっさんと嬢ちゃん悦ばせるだけなんやろ。何もいがみ合ってもええことないんとちゃう」
 「孝子さんはともかく」
才谷は痩せすぎの顎を仰向ける。むき出しになった喉仏が言葉を発する度、上下した。
「うーん。おっちゃんの悦んでいるところなんか見たくもないなあ」
「せやろ? 俺としてもおっちゃんより、ものの趣味の通じる奴と組んだ方がおもろいわ」
 才谷の頭が素早いそろばん勘定から帰ってきた。がくん、と引いたところから上目遣いで彼を見やる、その口元は笑っていた。
 「…それはとっても、いい話だね」
どちらにせよ、この男と連絡を取っておくのは悪いことではない。柴崎の掌の中で共倒れするなどという無益な結果だけでも回避できるだろう。
「…じゃ、取り敢えず今晩はお暇かな?」
「あ、俺、青山行ってみたいわ」
「いいよ。じゃあ6時にまたここで。仕事を片づける」
「わかった」
 話はついた。朱江は軽く手を上げて私室を出ていく。他にも挨拶に回らなければならないところがわんさとあるはずだ。
 ところがその時、どことなくやんわりとした仕草でドアを引こうとした朱江の西が、外から先に急いで押された東の直線と危うくぶつかりそうになった。
「っと…」
「あ、ごめん…!」
朱江の目に、女の緩いウェーブが映る。
「…え?」
 彼女の方は、自分が扉をぶつけそうになったのは、てっきり才谷だと思っていたらしい。びっくりする一重の目が彼のともろにぶつかった。
「……」
「……」
 「野村くーん」
扉のところで二人してゾル化しているので、才谷は彼女の方を呼んでやる。
「朱江さんをお通ししなさーい」
「あ、はい…」
「すまんねえ、朱江さん」
「気にせんでええ」
どこか素っ気なく言って、彼はするりと出ていった。
 体を入れ替えるようにして入ってきた美香は―――、まだどことなく不愉快を引きずっている様子だった。
「…誰、あの人?」
「今度新しく来た教官。京大のエリートだよ」
「ふうん」
 美香は説明を求めたくせにどうでもいいような相槌を返した。
「なんだか、ヤな感じ。あたしあの香水嫌いかも」
「相変わらず勝手なこと言うね〜。君にはそんな感想述べる資格なんか無いって再三言ってるでしょ」
 才谷のたしなめなど、彼女という柳には風程度のものだ。ふんと低い鼻を鳴らして、自分の用件を押し通す。
「あのね、今晩のことなんだけどね…」
「あ、ごめん」
机につきながら、才谷はさっさと遮った。
「食事キャンセル。別の用事が入ったから」
 くしゃ、ときらめき始めた彼女の瞳が潰れる。
「…なに、それ?」
「だからごめんって。新しい人が来たんだから接待しないといけないだろ」
「あの男と行くの?!」
美香は傷ついたらしかった。大袈裟に眉をひそめる。
「ちょっとぉ、ひどいじゃない! この間もそんなこと言って結局…!」
「夜は帰るって。こないだみたいにマンションで待っててよ、それでいいだろう」
「…『それでいい』って、何? あなたアレのことしか頭にないの?!」
 子供みたいなこと言うなよ。才谷は憮然とする。
「だってしたじゃない」
「そりゃそうだけど…! でも付き合うってそれだけじゃないでしょ? もっと色んな…! もっと…。
大体、あなたはいつも勝手すぎるよ!」
 「美香ちゃーん」
困ったように破顔して、才谷は机に頬杖をついた。
「どうしたの? いきなり」
「いきなりじゃない! あたしこの間はすごく惨めだったんだから! 一体あたしのことなんだと思ってるの?! 笑顔のビニル人形じゃないのよ! …結局才谷さん、ちっとも分かってない! あたしが毎日すっごくすっごく不安に思ってることも、どれだけ寂しい思いしているかって**も! あたしはあなたのために****慢してるんだか*ね!
*まに***たしの身**なっ***!
*******!!」
「はいはいはい、ご無理ごもっともでござんすよ」
 乱暴な言葉遣いが途中から「宇宙語」にしか聞こえなくなった。才谷は眉に皺寄せ、隙をついて静かに冷たい一言を見舞う。
「だったらこんな男、捨てればいいのに」
「―――――!!」
 言葉で喧嘩をして、彼女が勝てるわけなどないのだ。美香の見開かれた目に、みるみる涙が盛り上がった。
 「…分かってよ、美香ちゃん」
才谷は少し低い声になって続けた。
「ちょっと微妙な時期だから、君と汚い言葉で言い争いをしている暇はないんだ。
 夕食は、僕は、あのはんなりした関西弁の男と、摂らなくてはならない。君は、もしも、そうしたいなら、マンションの部屋で待ってなさい。そうしたくないなら、お家で、ご家族と過ごすなりして下さい」
 まるで小学生にお使いを頼んでいるみたいだ。子供扱いされたことを感じ取った彼女は、持っていた雑誌を力一杯才谷の腹に投げつけると、
「もういい!」
と叫んで部屋から飛び出して行った。
 「…やーれやれ…」
才谷は肩を竦め、貧乏くさい椅子を回して仕事へ戻ろうとする。が、ふいにキィと鳴らしてまた向き直ると、床に落ちた雑誌を拾い上げた。
 『特集 東京グルメMAP保存版』
「青山、青山と……」
パラパラめくると、吉祥寺のページが自然と開いた。美香が目星をつけたのだ。角が折ってある。
 高級イタリアン、ディナー三千円コース。
「安ぅー」
才谷はいつものことながら気の毒になって目を細めた。高級で、コースで、どうやったら三千円で収まるんだ。ウソ言うな。
「ワインとアンティパストまずいと肉に進む気なくなるのになあ」
 この雑誌が象徴している。同じ場所にいて同じ時代を生き同じ本を読んでも美香は吉祥寺に行って三千円の格安コースを喰らう。
そういう人間なのだ。







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