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Sentimentalizm ::::::
=3=








 「そんなこと女の子に言うたらかわいそうやんか」
干して小さな無花果をきれいな前歯で囓り採りながら、朱江は言う。
「まだまだ浪漫主義な年頃なんやから」
「ロマンティックなんていいものじゃない。センチメンタリズムというやつだよ、あれは」
「美香ちゃん、なかなかかわいいやん」
「俺が必死に改造したの。プラダ教の馬鹿信徒だったあいつを。『ブスが踏む地雷を遍く踏んでいる』クラスだった女から、やっと『よく見るとさほど美人ではない』クラスまで育て上げたの。でもCPUの性格までは変更できねえだろう」
 生ハムとメロンを摂りながら訂正する才谷は、風邪薬が口の端に残った子供のような顔をしていた。
「…あいつはプラダだけじゃなくって、愛だの夢だの幸福だのの狂信者でもあるんだ。
 …冗談じゃない。そんなもん最近じゃ『りぼん』にだって存在しないってのに。現代の冷め切った言葉でそんなの語ってもねー。
 その上自分の言ってることがいかに無駄か分かってるくせに、それを棄てきれないで八つ当たりをかますんだから、たちの悪い感傷主義だよ」
「ああ、自分そういうファンタジー嫌いやろ」
「そ、現実的でないものは俺は全て嫌い。大学じゃ社会科学全般をやったけど、経済学がその中でも一番性に合ったね。データと分析の学問だ」
学者の指でカールスバーグに手を伸ばす。
「もっとも、両親からしてみれば俺もえらく手ぬるい方なんだろうけどなー」
「親父さん何してはんの」
「昔からマディソンズ・ロイヤルで経営コンサルしてる」
 アメリカ企業が日本に進出する際、窓口となってきた老舗のコンサルト会社だ。朱江は口笛を吹いた。
「超高給取り」
「彼にしてみりゃ俺は経済学してるんであって、儲けてないってことになるのさ。仕方ないから俺は結婚で稼ぐ」
かちん、とフォークを投げ出し、才谷は椅子の背にもたれ掛かった。
「だから孝子ちゃんは欲しいんだよ。なにせあれは金ぴかの女だから…ま、その分コーマンチキだけど」
なにせ孝子に寂しひ思ひをさせないで、御機嫌やうだもんな。
「あんたはどう、拘ってる?」
 朱江は微妙な表情だった。
「まだ彼女と一度しか会ってへんからなんともな…。…ま、彼女本人の資質は置いても、充分に買いや思おとるけど」
「やっぱそうだよね〜。あれはおいしい株だ」
「女としてはどうやの?」
「分からねえけど、手は絹のごとし。インナーの下が荒れてるはずもないだろうな。世の中不公平だね」
「ふーん。…俺はそんな、今すぐ結婚せなあかん気がしとらんから、ここは見ないふりしても構へんよ」
「そう?」
「つーか柴崎さんとしては、やっぱアンタがええんと違う? 俺を引っ張ってきたんは、単なる発破やろ」
 …それにしては投資額が大きいな。と才谷は黙って目を閉じた。あの老獪な男は本当のところ、何を考えているのか。
「どっちにしても何らかの反応は返さなくちゃいけないだろうなあ。もー、みんなわがままで困るよー。忙しい時期なのになぁ、面倒くさい…」
 やっと卒論が片づいたと思ったら来学期の準備。原稿依頼もひっきりなしなのに、ばたばたしている時を狙ってこれだ。
「忘れてへんか、才谷。一緒に美香チャンとも別れなあかんのやで」
と、親切千万にも付け加えてくれる朱江に、才谷は目を閉じたまま上唇をめくり上げるようにして、
「忙しい時期なのに」
繰り返す。しばらくそのまま考え込むように流れるボサノヴァの恋歌を聴いていた。
 
  Eu quis amar, mas tive medo
  e quis salvar meu coracao
  mas o amor sabe um segredo
  o medo pode matar seu corcao
  Agua de beber, Agua de beber, Camara...


 それからむ? と突然目を剥き、ユニオン・ジャックに口をつけている、今日初対面の男を見返した。
「…俺、さっき親の話をした?」

  Agua de beber, Agua de beber, Camara

 顔を覆い、あちゃー。俺、酔ってるな。と続けた彼に、朱江は悪びれずにっこりする。
「全く、あんたが味方で良かったよ」
 恥をかいた才谷はため息と一緒にそう漏らした。彼には朱江の品のよさが羨ましい。きっとこの男なら、俺が苦労している雅文体も無理なく操れるのだろう。
ごきげんやう…、ごきげんやうって。




*




 彼と別れ、十一時頃マンションへ帰ると、部屋には灯りがついていて美香が一人床に座り込んでテレビを見ていた。
「WOWWOWで見たひ映画をやつていたのよ」
と、彼女の言葉はたどたどしい。
 …努力を惜しまない女だ。才谷はこういう時、目の前の女が心の底から愛しくなる。
「君のパパ上がもっとお金を持っていたら良かったのにね」
 柔らかいシーツの海に手探りで、いつの間にか外した眼鏡を求めながら、笑う才谷はそんな無益な幻想を語る。



*




 新年度の入学式が間近に迫った頃だった。
「分かってる」とぼやきながら仕事を怠けていた才谷は突然、自分が危険な道を歩いていることに気付かされた。
 すっかり仲良くなった朱江が、自分の端末に流れ込んできたメールをプリントアウトして、新学期の授業の準備にいそしんでいた彼に運んできたのである。
『……去年の夏以降、S助教授はその女子学生と性的関係を持ち……ても、その関係は師弟の枠と常識を超えてい……看過できぬ事態故に……私は意を決しここにS助教授を告発するものであります』
 「アナクロなことをデジタルにやりやがるなぁ」
才谷は呆れたように感想を言う。
「心当たりは?」
「多分、島田あたりだろ。お前が来て完璧に次期教授候補から外れた出来の悪いオヤジ」
片方の掌で見栄え悪く握り潰した。
「でもハゲオヤジのことはいいや…。今は急いで別のオヤジをフォローしないと」
才谷は受話器を取り上げ、短縮1番に入っている柴崎学長のラインを開いた。
 春のまどろみから叩き出されたその目は真剣で、時間に間に合うかどうか瀬戸際の航空券を予約するサラリーマンに似ていた。



*




 出かけていくと、状況は思っていたよりもずっと悪かった。
「孝子は怒つているよ」
柴崎は短く言う。
「申し訳ありません!」
革張りのソファで才谷は謝りっ放しだ。
「無論嘘だと分かつてはいるが、こういふ騒ぎになるといい気分はしないぢゃないか? ここのところ君が結婚に乗り気でないような様子もあつたと話していたし…」
「とんでもありません、学長…」
ヒヤリとしながら、才谷は必死に頭を働かす。
「…ともかく、孝子は悩んでるみたひだね」
 柴崎は肉付きのいい指に三個の指輪をはめた六十前の男で、近寄るとその年代の男性に特有の香りがした。黄土の色眼鏡の下に蠢く目は、教育者というよりも経営者のそれであり、事実大学の他では土地転がし、つまりゆすりたかりで財産を築いた男である。
 しかし、言葉は非情で厳しかったが、彼の態度にはどこか演技の毛色があって、それが才谷をほっとさせた。ひたすらに頭を下げながら、一体どこにその逃げ道があるのか密やかに探っていく。被災して、逃げ道を探す人ように一心不乱に。
「―――――才谷君。この際だから、孝子と結婚して大学を出なひかね」
 そこが非常口だった。才谷は求めていた緑色のランプにぶつかると同時に、驚いて目を見開く。
「は?」
結婚はいい。だが、後ろ半分は初めて聞かされた内容だった。
「…大学を出る、とおっしゃいますと?」
 その声に滲み出た不安に柴崎は得々としたらしかった。今日初めて笑みを見せ、
「いや君、何も首にしやうなんて話ぢゃないよ」
と、ぞんざいな調子で太い手を振る。
「民間にポストを用意すると言つてるんだ。…こんなケチの付いた大学に留まつて金にならなひ仕事をするよりも、ずつとマシぢゃないかね」
―――――才谷の頭の中で、瞬間全ての要素が連動を初め、信じられないようななめらかさで答えが弾き出された。
「学長…」
「心配しないでいひ。君の後ろは朱江君が立派に引き継ぐよ。そして君を受け入れるのは米資経営コンサルタント会社」
マディソンズ・ロイヤル・カンパニーだ。
「……」
頭の中で彼の声と答えとが唱和する。
 琥珀のようなレンズの向こうから、柴崎の目が才谷のどうしても若いそれを捕らえる。下唇だけがぺろりと落ちるように笑いに歪んだ。
「いひ話だろふ?」
才谷はその問いかけに、頷かざるを得なかった。



 柴崎は初めからそのつもりだったのだ。
跡取りは才谷、大学の看板は朱江と決めていたのである。多分、学会で朱江の才能に触れた瞬間に、そのプランが確定し、実働を始めたのだろう。
 才谷は娘と結婚させた時点で企業に入れ、経営の仕事と実践を通じて学者ではなく経営者へと育て上げる。才谷がいなくなったことで生じる大学の穴は、もっと大きな綺羅の石で埋めようと言うのだ。
 その夜、才谷が一人でマンションにいると電話がかかってきた。一年半振りの、父からの電話だった。
 学長にはきちんと返事したのか。分かつているのか、これがどういふことなのか。最後のチャンスをふいにスルナ。全くお前は呑気でいやになる。そんなことで人生を渡つていけると思っているノカ。これ以上私ニ恥ずかしひ思ひをサセルナ。
「……」
 才谷が黙っていると、やがて声が母に変わった。
「母さん」
彼女は一言、
「お父さんの言ふとおりにしなさい」
と、
「賢人」
と、彼の名を呼んで切った。
 コードレスの受話器を持て余したまま、才谷は刻限が迫っていることを知った。全ての甘えに決別して、真剣に勝利を掴みに行く、その階段の最初の一段が眼前に迫り、彼に選択を迫ってきたのだ。
お前は上に行くのか、下に行くのかと。
 才谷はその指で短縮1番に入っている美香の番号を呼び出す。それからそういえばこの電話機は彼女と買いにいったのだったと思い、無闇に高いものを買わない方がいいと彼女が言ったんだと――――毒にも薬にもならないようなことを思いだしてぞっとした。
 つまりそういうことだ。美香を選ぶということは家の中に安物の家具が増えると言うことであり、部屋が狭くなると言うことであり、ビールが発泡酒になり、輸入物のパスタソースがカゴメだかになり……、俗な言葉で幻想の幸福を語り、現実の些末なことで喧嘩をしあうということなのだ。
 …十数年掛けて注意深く築いてきたこの生活を犠牲にして、その世界へ凋落する?
 …だめだ。誰だって分かってくれるはずだ。そんな魅力は愛とやらにはもう残っていない。確かにそれは、昔考えていたよりもずっと気持ちのいいものである気がする。
 けれどそれに殉じてロミオがジュリエットを追ったくらい、そしてジュリエットがロミオを追ったくらいの力はもう、
もう―――――残されてない。
「もしもし…、…誰?」
 受話器の向こうで何も知らない「馬鹿女」の声が響く。才谷はゆっくりと電話機を持ち替えた。








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